単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』を読む

 

 俺が自信をもっておすすめできるアスペルガー症候群の本が『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』。当事者エピソード、理論的枠組み、コミュニティにおけるつながりの問題点と作法。オープンダイアローグ、当事者研究べてるの家発達障害に限定することはなく、マイノリティ全般に関するつながりを志向したすばらしい本だと思っている。

 そのせいでKindleで読みながら「この文章はメモっておこう」と黄色と青色のマーカーでハイライトしたら該当箇所が多すぎてずいぶんとカラフルな本になってしまった。

 第一章アスペルガー症候群の当事者による語りになる。

どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ 

 これは、まさに『自閉症と感覚過敏―特有な世界はなぜ生まれ、どう支援すべきか?』による感覚過敏説明モデルに当てはまりそうだ。感覚の拡大と停留による、感覚飽和が特徴の根本にあるという説だ。

 それにしても、語りは饒舌だ。自分の症状をすらすらと言語化している。自分の不可解さに悩みつづけ、それを人に伝えるために言葉にし、あれは違うこれも違うと言葉を磨きあげてきたのだろう。ワープロを親から借りて「わたし」と対話するためにひたすら文字を打ち続けてたとある。それが大きな影響をもたらしているのだろう。 

 語りのなかであった、自分ではうまくいっていないのに周りからすれば「普通に」見えることが余計にズレを感じさせるというのは分かる。

とはいえ人から見ると、可もなく不可もなくという範囲で「普通に」動けているように見えることもあるようで、私の感じる混乱と恐怖ほどには、私が身体をうまく扱えていないように見えないらしい。そのような自分の感覚と他者からの見え方のズレによって、ますます私はモノとの関係からはぐれていったのである。

 この本は、綾屋紗月と熊谷晋一郎の共同著書に当たる。俺はやはり熊谷普一郎の言葉が好きだ。明瞭で力強い。説明ならば分かりやすく、主張ならば頼もしさがある。

 

 第二章で、脳性まひの彼は、母と密室的な関係性のなかで、生きていく上で外界とのつながりを阻害する二つの幻想が膨れあがったという。

 健常者幻想は、「いまだ至らない、不完全な私の身体」というイメージを突きつけ続けることで、自己身体についての信頼、つまり自信のようなものを奪い続けるし、「厳しい社会幻想」は、「無理解で無慈悲な恐ろしい世界」というイメージを突きつけ、「なんとかなるさ」という世界への信頼を損なっていく。

 「健常者幻想」と「厳しい社会幻想」は、多くの密室的な家庭環境で充満していそうとおもった。「ちゃんとしなさい」そうしなければ「やっていけない」という言葉で囲い込み、親が子どもを自らが望むものに仕立て上げるために躍起になる。そういう話ならばめずらしくなさそうだ。そして、子どもが挫折し、「ちゃんとできずにやっていけなさそう」になるのもめずらしくない。俺とか。

 とはいえ、筆者は親が加害者というわけではないという。

「健常な動き」「子供のために尽くす母」という規範的なイメージこそが、最上流に位置する加害者なのだ。規範的なイメージは、大人同士の相互監視によって維持されており、すべてはそこから流れ出す。

 そうだろうなとは思う。そう納得できればいいなとも思う。規範的なイメージのことを俺は小さい頃は「世間体」と呼んでいたが、そのイメージは人を傷つけるのだ。そのイメージを体現することが叶わない人達を。規範的なイメージが加害者になるとき、その共犯者は「常識的に」という言葉だろう。

 

 第三章の、綾屋紗月が「アスペルガー症候群」と診断名をもらい、それによる変化が書かれていた。

また、帰りの電車の中では、私から離れていたに二歳、四歳……十六歳、二十三歳、の私が、一体ずる私のところへスーッと集まってきて私の体の中に吸い込まれていくような感覚になった。「自分の存在」や「周りで起きていること」に意味づけができず、その時その時で断片化した記憶となってしまっていた「過去の私」が、一つの時間軸上に並ぶようにして「現代の私」に統合されていく感じだ。電車を降りてからは「そのひとつひとつの過去の私をすべて許していいんだ」と感じた。そしたら感動して少し泣きそうになった。

