単行のカナリア

感じて想する

俺は『明日、私は誰かのカノジョ』の四章を読んでやりきれない気持ちになった

  『明日、私は誰かのカノジョ』がめちゃくちゃ面白くて三章も凄かったが四章はもう最高なんだが!  


「明日、私は誰かのカノジョ」五巻。120P。

 

 そう!

 とりあえずざっとした感想を書いておきたい。少しだけネタバレがある。俺のテンションがネタバレをしている。つーか、皆さん読みましょう。シリアスだったりビターな人間ドラマが好きな人にはオススメしやすい。人生ってそうそう上手くいかないから不条理な人間関係にリアリティを見出してしまうような人だったらもう俺は自信をもってオススメしちゃう。 

 結局、昨日は徹夜になった。

 ゾピクロンを飲んでさて寝るかと就眠態勢に入ったあとに、好きなバンドが改名して再活動したのを知ってしまってテンションが上がってしばらく眠れそうもなくなり、それならと、最近ハマっている『明日、私は誰かのカノジョ』の四章を少しだけ読もうとページを開いた。そして、朝になっていた。

 俺はすっかり打ちのめされてしまった。このマンガにかなわんと思った。一章は実によかった。二章でさらに熱中した。三章は取材力の高さに感服した。

 そして四章だ。四章で、俺は『明日、私は誰かのカノジョ』はなにやらとんでもない作品だったんだな、と気づかされた。感想はしばらくまとまらないと思う。まだ読後に渦巻いた巨大な感情のなかでぼんやりしている。ぺらぺらと読み返している。

 四章は、 ホスト狂い、トー横界隈、承認欲求、「担当」という言葉の重み、あの日君に投げた声に復讐されてる、ストローで飲むダブルレモン味のストロングゼロ。鍵垢、「私ばっかりイカされちゃって悔しい~!」という明日から職場で使えるノウハウ、アルプラゾム、闘争領域の拡大。そして、キンタマキラキラ金曜日、天に登るような気持ちで地に堕ちる、生きることその不可避な売春性、Life goes on……。

 いろいろな感想が思い浮かんで消えていく。三章も引きこまれたが、四章はさらに引きこまれた。 

 俺は「生きづらさ」が主題になる本を好んで読んでいる。リストカットや自殺予防の本なども読むことが多い。それらの本に判を押したように出てくるのが「物や薬に依存するのではなく人に依存すること」という助言だ。四章ではもれなく、人に依存しなければ解消されない生きづらさを抱えた女性たちが登場する。彼女たちは人に依存している。それが金銭のやり取りを通した契約上の関係といえども、それも彼女たちが人に依存していることには違いない。しかし、その関係性というのは預金残高が見せる泡沫の夢でいずれ砕け散ってしまう。依存先は、金がなくなると消えてなくなる。金と人間関係。金が人を繋ぎ、また金が人を突き離す。金もまた主人公の一人だろう。

 

 なんだろうな、俺は特に四章になって気づいたが、このマンガに出てくるキャラクター全員を好意的な人物だと思っているかもしれない。雪とリナなんてもういつの間にか、ゴンとキルア、ガッツとグリフィスみたいな最強のふたりって貫禄すら出てきた。萌たゃ(どう発音するのこれ?)もゆたてゃもそう。ホストのハルヒや楓だって「お仕事でやってるだけ」「マニュアルにはめてる」だけだし。一瞬だけ出てくる客引きしているホストは「なんかわからないけど元気出してね!」って優しいし。想像力がない人間や無神経な大勢出てくる。が、「闇金ウシジマくん」に登場するような悪いやつらはいない。しかし、些細なボタンの掛け違えがあり、そこに彼女代行サービスやホストクラブやデリヘルといった人に依存できる高額なサービスが絡むと、体が心が擦り切れるような人間模様が浮かびあがってくる。

 まあ、そういう風に、『明日、私は誰かのカノジョ』はこれといった悪人は出てこない。他のマンガでは悪役になりがちなホストでさえも自分の仕事を全うしてただけ。掛け金を回収できないことは彼の死活問題だし。それゆえのやりきれなさがある。悪い人はいない一方で、悪い社会構造はある。確かにある。搾取という言葉が思い浮かぶ。俗にいう「社会の闇」というやつだ。その闇が覆っている場として、安易な自己責任論に還元することが疑問に思えて仕方ない、近代資本主義の落とし子の人間関係サービスが出てくる。このマンガ、なんか昔に読んだ社会学の本を思いだす。上間陽子の『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』や岸政彦の『マンゴーと手榴弾』、鈴木大介の『ギャングース・ファイル 家のない少年たち』の本のように。登場キャラクターの陰に隠れて前景化こそしてはいないが、うっすらと社会の構造が浮かび上がってくるようなマンガでもある。

