単行のカナリア

感じて想する

『自閉症と感覚過敏』を読んだ

 

 自閉症は、症状の集まりとして診断されている障害であり、症状の範囲についても、さらには関連する障害についても、大きな広がりを見せるようになっていて、その多様な障害をつなぐキーワードとして「感覚過敏」を用い、その説明モデルを解説するのがこの「自閉症と感覚過敏」。

 自閉症のモデルは多岐に亘る。かつては主流だった心理学の「こころの理論」や、認知化学のミニコラム神経構造の差異や、最近では腸内細菌が関係しているのでは、というニュースもあった。『<自閉症学>のすすめ』では、様々な分野の研究者が専門の分野に寄った説明モデルを提唱している。つまり、よくわかっていない。

 で、この本は、自閉症は「感覚過敏」が症状の主要因なのではないか、と説明を試みている。正直なところ、おれにはその妥当性がまったく分からない。自閉症という大きな謎を、「感覚過敏」というシンプルかつ深刻な特性をもって解き明かす。解き明かせたのだろうかはわからないが、「オッカムの剃刀」的シンプルな説明はおれはそう悪くもないんじゃないかと思った。

 自閉症当事者の自伝の中で感覚過敏について取り上げられることが多かったが、自閉症の診断基準の中に正式に現れるようになったのは二千十三年のことで、DSM-Ⅴが改定されたときに追加されたものらしい。

 本では、感覚過敏を分かりやすく図解している。

 感覚の拡大と停留。それぞれが、感覚の過敏性と鈍感性に対応している。大量の刺激を受けとってしまい、感覚のなかで刺激が拡大し、また停留し、そのせいで後続の刺激を受けとれない。ようは、感覚がアンバランスということらしい。

 あとはその仮説から演繹され、さまざまな自閉症の症状の原因が説明される。丁寧に論を追うようなものでもないので気になったところを箇条書き。

・「こだわり」は特定の感覚世界に没頭し、他の感覚情報を受けつけず、関連づけにくいことも関係しているにちがいない。

・同じ対象に注意を向ける行為は「共同注意」と呼ばれ、それが欠けやすく、言語獲得やコミュニケーションの不具合が生じる。

・人の顔のひとつひとつの部位に感覚が引きつけられ、それらの印象を統合した全体としての顔のイメージが作りにくい。

・感覚のアンバランスさは、感覚の時間的アンバランスさにも繋がる。物事を見るときに、視界への断続的な感覚入力となってしまい、一連の流れ、全体像を作りにくい。シーンが飛ぶパラパラマンガみたいなもの。

・外部刺激の圧力が強いと、それに圧倒されて受動的になり、自分自身の動きは作りにくくなる。

・生物学的要因→感覚過敏→こだわり→コミュニケーション障害

・コミュニケーションとは、人が人が同じ事物に注目すること(=共同注意)によって成りたち発展する。こだわりがあると、特定の事物を取り込み他を排除するため、共同注意によるコミュニケーションが成りたちにくくなる。

・感覚過敏は、広く用いられている診断基準の中にいまようやく含まれるようになった段階であり、まだ正当な位置づけがなされていないといえるだろう。 

・ある程度の感覚の敏感さは、他の人と共有できる範囲の中で表れるなら、むしろ有利に働く。それは情報をより速く、より明確な形で捕らえることを可能にする。

・過度に強い感覚過敏は、その感覚世界を他の人と共有できずに一人没入することになれば、コミュニケーション障害を生み、自閉症へとつながる。

・感覚過敏の特性が、過去に向きやすいならば自閉症、未来に向きやすいならばADHDという仮説。

・感覚過敏そのものは生物学的な原因。

自閉症児童支援について三分の一ほど書かれているが割愛。

 繊細さと鈍感さの二つの特質がうまく説明されているとおもう。感覚の拡大と停留が感覚過敏の現象である。この説明は当事者の一人として腑に落ちる。

 おれがなぜコミュニケーションを苦手にしているか考えたとき、おれが人の顔を見ていないから人の気持ちが分からない、という事実に気づいた。人の気持ちというのは、人の表情筋や目線、仕草などから発せられる非言語コミュニケーションを統合し、判断するものである。そもそも受け取っていないものは判断することはできない。人の気持ちがわからない。ではなぜ人の顔をあまり見なかったのかといえば、この本の説明を借りれば、自らの感覚世界に入りこんでしまっているから。それは感覚過敏があるから。そのように説明ができる。あと人の話も似たような経緯で、聞いていないことがある。

 おれの感覚過敏は、聴覚と触覚がその特性が強くでている。おれはひょっとすると赤子の頃に虐待を受けていて、このような刺激の受け取り方をしているのではと親を疑っていた時期があったくらいで、べつに虐待を受けたわけではなかった。騒音ノイローゼになったことがあり、NRR値33dbあるMOLDEXの耳栓をつけて、その上でヘッドフォンでシューゲイザーを流してどうにか耐えていた。その頃は、曲が変わるときにしばらく無音になるアルバムが大嫌いで、My Bloody Valentineの『Loveless』をずっと聞いていた。