 俺は診断名がついたときも、そして障害者手帳を手に入れたときも、特に何も思わなかった。それまでに「毒親育ち」とか「アダルトチルドレン」とか「複雑性PTSD」とか、統合してはその衣装を脱ぎ捨ることを繰り返してきたせいで、もうよく分からなくなってきたからだ。今もそうで、発達障害という概念が俺を統合してくれることはない。ただ、説明できなかった部分に言葉を手当てすることができ、それによって生きづらさが少しは減っている。

 で、彼女は診断名がついたあとに、まず同じカテゴリーの当事者に合うことを欲したようだ。仲間が欲しかったらしい。ここで俺との決定的な差異がある。俺はその診断名によって自分のことを説明するための言葉をさらに貪欲に探すようになった。でも、今思うと、それを一人でやるより人とやったほうが効率がよかったのだろう。

 彼女はコミュニティに参加し、そこで安楽の地でないことを身をもって知る。「本物のマイノリティ」か問われるまなざし。学歴や年収は職業的ステイタスや配偶者の高低や有無によって分断線が引かれる。同化的・排除的圧力の息苦しさ。彼女も「とはいえ、あなたは配偶者がいるからいいよね」と言われてそうである。インターネットでは理解のある彼くんという分割線を引くことがブームになっている。俺も年収一千万円のマイノリティがコミュニティにいたら「俺とは違う」と分割線を引く。どうしたって引いてしまう。「差異を過小評価すれば個の抑圧につながるし、差異を過大評価すれば連帯が損なわれる」はその通りだろう。

 

 第四章は、当事者研究についての理論的枠組みが詳しく説明される。

当事者研究というのは、「『わたし』が『私』のことを記述したり解釈したりする実践」だと言える。

 もしくは、   

「自分の苦労の主人公になる」という体験であり、幻覚は妄想などさまざまな不快な症状に隷属し翻弄されていた状況に、自分という人間の生きる足場を築き、生きる主体性を取り戻す作業である。

 当事者研究では、「治療の論理」でもなく「運動の論理」でもなく「研究の論理」を持ち込むことが重要で、「当事者研究」というからには、個々の当事者が日常実践のなかで得た身体感覚や苦労のエピソードなど、多種多様な一次データが必要になるという。

 そして、一人で研究しても片手落ちになる。

自分個人の体験は見通しを持って自覚しづらく、「あなた、あの時も同じことしていたよね」と人に指摘され初めて、自分の体験世界のなかにある長期的な反復構造に気づくことはよくある。

 ……ええ、俺も本当にそう思います。「体験そのものは本人がいちばんよく知っているが、その解釈については本人がいちばん知っているとは限らないから、仲間の存在が必要になる」ええ、それもそうなのでしょう。仲間。仲間の存在が必要だって……。

 このとき出てくる理論的枠組みについては手に余るので紹介しない。「構成的体制」や「あたふたモード・ぐるぐるモード・」などの言葉で詳しく説明されている。 

 

 第五章は実践編。綾屋紗月が当事者研究にはじめて参加したときのエピソードが書かれ、読み物として面白い。例えば彼女が参加した「ダルク女性ハウス」での体験をまとめるとこんな感じらしい。

 時間になって司会が、初参加の彼女に自己紹介を促す。次に司会の指示に従いならば、参加者が順番にグループのリーフレットを読み上げる。読みおえたあとに今日のミーティングのテーマ(この日は「先週一週間」)を決め、「言いっぱなし聞きっぱなし」のルールのもと、参加者が順繰りにそのテーマに沿って語っていく。唯一のやり取りは、自分が話す番になったときまず最初に「〇〇です」と言い、その場にいるから全員から「〇〇~」と儀礼的な応答があり、話し終わった司会者が「ありがとうございました」ということだけ。 

 ただ人の話を聞く、ただ自分が話すということによる、言葉をめぐる作用が興味深いものだった。

ひとつの「個人の語り」がいったん部分へと断片化され、断片のうち引用回数の多いものが「仲間の語り」として、メンバーひとりひとりの記憶のなかに登録される。

 少し違うが、俺がブログを書いて人のを読んでいるとき、そのような感じがある。「人殺しの顔をしろ」「ラーメンが獣臭い」「人生をかけている」。ダルク女性ハウスのあるメンバーがいう「人の言葉が感染してくる」も分かる。ブログのこの感じを、さらに即時的かつ双方向的な、空間と時間軸が凝縮しているのが当事者研究なのだろう。同じくブログでいえばその場その場で、人が書いた記事を聞き、自分で書いた記事を声に出して読むとすれば、さらに近いものになるかもしれない。……多分。