 ほんと、このマンガは読まされる。俺の中でこれまで三章がもっとも評価が高かった。美醜、美容というテーマを、丹寧な取材でリアリティを積みあげ、そしてヒューマンドラマをきっちりと描ききった。これ以上の話はそう出ないだろうと油断していた。しかし四章が、やはり四章こそが最高傑作なんじゃないかと今は思う。五章はまだ読んでいない。萌たゃとゆあてゃについて思いを馳せてそこで立ち止まってしまっている。萌たゃってどう発音するんか分かんねえけど。

 なんというか、かなわんという思いがある。俺はこういうマンガに弱い。四章を読み終えたあとに、さて次!次!とはならなかった。朝五時半にゆあてゃ~萌たゃ~とか嘆いている気持ち悪い生き物になってしまった。「世の中って、むつかしいね」とゲームのキャラクターのセリフを思いだしてぐちゃぐちゃになっている。朝からみんなが揃いも揃って手にしてるダブルレモン味のストロングゼロを飲みたくなった。 

 とにかく俺が書きたかったのは『明日、私は誰かのカノジョ』の四章は最高だったということ。ネタバレになるから書かないが、四章の終盤でめちゃくちゃ好きなシーンがある。そのシーンをもう何度も読み返している。もし四章の感想を書くならば何度か読み返してからにしたい。一章の感想も読み返したら書き直したくなったし。リアルかどうかは知らん。あくまでクソ田舎に住んでいた俺からすれば、ホストも売春もしてた子も知り合いにいたという実体験があって、そうかけ離れていないんじゃないかと思っている。まあ、少なくともリアリティがある。現実と違う点といえば、マンガではあんまり悪い人が露骨に搾取するようなことはなく、穏当で遵法精神に溢れた世界のようにと思える。が、そのせいで、誰のせいにもできないやりきれなさがあるから、俺はやりきれない気持ちになった。

 あと萌たゃの発音がいまだに分からない。こうなっていたかもしれないという夢は金でも買えない。人生ってそうそう上手くいかない。ただ『明日、私は誰かのカノジョ』は面白い。

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似ている音楽、エロゲの劇伴、東灘のブックオフ、うるさい曲、サイサリ等の思い出話は余談

 こういう雑記は公開しないと決めているので、この記事も書いて満足してお蔵入りにしようとしていたが、Psysalia Psysalis Psycheについて書いているときに彼らが改名して活動を再開して曲をリリースしているのを知ってしまったのでやっぱり公開する。もう寝ようとして睡眠導入剤を飲んで睡眠態勢に入ったあとにバンド名が合っているか確認するためにググってたら再活動していることを知ってしまった。この記事を書いたおかげで気づけた。夜遅くに。再開した頃にサブスクも解禁したようなので、俺のお気に入りの曲を張っておく。

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 あとは余談。

似ている曲見つけたら人に聞いてみたくなる

 「この曲とあの曲って何か似ているなー」と思ったときは、とりあえずTwitterで検索して同じことを言っている人がいないかどうか調べる。なかったら、誰かに「この曲とこの曲って似ていませんか?」と聞きたくなるが、それだけで話が展開するわけでもないので、人に聞くようなことはしない。そもそも気軽に聞くような相手はいない。

 だから、ブログで書くわけだが、中谷美紀の『クロニック・ラヴ』と『さよならを教えて』のBMG『 I'ange a contre jour 逆光天使』が似ているなーと思った。コードやメロディーではなく、アンビエントかつピアノの使われ方の感じが似ている。

 『クロニック・ラヴ』で「さよならも今少しだけ/いつの日かきっと会えるだろう」という歌詞が出てくるので、やっぱ似ているなーという思いは強くなる。『さよならを教えて』のBGM鑑賞をするときに出てくる画像は目の中にバックボタンがあるのかわいい。

 

エロゲはクリアした後にBGMを聞く瞬間がめっちゃ好き

 エロゲはゲームクリア後にBGMを聞きながら頭の中で感想が湧き出るのに任せてボーっとするときがめちゃくちゃ好き。だいたいのエロゲでBGM鑑賞モードがある。ないのもあってそれはとても悲しい。