 おれは専門家ではないから、自身の謎を説明できた気になればわりとなんでもよかったりする。そのとき『感覚過敏』の説明モデルがしっくりくるのだ。過敏ということはつまり比較的にそうなっているという程度の問題であり、これは、よく聞かれるようになった『HSP』にも適応できるかもしれない。

 おれはコミュニケーション問題にあまり悩まなくなったのは、相手に関心を持っていればわりとなんとかなるということだ。他人はおもしろい。おれではないから。それで、相手に関心を持つことができる。どうにか注意を引きもどすことができる。できないことも多い。 

 それにしても、感覚過敏。アテンションエコノミーとは、「人々の関心や注目の度合いが経済的価値を持ち、まるで貨幣のように交換材として機能する状況や概念のこと」というもので、現在はその傾向が強くなりつつある。ビッグデータに集約される個人の関心や注目、アルゴリズムによって先回りされレコメンドされる商品や広告。しかし、拡大し停留するこの感覚はコントロール不能で、どうにもならないという点においては、なにひとつ例外ではない。感覚過敏はもしかすると、近代資本主義社会への、アテンションエコノミー時代へのひとつの適応の形になりえるかもしれない、とか思い付いた。おれのこだわりは、おれにさえどうにもすることができないのだから。アテンションエコノミーとかよくわからん。

 

 

「抽送はポルノ作家限定の内輪の言葉」らしい

 ぽいじーにぽれをー。

note.com

 読んだ。ピストン運動を意味する「抽送」がポルノ作家の間で使われるようになった経緯についての記事。

 ……あれ? 抽送? 俺はなぜか挿送の方を覚えていて、このブログで二回ほど使用したのも「抽送」ではなくて「挿送」だった。

 確か『euphoria』というエロゲで使用されていたのを覚えているので確認してみたら、挿送だった。

 エロゲの大半が「シーン鑑賞」という名でエロシーンだけ読めるのですぐに確認できる。『沙耶の唄』にはない。

 他のエロゲでは、抽送という表現も見かけたような気がする。いずれにせよその意味はピストン運動と同じ意味なので特に意識はしていなかった。これらの表記のブレは、「注」と「迭」を間違えたように、「抽」と「挿」を間違えたのかもしれない。よく分からない。

 漢字は、それぞれが日常的に使用される漢字から成りたっていればだいたいの意味は分かると俺はかつて思っていた。全然そうではないことに真木悠介の『時間の比較社会学』を読んだときに痛感させられた。

 「形象」、「投企」、「存立」、「物象」、「対自」、「帰難」など、一般的に使用される漢字から成りたっているから大体の意味は分かるが、詳しく意味を説明するのは難しい。特に哲学用語の翻訳とい文脈があるときなんて、俺にはもう手が付けられなくなる。調べて理解したつもりになるのだが、すぐに忘れてまた調べることになる。

 インターネットでは所属確認のために特殊な語彙が使用されることがある。俺はそのどれもがうまく使いこなせない。配信のコメントくらいならば便乗できるが、せいぜいがそれくらいだ。

 だから、こんなところでブログを書いているんだろうな。

プラシーボ効果はすごい 『精神科医はくすりを出すときこう考える』を読んだ

 

 エッセイ本ではなく、科学と医学とくすりについての本である。さらに言えば、俗にいう「エビデンス」に依拠した本でもある。

 『精神科医はくすりを出すときこう考える』の内容を簡単にいってしまえば、精神科医がくすりを出すときの「証拠や根拠」とは何なのかというもの。また「科学的に証明されている」というときの科学的にとは医療の現場ではどういうことになるのか、臨床試験の結果をどう読み解くかといったことも説明してくれる。本中で引用される参考文献は、メタアナリシスというエビデンスレベルが最も高いとされる論文が主になっている。タイトルや表紙とは異なり、専門用語が頻出するお堅い内容になっていて読み応えがある。

 俺は精神科医の書くものが好きである。薬物療法向精神薬の話はかなり好きである。向精神薬についての本は数多くあるが、その大半が「薬を飲むな、その薬は毒です」という精神世界に分類される本だが、俺はそちらはあまり好きではない。『精神科医はくすりを出すときこう考える』はもちろんそのような本ではない。エビデンスの話で、もっぱら医療と科学の話になる。俺好みの興味深い話が盛りだくさんだった。

 この本の特徴は、著者が基礎研究に従事していたこともあり、エビデンスベースの薬物療法について語っているところだろう。基本的にEBMに則ったくすりの話が出てくる。

 EBMは「証拠や根拠に基づく」医学となる。そして「そもそも証拠や根拠というものには、確実性の強弱がある」という。これはとても大事だなと俺が思ったのは

 EBMとは、「入手可能な最も信頼できる根拠を把握したうえで、個々の患者に特有の臨床状況と患者の価値観を考慮した医療を行うための一連の行動指針である」

 の「入手可能な最も信頼できる根拠」という部分だ。その信頼性の担保するのは、もっぱら統計や疫学のデータとなる。

 精神科で薬物を使うときの三つの立場があるようで、

・薬理作用を重視する

EBMを重視する

・自分の経験を重視する

 というそれぞれの態度が濃淡をともなって混合しているらしい。本屋で平積みされているうさん臭い健康本は主に「自分の経験を重視する」態度だろうし、この著者は主に「EBMを重視する」態度ということになる。