 そして最後にはタイトルが回収される。

 つながりの作法とはつまり、「世界や自己のイメージを共有すること」。「実験的日常を共有すること」。そして「暫定的な「等身大の自分」を共有すること」、「「二重性と偶然性」で共感すること」

 共有したり、共感したりする。共に。

自分に起きていることに対して、何か具体的な対処やケアが必要だったわけではなく、共有されることが解決法になるという局面が実は案外多い

 共有されるだけ解決されるというのはよく分かる。「明日、私は誰かのカノジョ」というマンガでは、家庭環境の違いによる分かり合えなさが描かれていたが、個人の解釈や意味の枠組みを通すまえに、そのまま共有することができればより寄り添えたのだろうな、と思されるシーンがあった。同情は理解ではない。解釈の押し付けだ。共感からはもっとも遠い。

 

 第六章は、「痛みが静かな悲しみに変わるには、数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらわないといけないですね」という言葉が胸に響いた。華倫変の『カリクラ』というマンガの短編に、中三の頃に空にフワフワ浮かぶ袋を追いかけていったら地元のヤンキーが吸ってたシンナーの袋でフクロにされてシンナー吸わされて中毒になってしまったキャラが出てきて、そのキャラは職場で「私は中二の頃まではごく普通の……」と毎日毎日その話をするせいで十日ほどで誰にも相手にされなくなり、職場のスミでシンナーを吸いながらミニテトリスをするようになってしまうシーンがある。数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらうのはとても難しい。そのためのつながりの作法、当事者研究のコミュニティなのだろう。

 

 ここまで四千字弱。これでも全然内容に触れることができていない。熊谷普一郎が述べた理論的な内容については感想では省略した。彼はあとがきで「ひとりで見る夢は悪夢でも、それを仲間と分かち合えばつながりになる。きっとあなたに必要なのは、そんな夢うつつの夕暮れ時を一緒に過ごす誰かなのではないだろうか」と書いた。あまりに温かく、あまりに私的な言葉ではないか。こういう言葉がさらっと出てくる感性があるから、俺は彼の文章に惹かれるのだ。そして、俺が読む本の巻末にインタビューでよく彼が出てくる。書くこと言うこと納得するしかなく、信頼が厚い。そしてたまにある詞的な表現にノックアウトされるのだ。『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』は俺が自信をもっておすすめできる本だ。

『発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること』を読んだ

 読書メモ

 ゆで卵とスプラとおっぱいが例えで出てくる、DCD特性が強くある発達障害当事者の精神科医が書いた本。広くいえば、発達障害と診断する、説明する、名付けることの意味について、精神医学理論に依拠しながら、ときには例えや実体験を織り交ぜて書いている。発達障害を診断するとはどういうことかを深掘りしている。人を特性やスペックをもって「あの人は〇〇だ」とカテゴライズすることの功罪なんかの話も出てくる。

 はしがきの「精神科医はどうして生業としてその精神科医をする時に、心を了解することを時として断念しなくてはならない場面に直面するのか」を、具体的な症例の中で解説していく箇所はとても面白い。了解を断念しなければならない症例では、オープンダイアローグについて懐疑的な意見が出てくる。俺がこれまでに読んできた本では「オープンダイアローグ」信仰というぐらいの内容ばかりだったから、この本を読んであらためて相対的に捉え直すことができた。 

 第一章の筆者の学生時代のエピソードで、発達障害にさまざま特性が組み合わさって生じるのことは生存に有効だったのでは、という指摘はユニークだ。

重複したこうした(ADHDASD、DCD)脳スペック特性を持つことの多くの場合は、生き残りには不利な形質として報告されているわけですが、発達障害と呼ばれているいくつかの脳スペックが組み合わさって出現することが少なくないのは、案外、組み合わさって出てきた方が、生き残れる確率が高かったからだということではないのでし ょうか

 発達障害ADHDとADDの特性が重複して現れることで適応を促していかもしれない。……なるほど。筆者の例では、ADHDやDCDの傾向性で周りから顰蹙を買っていたかもしれないが、軽いASDによってそれが自身に伝わりにくかったかもしれないとある。というか、筆者「みんなに愛されている」と思い込んでいたらしい。かくいう俺も幼少期は「母以外には愛されている」と思い込んでいたおかげで人と関わることが(相手からどう思われていかは分からないが)好きでそれが救いになっていたからなにかしら頷くところがある。