 俺がエロゲ、というかテキストノベルゲームを好きなのって、BGMの存在がとても大きい。まず無音でやることはない。音楽あってこそ。音楽のためにということすらある。エロシーンの存在はそこまで大きくなくて、Steam版やSwitch版がお得なときはそっちを買ったりすることが多い。俺がやるようなのはだいたい有名で移植されているから。でも、そうすると『マブラヴ オルタネイティヴ』みたいに、エロシーンが作中のストーリーに大きく影響するときに、やっぱ成年版を買えばよかったと後悔することになる。

 『さよならを教えて』は、ゲームプレイ中にBGMがよすぎてクリックする手が止まった唯一の作品かもしれない。至高のエレクトロニカばかりで、わりといまだにBGMを聞くためにゲームを何度も開いている。俺の大好きな竹村延和の『こどもと魔法』っぽい。

 いや、唯一の作品ではなかった。『沙耶の唄』のノイズ指数が高い曲はJESUとかGodspeed You Black Emperorっぽくていい。最初のシーンとか、かっこいいBGMと衝撃的な画像のせいでしばらくはボケーっとしていた。あと『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』はドストレートに名曲と呼ばれるにふさわしいBGMが多い。『夜の向日葵』とかわりとどこで流しても「それ、いい曲ですね」と言われそうな風格がある。 


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 特定のシーンだけに流れるBGMを繰りかえす聞くことによる心理的効果ってかなり面白くて、あるエロゲでは血肉が飛びちって臓物をまき散らし体中から液体のすべてが絞りでるようなグロテスクなシーンの専用BGMがある。それを聞くと、即座に神経がゾワゾワしてくる。なにやら緊張感がでてくる。あの曲(BGM鑑賞モードがなくてタイトル不明)、俺がかつて耳にしたことがある曲のなかでもっともグロい曲だと思っている。が、グロいのは曲ではない。ゲームだった。Maggot Baitsとかいうタイトルで、俺はせっかくエロゲをいろいろとやりはじめているから、なんか凌辱とか触手とか残虐とかそういうの詰め合わせみたいなやつで、なおかつストーリーも面白そうなやつやってみるか~でやることになったゲーム。「グロシーン きつい エロゲ」とかで調べて見つけた。なんかベルセルクの『蝕』をよりエロくして残虐にした感じというのか、ガッツとグリフィスみたいなキャラクター出てくるというか。物語そのものは魔法少女まどか☆マギカを百倍ほどエログロにしたような話だった。この後に「グロい」と言われているエロゲをやっても専用BGMがないから物足りなくなった。

中谷美紀は東灘のブックオフ店内BGMで知った

 中谷美紀を知ったのは、東灘のブックオフのだった。その時はめずらしくイヤフォンを忘れて付けておらず、店内BGMで「生まれてこなければ本当はよかったのにね」とアンニュイな曲と言葉が聞こえてきて、誰の曲だろうとスマホを開いて歌詞をメモした。そして、後日TSUTAYAでアルバムを借りて(そういう時代の話)聞くようになったのだ。そのとき購入した本も覚えている。大江健三郎の『万延元年のフットボール』と、高橋源一郎の『ジョンレノンVS火星人』。ブックオフ講談社文芸文庫が置いていることは非常に少なく、あっても数冊くらいで、このときはたまたま気になっていた本が二つもあり、しかも講談社文芸文庫の本だったからよく覚えているのだ。

ブックオフの文庫の並び方が変わってから行かなくなった

 ブックオフには以前はよく行っていた。神戸と大阪のブックオフはよく行っていた。難波や心斎橋でライブがあったときはできるだけ早めに現地に着いてブックオフに行っていた。

 だいぶ前からブックオフの文庫本の並べ方があまりよくないほうに変わっていった。以前は出版社ごとに並べられていたのに分野別になったのだ。厳密に振り分けられているならいいが、なんかもう雑としか思えない並べ方になっている。なぜその本がその分野になっているということが多い。はっきりいって機能してない。それでもう中古の本を探すならばAmazonマーケットプレイスでいいとなって、コロナ禍になったのもあって今ではあまり行かなくなった。正月セールやGWセールのときは行く。

 おすすめの店舗は、神戸の舞鶴ブックオフ。理由は駅から近くて広いから。三宮のブックオフは品揃えはいいがなにせ狭い。柱でジャマで商品を見つけにくい。京都のブックオフはもう覚えていない。大阪はあんまいいブックオフはない。尼崎のブックオフには五年間ほどシオランの『生誕の災厄』が売れずに残っていた。今は知らない。どれも情報は古い。