 とはいえ、著者が精神科医になりたての頃、どのようにくすりの使い方を学んだかといえば「このような使い方をするとうまくいったことがあるといった、ある意味で名人芸的な処方が評価されていた」らしい。同じように、製薬会社が名処方が載っている小冊子を配っていたり、同僚どうしでは経験での薬物治療の工夫について語り合うように、エビデンスとしてもっとも弱い方法論が跋扈していたという。

 精神科医が書く本をいつくか読んできたが、だいたいの本が「自分の経験を重視した」語りでここまでEBMに依拠している内容はめずらしい。有用性、二重盲検ランダム化比較対照試験、バイアス、NNT(必要症例数)、相対リスク減少、メタアナリシス、オープン試験といった、科学の本でおなじみのワードを中心に据えて診療について語られる。診療ガイドライン作成方法については初めて知った。

  

 で、個人的に為になった抗うつ薬プラシーボ効果について抜粋。内容は、2014年のInternational Clinical Psychoparmacologyという雑誌に発表された論文による。

・試験薬や発売済みの抗うつ薬では、60%台なかばの患者さんが何らかの副作用を訴えていることがわかる。しかしプラセボでも50.8%である。

プラセボでも20%の患者が寛解している。一方で、抗うつ薬は40%弱。

 

 この研究結果をどう捉えるか、難しいところである。確かに、抗うつ薬は効果がある。だが、プラセボでも効果がある。その効果比をNNT、相対リスク減少などの指標で表すらしい。効果の指標を導入したところで、それはくすりを出すかどうかの判断基準そのものではない。あくまで判断基準の一つでしかない。さらに考慮されるのが、「病気の重症度、特徴的な症状、患者さんの薬物への希望や期待、想定される副作用、年齢や性別」などのさまざまな要因で、それとくすりの費用対効果比を突きあわせて、包括的に諸要素を鑑みて判断をしなければならないようだ。やはり「くすりを出すか」というのは悩ましい問題になるようだ。

 また、プラセボによる改善が強く出るのは、「痛み、抑うつ、悪心、不眠、喫煙、高血圧、不安、喘息、肥満、パーキンソン病などの神経疾患」などの病気や症状とある。そりゃあ、ホメオパシーを信じている人には「効く」わけだ。小阪井敏晶の本によれば、フランスではホメオパシーに健康保険が適用されており、その理由が保険費の負担を避けるためとある。ホメオパシーという薬用成分の分子が一つも入っていない砂糖玉も処方すれば「効く」というエビデンスは微妙な問題を招いているのだろう。

 だから、必要最小限度のくすりが難しい。

精神科診療所のホームページをみると、よく「くすりは必要最小限度で使う方針です」などとあったりする。その「必要最小限度」があらかじめわかっていれば、みなそうするに違いないのであるが……。

 NNTという指標をもとに精神科のくすりVS一般的なくすりをやっていて、統合失調症双極性障害強迫性障害の精神科のくすりは健闘していた。これらは、俗にいう薬物療法が一般的に有効される病状でデータとしてもそうなるのかと納得した。 

 あと印象に残ったのは、

精神療法家はしばしば「治療の目標は症状をなくすることでなく、よりより生き方を探すことである」などと患者に説明するが、少なくとも健康保険制度のうえに立てられているわが国の医療では詭弁である。医療は一義的には、症状をなくしてもとに戻してなんぼの世界である。

 タイトルは『精神科医はくすりを出すときこう考える』とあるが、ここまで考えていて処方されているくすりなら信用してもよさそうだと思ったが、おそらくそうはならないのだろう。なにせ精神科のくすりは本当に嫌われている。

赤松利市の『ボダ子』という小説で、こういうシーンがある。

淡々と話を進める担当医の再びの指示で、看護師が差し出した薬袋を手にした悦子が、強制退院を告げられたとき以上の叫び声を上げた。

「こ、こ、これはパキシルやないですかっ!」

 抗うつ剤をこのようなイメージで捉えている人はきっと多いだろう。だからといって、そういった人たちはエビデンスどうこうを問題にしているわけではないから、著者のように、メタアナリクスで発表された効果や、対費用効果比や 患者の個人的事情を考慮したうえでくすりを出してると分かったところで意味はあまりなさそうだ。

 それはEBMとは別の次元の話になるのだろう。私の身近にも、龍神の恩恵を受けるとすべてうまくいくと信じている人がいるが、この本のように高いエビデンスをもったデータから矛盾のない理屈を積み重ねて結論を導くようなやり方は信じていない人がいて、なんというか精神科医というのは大変だなと思う。

「通っているメンクリのお医者さんが○○と言っていたので(〇〇には誰もが思い付きそうなライフハックやアドバイス)」系のツイートがバズっているのをよく見かける。しかしそこにエビデンスはない。でも、それで一時期的でも気持ちが楽になれるのなら、それでいい。

 言葉や思想なんてのは生きるために乗り換えていけばいいわけだし。