 で、発達障害について。

さまざまの発達障害に関しても「障害」という名前はついていますが、そのスペックに適した環境に置かれていないが故の不適応と考えた方が、病気だと考えるよよりもはるかに実態に近いと考えていただく必要があります。

 まあ、これだけならよく目にする意見だが、その例えとして持ち出されるのが車だった。これは初めて目にした。田んぼのあぜ道にスポーツカーでも高速道路で耕運機でも同じく不適応というような例になる。なるほど、分かりやすい。そして、「何が生物学的スペック」として優れているのを優劣をつけることは実際にはなかなか難しい。もし発達障害者が圧倒的多数派の社会があれば、定型発達者が「障害」になってしまうかもしれないif世界。

 ADHDの特性の一つとして「知識が軽い。好奇心に駆られて知識を求めるから、他人に知識を披露する動機が「どう? これおもしろいでしょ?」であって、「僕はこんなことを知っているよ」というマウンティングをしない。だから軽い。」というのがあるのでは、という意見はめちゃくちゃ分かりみ深い。俺が「あれとこれ似てる!」とか「あれでこれ思いだした!」とよく書いてしまう理由がおそらくそれ。

 第二章、は「診断」されるということ。私は男です。私は右利きです。私はADHDです。というスペックがどの程度「私」なのかという問いから始まる。「ユダヤ人」という名付けの歴史的な変移を通じて、属性の本質について考えている。

 ある特定のスペックは人を「分からせてしまう」とある。

つまりこれは何らかの形で相手に自分のことが勝手に「分からせてしまう」ことだとも言えます。「分かれてしまった」のは、その人の行動原理かもしれませんし、遺伝的な違いによる何か「自分たち」とは根本的に相いれない心の成り立ちといったものかもしれませんが、いずれにしてもその名前で名付けられた人たちの言動は、すべて一つのキーワード、あるいはASDならASDという一つのキーワードで説明され、たとえ何か一人ひとりに差異が残っていたとしてもそれは取るに足りない何事かとして処理されてしまうことになります。

 このことはまた「その人の属性をはぎ取ってその人の本質として前景化してしまうかもしれません」ということでもある。当たり前っちゃ当たり前の話なんだけど、例えば身近でない犯罪者についてや、またニュースで見聞きした遠い国の出来事に対してはは、ついやってしまいがちな判断ではある。予測可能性・ヒューリスティクスが問題にならないときは、特にそうしてしまいがちである。認知資源節約のためか、認知機構がそうなっているのか、簡単に人を一つのキーワードで処理してしまう。可視的かどうか、あるいは一過性の状態か持続的性質かがそれに深く関わってきているという話。 

 あとちんちんの話も出てくる。一つのキーワードで処理するって話といえば、ごくまれにちんちんというキーワードで人を処理するような人もいる。ちんちんは可視的で持続的性質だし……。付けくわえて、可視的なスペックで人を規定してしまうのは差別に繋がりやすい、は確かにそうだろう。

 これは重要だろうなと思ったところ。生卵からゆで卵と、血液型の二種類の診断の話が出てくる。前者はそもそもが「物理的な明快な境界線を引くことの構造的不可能性がある」。生卵はいつからゆで卵になるのか恣意的な線引きをしなければならない。一方、血液型は、糖鎖の末端についているものの違いという定義があり、「金本位制における兌換紙幣のように実体を担保する物理的な裏付け」がある。診断にはこれら二種類があり混乱しながら用いられているようだ。ここを読んで、俺はうつ病を思いだした。「うつ病は脳の病気」と言うけれど、あくまでモノアミン仮説であって、広く了承されている責任病巣はなく、現状は恣意的な線引きもされている。だからって甘えまで線を引くぐらいにやりすぎな人もいるが、「うつ病は脳の病気」には二種類の診断が混乱して用いられている。

 「病気」「障害」として捉えることの功罪。

いずれの場合も、脳のスペックによって一連の行動が説明された結果、一連の行動がその行動をとる個人の責任から切り離され、極端に言えば故障した冷蔵庫と同じ扱いを受けることになったものです。