 三宮のブックオフハヌマーンの『REGASSIVE ROCK』が五百円で売っていて持っていたけど買って人にあげた。

うるさい曲しか聞けなかった時期があった

 騒音ノイローゼになっていた頃、部屋のなかで他人が出す音が聞きたくなくて、ひたすらうるさい曲しか聞いてなかった。シューゲイザーとかノイズバンドとか。アルバムの曲間で無音になるのを軽蔑していた。My Bloody ValentineLoveless』とかそれこそ何百回とリピートしてたし、あとJESUJESU』とかAmesoeursの『Amesoeurs』とかもそのために聞いていた。うるさくて、なおかつ耳をつんざくようなザラザラした重厚なギターノイズがよかったのだ。

 つーか、Amesoeursの『Heurt』めっちゃいい。疲れ切ったときに聞くと心が洗われる。ブラックメタルを通過していないからドコドコドコドコっていうドラムが違和感があるけど、それもまたいい。


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もう解散したPsysalia Psysalis Psycheとかいう最高のバンド

 うるさい曲で思いだしたが、Psysalia Psysalis Psycheは本当に最高のバンドだった。東京中のDisk Unionを巡ってインディーズ時代のアルバム、連作シングルやTシャツを買い漁ったものだった。そして、初めて観にいったライブで、彼らは突如、解散宣言をしてあっけらんとそのまま解散していった。アルバムのリリースツアーを観にいったと思ったら、それが解散ライブだったという衝撃的な思い出がある。これは絶対に忘れてはならないと、当時はライブレポを二回も書いている。そのおかげでMCや雰囲気を思いだすことができるので、ブログをやっていたよかった。サイサリばっか聞いていた頃に下北沢の駅前の回転寿司食ってたら隣にそのボーカルがいてビックリしたことがある。東京に住んでいた頃の一番のビックリエピソードがそれ。その後はしばらくは追っていたがあまりハマらなかった。

 

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 今、ほんとまさに今なんですが、この記事を書きながらPsysalia Psysalis Psycheについて調べたら、2021年10月に活動再開してるじゃん!!!!!!!!PSYSALIA人名義で!!!!!知らなかった!!!!!!!!!!!!ゾピクロンを飲んで睡眠態勢に入ったのに興奮して目が覚めてしまった。さっそく新曲を聞いているけどなにかよく分からないけどかっこいいなやっぱり!!!!! 

 あーこの感じがたまらない。かっこいいな。『Alone Ramone』はなんからしさがあるが、『千の太陽より明るい閃光』はめちゃくちゃいい。うわー、しばらく寝れねえ~~~~~~。関西にライブ来たときはマジで行きて~~~~。『Alone Ramone』みたいな掛け合いある曲ほんと好きなんだよな。ワイワイやっててとてもいい。テンション上がってしまって寝れない。


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沈黙という雄弁な言葉『明日、私は誰かのカノジョ』Episode 01 Killing me softlyを読む


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 『明日、私は誰かのカノジョ』は、俺がめっちゃ好きなタイプのマンガなのに今の今まで知らなかった……。タイトルとあらすじをパッと見て、てっきり「彼女レンタルサービスを利用したことをキッカケに次第に仲良くなっていくタイプのラブコメ」だと思っていた。だいたい合ってはいるけれどラブコメではなかった。

 ある時、俺は「トー横界隈」についてのいい本がないか探していて、ある本のAmazonレビューで「この本を読むくらいなら『明日、私は誰かのカノジョ』ってマンガがいい」と書いてあったのを見て気になり、ちょうどサイコミで30話無料お試しをやっていたのもあって読んでみることにした。

 まず、一ページ目から想像していたのと全然違った。虐待されている児童が将来の夢について書かされるシーンがいきなり登場する。えっ、表紙と全然違う……。笑顔でピースしている女の子はどこにいった。

 そういう感じの話なの?と驚きつつも引きこまれて、一話を読んだあとはもう貪るように読み進めていくことになる。

 一話に登場する、レンタルサービスを利用した客の「い…いやー、初めてこんな店を利用したわ…」「友達から聞いて一回試してみようと思って彼女をレンタルしたとか話のネタになるし?」というセリフからもうすでに面白い。人間が生き生きとしている。その客は、聞かれていないのにごにょごにょと言い訳がましいことを語りはじめるわ、そのまま雪に手玉に取られてサービスにずぶずぶとのめりこむわと、はじめから容赦がなく人間の生々しさが切り取られる。

