単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

家族計画の感想と「一人では生きていくことしかできない」の話


 「家族計画」というエロゲーをやっていたら「俺は一人では生きていく」「一人で生きていくのは寂しいです」 という問答があった。あと名言感がある「一人でも生きていくことはできるけど、それだと生きていくことしかできないんだな」との言葉。
  
 一人がどうこうの話、まったくもって他人事ではない話だけれど、ど真ん中の当事者なのに自分はあまりに危機感がないように思える。

 ここ数年、孤独に関するメッセージをよく見聞きするようになった。孤独死、未婚率など正確な数字を把握してはいないが、どうやら増加しているとの話だ。興味がある話といえば、薬物依存症から回復するためには人に依存する話や、自立は一人で生きるのではなくて複数の依存先を持つことの話。なるほどと思う。

 色川武文の「百」という本で「一人で生きると偏ってしまう。何をするにもすべて自分で判断しなければならない。その判断を繰りかえすことによって人として濃淡ができてしまう」といった台詞が出てきた。私は完全に一人で生きているわけではないけれど、通常は一人になることを好む性分なのでこの言説は深く納得した。たえまなく判断しつづけたことによる偏りは思い当たる。異常と認定されるほどの偏りではないが。
 
 こういう孤独とか一人で生きるとかはありきたりのテーマで、ありきたりだからこそどう表現するかをみんな苦心しているんだろうなーと思った。

 それで「一人で生きる」に関する言葉でもっとも気に入っているのが、THE BACK HORNの「シリウス」に出てくる「命は一人じゃ活かしきれない」だ。ああ、たしかにそうだよな。そもそも生物として他者を必要とする機能が備わっているのだし。経済、戦闘力、精神衛生などの様々な観点からしても一人より二人のほうが強い。正論。もちろんデメリットだってあるが(私のような人間はそのデメリットが致命的でつい孤立を選んでしまう)、それよりもはるかにメリットが上回る。

 振りかえってみると、私は命を活かしきれてないなあと思うし、活かさないよりかは活かしたほうがいいと思っているけれど、実際にどうすればよく分からない。というか、どうしようとも思ってもいない。なんというか、エロゲーは「人のつながり」を二重の意味で描いていることが多くて、それに影響されてかふと考えてしまった。いつもなら思考の俎上に上がることすらないのだが。なんにせよ考えてみると、自分はおそらく一人で生きることになるだろうし、そのせいで偏りつづけていくのだろう。その人生がどのような濃淡をみせるのか。それらの模様を俯瞰してみたとき俺の人生はどんな模様を描くのだろうか。こればっかりは自分で判断するのは難しいが、パッと見で迫害されるようでなければありがたい。

 家族計画のおおまかなストーリーは、欠けている人間が寄り集まって家族のような集団を作る、いわば単なる相互扶助計画を始めて、かんたんに切れてしまう「絆」を少しずつ何度でも紡いでいく。素晴らしい点は、主人公がかつて裏切られたことがあり、人間関係に臆病になっているから、安易な人間賛歌にはならず、「絆」の功罪ふくめて向かい合い、主人公が慎重になり葛藤するところ。恵まれた家庭や出会いのおかげで利害関係の先の領域をすでに知っていて気軽に向かえる人間もいればそうでない人間もいる。家族計画は後者の話。そんな人間がいかに関係性を発展させていくか、それははたして損得だけで判断してはいいのかと、主人公の価値観の変容が丁寧に描かれていた。
 
 とここまでテーマに注目していたようなそぶりを見せているが、家族計画の魅力といえば、他愛ないコミュニケーションが面白くて、なによりその中心にいた広田寛のキャラクターが最高だったところ。序盤はひたすらボケつづけてそのボケが面白いのなんのって。好きなキャラクターランキングで暫定一位になっている。しかし彼のボケだってツッコミ役の主人公がいてこそ輝いたのだし、つまるところ「一人でも生きていくことはできるけど、それだと、生きていくことしかできない」なのだろう、という強引な締め。