 小阪井敏晶の『責任という虚構』でありそう。免責としての障害、救済措置としての障害、共同体の異物認定としての障害……。

 そして、功罪の罪。

しかし他方で、そうした配慮は、自分たちとは違うそのような「種」として、脳のスペックの違いを生物学的決定論とみなし、「私たち」と「彼ら」に世界を分割し、説明されて「分かってしまった」存在と「彼ら」をみなし、それ以上の対話を打ち切ってしまう危険と表裏一体です。

 第三章は、筆者の「自分の気持ちが解決積みの問題として通り過ぎる」ことの違和感に端を発する論で、精神医学の理論的な話が多いの飛ばす。ここで「了解」という言葉に大きな文脈が与えられる。説明でもなく理解でもなく、了解。

 あ、一つだけ書いておきたいのが、「スプラする」という文章だ。俺はそれを見るとついスプラトゥーンのことを思い浮かべてしまう。

グルジアには、スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会があります。自家醸造したクヴェブリワインを手にさまざなの食材を用いて作った料理をテーブルいっぱいに並べてポリフォニーの合唱を時に交えながら、タマダと呼ばれる進行役の主催者が繰り返し乾杯、そしてスピーチをするのですが、このスピーチは気持ちを名づけるための正しい作法がどのようなものかを範型的に伝えています。このスピーチは宴会の間何度も繰り返し行われ、その中で私たちの気持ちが一期一会的に、一つの定まった言葉によってではなしにポリフォニー的に名指されていくのです。

 この後ずっと、スプラする、スプラのように、スプラ感、スプラ的といった言葉が頻繁に出てくるものだから、スプラトゥーンのことが頭によぎって仕方がなかった。

 第四章は、具体的な症例のなかで、どこで了解可能/不可能に線を引き、どこで物理的介入を行うか、という精神科医としての職業について書かれている。

 線引きの基準として、「特定の出来事がこの当事者に引きおこすであろうと予想される心の状態と実際の心の状態の釣り合わない部分」が了解不能な部分とされる。これに関しては症例を挙げながら詳しく説明している。どこで線を引いて物理的な介入をするかが、精神科医の職能が試されるところなのだろう。それゆえ、いつも考え続けなければならない切実で決定的な問いとまで書いてある。「了解を断念しなければならないと考えた場合、精神科医は物理的手段が必要と考えるという原理原則」を強調する。

 ようやくここで筆者がオープンダイアローグ的な接近が有害と思うケースも出てくる。この本では、オープンダイアローグではなくスプラと表記されるが。有効性、有害性という功罪についてきわめて慎重に見極めとしている記述は、筆者の精神科医としての矜持を感じた。

 手あたりしだいに言語化すればいいってものでもなさそうだ。 

言語化されず、実在はしているが実態ではないような気持ちに言葉を与えて配慮為しに可視化してしまうと、本来はそのまま流されて消えていく可能性もあった病的体験を実体化し、それが大きく展開してしまうきっかけを与えるリスクもありえます。

 この言語化を「気持ち化」「対象の相貌化」と呼んでいる。パニック障害の暴露療法と同じく、そこには功罪がある。治療法というのは、功か罪をことさら大げさに喧伝するような本が多いなか、筆者のあくまで精神科医としての領分でどうやったら患者を少しでも楽にできるのかという立場は畏敬の念すら感じる。

 

 第五章はまるで集中できなかった。大事なことが書いてあるのに、おっぱいとスプラが出てくる箇所しかまるで覚えていない。

おっぱいが一つの問いとして彼女に至る道であるのと同じように、ADHDも一つの問い、一つの開口部として彼に至る道、彼とスプラする入り口だと考えると出会いのきっかけとして機能する可能性が開かれるようにも思えます。

 このように書かれてしまうと俺にはどうしようもない。なぜならば俺はスプラトゥーン大好き人間でいよいよスプラトゥーン3の発売が近いからだ。「常に自らの対象をヴァアリアブルへと脱皮させたいという医学の持つ強迫的な欲望」と書かれると、スプラのヴァリアブルローラーが頭に浮かんでくるぐらいだ。逆境スぺ増ガン積みで自分の高台からマルチミサイルを撃ちつづけるあいつを。あと「明美さんそのものは「おっぱい」という答えではなく、これから開示されるべき問いでありつづける」といいうのも、俺がちんちんという答えでないようにまた明美さんもおっぱいという答えではないのだ。