 とくに客に「また会いたい」と言われた雪が、沈黙という言葉で契約上の関係だと指摘するシーンの、絶妙なコミュニケーションのやり取りはグサっときた。あえて何も言わないことによってめちゃくちゃ語っているという。無言の笑顔で間違っていると指摘されるのは怖くないですか? 俺はとても怖い。

 自分が体験するとなると怖いが他人事なら楽しいという……。正解だったら「嬉しい!」とすぐに反応されるのが怖いしまた他人事なので楽しい。

 で、ここからのあらすじが、彼女代行として偽りの人間関係を演じることで日銭を稼ぐ女子大生の雪が、友人に見栄を張ってしまったがために偽恋人役を頼むべくレンタルサービスを利用することになった壮太(一人の青年)と出会うことで始まる。こっちが本編。意外と空気が読めるさっきのおじさんはあんま出てこない。

 そこで、イケメンで優しそうで将来性がありそうな好青年の壮太が出てくるのだが、初対面なのにさっそく雪と壮太の価値観の分かり合えなさが露呈してしまう。しかもよりによってパーソナリティーに深く関わる価値観で。

 あらすじから察すれば、このふたりは結末こそ不明だが、それなりの仲になるのだろうと予想される。しかし、ふたりはこの壁をどうやって乗り越えるのかだろうか。ここまで克明に、雪の家庭環境が機能不全家族であったことを一ページ目で描写したあとで、「母の日」を毎年ちゃんと祝ってそうな理想的な家庭で育った壮太との間にある、巨大な壁をどのように? これは、この物語は、どう転んだとしても中途半端なことには決してなるまい。と確信し、読めば読むほど『明日、私は誰かのカノジョ』の人間模様に引きこまれ、もうすっかりこのマンガのファンになってしまった。

 『アスペル・カノジョ』でいうところの「見えている世界が違う」という人間関係のわかりあえなさ、むずかしさが描かれているのだ。その最たるものが家庭環境だろう。その話題は、最も身近で最も多様なせいで、突きあわせたときに価値観の差異が浮き彫りになってしまう。常識が通用しない。

 さらに、ただでさえ共感するのが困難な価値観なのに、雪が虐待の跡を化粧で隠すシーンに象徴されるように、このマンガは「見えなさ」を強調しているから、さらに分かり合えなさが加速する。そもそも見えないから相手には分からない。だからといって、分かってもらうためには、醜いもの(と自分が思い込んでいる)を見せなければならない。そのせいで、同じ映画を見ているのに、正反対の感想が出てきたりもする。もう、なんというか、「ありのままの自分を受け入れてもらう」ような物語ではないのだろうこれは。「本当の私」というのが、見せたくないから化粧で隠し、そもそも見てきたものが違うから目につきにくい、と二重のフィルターでかかっていて見えにくい。分かってもらえない。やりきれない。そういう話になるのだ。 

 俺はまさにそういう人間関係がある物語が好みだから、『明日、私は誰かのカノジョ』にドハマりしたのだ。「本当の私」なんて言葉は青臭いと思ったところで、このマンガは青臭さ(=若さ)を意図的に演出しているから用意周到ときている。よくできている。おもしろい。

 

 ここからはネタバレあり感想。

 主人公の十八歳という設定が活きていた。レンタルサービスの利用者の男性に比べると、雪は圧倒的に若い。やっぱおじさんって肌汚いよなぁと嫌悪するくらいに年齢差がある。この作品では十八歳は若いということが意図的に描かれている。それもあって「本当の私」という言葉もするっと出てくる。そのつどの関係性に合わせて私(ペルソナとか言うやつ)が変化するのは当然で「本当の私」なんて存在しない、と割り切ってはいない。若いからそうなっているという話ではなくて、この話ではそうなることが「若さ」に含めている。全体的に作者のシビアな眼差しがあるような気がするのだ。

 雪は若さゆえの頑なさと、そしてしなやかさもある。そのおかげで、雪が壮太に対する思いに揺らぎがあるからドラマが生まれる。結果として、決別してしまったけれど、雪は壮太との触れ合いを通じて心がまったく動かないわけではなかった。結果から振り返ってみれば、契約上の関係の一線も、初体面時に雪が壮太に対して引いたあっち側とこっち側の線も超えることはなかった。途中までは、壮太が線をまたぎそうではあったけど。そうはならない。

