単行のカナリア

感じて想する

目が滑る、頭が狂う

いま、空き時間にはノベルゲームをひたすらプレイしていてテキストを湯水のように浴びている。僕にとって文字を読むという行為は、いつも不安と隣り合わせだ。不安の発端は学生時代にさかのぼる。

あの頃、テストの成績によって親の感情のバロメーターが変化し、テストの出来によって食卓の雰囲気が平穏かお葬式に左右される日々を送っていた。僕にとって中間・期末試験はひとつの試練に他ならなかった。家庭内環境がひとえに僕のテストの成績にかかっていた。

ミスのせいで成績が悪くなったときは一日中会話がまったくない、なんてこともよくあった。この世の終わりみたいな顔よく見ていた。葬式みたいと書いたが、そういうときは葬式のほうがよっぽどいい雰囲気だった。

あるとき、出口が見えない日々のストレスが限界に達して、僕は文章を読んでも意味を掴むことができなくなった。目が滑る、という言葉の意味を身を持って知った。いくら文章を読んでも頭に入ってこない。焦る。それでますます集中できくなる悪循環を起こし、文章を読むことに不安に持つようになった。意識せずにしていた行為ができなくなるときの不安は恐ろしいもので、これは意識しないことが解決策になるのだけれど、不安のせいで意識せざえるえなく悪化の一途をたどってしまうのだ。まあどこにでもある悪循環。

その現象自体はいつの間にか治っていたが、いまだにあのときの不安は頭のどこかで生き延びている。

 

僕がプレイするノベルゲームは、いわゆる「シナリオがいい」と称される作品ばかりで、そういう作品はテキスト量が多い。面白そうな作品を目の前にすると、「どんな物語が待っているのだろう」という喜びと同時に「まだ文字を理解できるのだろうか」という不安もある。小説、漫画など文字からなる作品を消費しつづけてたが、いつも読みおえたときに安堵感があるのは不安から解放されるからだろう。不安があり、不安がなくなる、その行為が癖になっている。

一つの作品を読みおえた、その事実によって僕は安心を得ている。その安心感は持続しないから、またすぐに作品に手を出して不安と向きあう。まあ大体は問題ないんだけれども、それでも不安はしぶとく僕に警告しつづける。ただただうっとおしいだけ。

こうして、いつか文字を読んでも頭に入ってこなくなる瞬間を恐れつづけていて、なかば駆りたてられるように時間があれば文字を読みつづけている。部屋にある本やパソコンの中にあるノベルゲームが意味をなさない記号の固まりになったときを想像したくないのに強迫観念のように常に付きまとっている。

怖い。目が滑りつづけてしまうと、たぶんまじで頭が狂うとおもう。僕の生活はあまりに多くの文字に支えられているから。まじで怖いからどうにしかしてほしいが、解決策はたぶん暴露療法的に文字を読みつづけることだから、トラウマの消費期限が切れるまで不安と安堵を繰りかえしてやり過ごすしかなさそうだ。その覚悟はできている。しかしあと何年これをやればいいのか分からなくて、こんなことでいちいち右往左往するのがすっごいめんどうくさくてやってられない。が、読むのはやめない。