 俺も小学生のときは、将来の夢を書くときに親が言ったことをいかに正確に書き写すかというテストでしかなかったのもあり、どっち側といえば雪の側になる。「母親を大事にしないやつ許せない。軽蔑する」とか言いのけるやつの、その想像力の貧困さと無知を誇る態度を目にしたら軽蔑してしまう方だ。というか、あの序盤の雪に決定的な違いを痛感させたシーンは壮太がうかつすぎだろう。控えめにいえば、親子関係が良好なのは一般的かもしれないが。それが常識とまではいかないだろうし。(でも壮太はここで終わる男ではなかった!)

 雪は内心でこそ雄弁に自分と環境について語っていて、がちがちの殻にこもっているように思えたが、壮太に素顔を見られた途端に内面を語りだしてしまう不安定さがある。そこらへんにリアリティというか、人間味というか、若さというか、割り切れなさ というか、そういう諸々を感じた。というか、雪は孤独を認識しているけれど、どうにか術がないから放置してしまっているだけで、そもそも友達思いだし。

 それで、雪に面と向かって軽蔑するとまで言われた壮太が、心が折れずにサービスを利用して申し訳なさそうに顔を合わすシーンがほんといい。雪に「なんで?」と思われて、俺もなんで?と思った。ドラマだったらその一つの前のコマの「一週間の一日だけ、私は誰かの彼女になる」でEDになるだろう。でCパートでそのシーンが出てくるのだ。そこまで第一話なのだ。そんで壮太のことが少し好きになる。

 ここからは壮太の快進撃が始まっていく。なんやかんだでいい感じになっていく。「心から」とか「本当の」とか、ちょっとすべてを求めすぎではと思わなくもないが、それも壮太なりの愛だからどうしようもない。壮太に多少はヒロイックな感情もあったのだろう。ラブホ街に行ったところで、いや壮太はそういうやつじゃないのが分かってるから何も起きないで、じっさいに何も起きない。ただのやらかし。しかし、壮太は雪を旅行に連れていった大胆さのわりには、行き先のどこも営業外というミスをやらかしたのは意外だった。壮太ってめちゃくちゃ下調べしてそうなタイプなのに……。壮太は想像力のなさを軽蔑されるが、どうやら計画性もないらしい。でも甲斐性には満ち溢れている「いいやつ」には違いないのだ。

 やっぱ、壮太は良くも悪くも普通なんだなと思った。健全な家庭環境で育った善良な人間なのだ。旅行先の旅館の広縁で会話したとき、壮太が雪の嘘の告白を聞いたあとに「どれも本当の雪ちゃんじゃないの…!?」と言い放ったセリフは絶妙だった。雪にとっての重要なワードが飛びだしてくる。しかし、その言葉を、雪がどう受け取ったかのかは直接的には描かれない。雪からは沈黙という返答がなされる。一瞬は揺らいだのかもしれない。壮太と接した自分もまた「本当の私」だったのではないかと悩んだのかもしれない。が、結局は二人は結ばれることはなかった。そういえば、雪が「今までの家族エピソードは嘘だった」と告白したときも、特には虐待を受けていたことには触れていなかった。あっち側とこっち側という線は引かれたままで変わらなかった。

 それで最後には、一話と同じように、雪は壮太もあくまで顧客でしかなく、一時期的なレンタルサービス上の関係性であることを強調し、告白を断って、壮太をNGリストに入れて決別することになってしまった。で、『明日、私は誰かのカノジョ』になるというタイトルコールになって、雪の日々は変わらずにつづいていく。

 ……いや、マジでいいドラマが繰り広げられていた。雪の映画評の「人生ってそうそう上手くいかないと思うし……世の中の不条理さが体現されてる作品だったなって……」ってままのマンガだった。今もゆっくりと読み進めているが、いまだにこの一章が一番好きかもしれない。一章は、結局は雪は「誰かのカノジョ」でしかないっていう、タイトルのままなのがやり切れない。 

 ちなみに俺がもっとも共感したシーンが、雪がでっちあげた家族のエピソードを話して自分で言っててダメージを受けるところ。あれ、ほんとよく分かる。親子が仲がいいのが当たり前と思っている人に説明するのが面倒ででっち上げることが俺もいまだによくあるから。

 まあそういう俺個人の共感とはあまり関係なく、『明日、私は誰かのカノジョ』は人間ドラマとしてすばらしい作品なのだ。