物理的尺度を装った質問紙票による評価尺度なるものがありますが、言うまでもなくそのカットオフ値はいくら統計に素晴らしい外装を施したといしても基本的には恣意的です。

 

 『発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること』は診断という行為について、精神科医かくあるべしといった症例の取り扱い方が書かれていた、ゆで卵とちんちんとおっぱいとスプラの印象が強い。ミニコラムの専門的な話はかなり面白い。精神医学の本はあまり読まないのもあり、了解について考える論考のために依拠している理論はとっつきにくさがあったが、具体的例を挙げながら分かりやすく書かれていた。こんあにスプラが出てくる本は生まれてはじめて読んだ。面白かった。字面も内容も。

2022年の夏

 久しぶりに酒を飲に潰れるまで飲んでいたらブログを書く意欲が湧いてきたので。だいたい2022年の夏ごろのお話。

壊れ続ける部屋

 浴槽の照明、エアコンのスイッチ、IHコンロ、電子レンジが壊れた。建てつづけに部屋の設備が壊れていっておもしろかった。

 極めつけに、鍵をなくした。部屋の中で。

鍵をなくして見つからない

 部屋の中で鍵をなくした。捜索するために部屋をすこしずつ片付けできたが、鍵が見つからず。鍵をかけない暮らしを一か月ほど送る。多大なストレスが掛かる。念のために、遺失届を出した。管理会社、警察などとても親切な対応をされて心が温かくなった。

 結局、鍵は見つからない。二万九千円で錠前交換した。もっと費用がかかると思って二の足を踏んでいたが、これならさっさと交換したほうがよかった。

 鍵をなくさないほうが遥かにいいが。そのような人生ではなかった。

面白かった本

 鍵をなくす前に年に一回あるハヤカワ文庫セールで本を買いだめした。ここ数か月で一番おもしろかった本は舞城王太郎の『淵の王』。

怖かった本 

 時世もあって、『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』は怖かった。人が人を殺すように仕向け、人が人を解体するように仕向ける。やれと命令せずに、誘導することで仕向けるのが怖かった。

良かった曲 


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 ポストパンクみたいなギターを流しながら、結局、サビでシンガロングの力強さに回収されていく。別に歌は一人で歌うわきゃならないなんてことはないのだから。みんなで。

懐かしかった曲

 鍵をなくしてからだらだらとTiktokを流しつづける日があった。ONE PIECEのウタが腰振りダンスしている動画で流れている曲がよくて、歌詞で調べてみたらSpice Girls『Wannabe』のアレンジだった。

 アレンジによって、こうも曲の相貌が変わるのかと驚いた。


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渋谷は夜中でも人だらけで驚き

 休みの日にTiktokライブで深夜渋谷徘徊を何度か見ていた。めっちゃ人がいる。クラブの周りに人が密集している。

 俺が住んでいる地域は、いわゆるベッドタウンなので、夜十時を超えたらまず人影がなくなるから、夜中二時に人がたくさんいるっての不思議で仕方ない。

 クラブという光に人が引き寄せらせられる渋谷、俺の人生からあまりに遠くてほんと他人事。

LGBT

 LGBTの本をいくつか読んでほんの少し詳しくなった。

 ちょっと本を読んだくらいでは、カテゴリーに関する功罪の問題は俺には手が付けられないことが分かった。

 「LGBTなんてカテゴライズは捨てて目の前の個人と向きあおう」なんて素朴なヒューマニズムは差別に繋がるのだろう。

 Arcaの『Nonbinary』、『Queer』といった曲タイトルが指ししめているものが薄らぼんやりと見えてきたような、結局は文字を目で追っていただけに過ぎないから分からないような、難しいし難しいってことしか書けない。

明日カノの六章

 すごい。五章の配信者界隈は、いまではもうよくあるテーマというか、けっこう本になってる舞台で、それでも明日カノらしい女性のたくましさが描かれていてよかった。

 で、次の六章はすごい。なんてたってスピリチュアルを扱っている。

 緻密なヒューマンドラマにスピリチュアルを絡めたとき、一体どんな仕上がりになるのだろうかまったく予想ができずにハラハラしている。

 当ブログはスピリチュアル全般を警戒しています。正確にいえば、スピリチュアルを入口にしたビジネスの諸々を警戒しています。無料なら別にどうでもいい。 

マンガ

 『チェンソーマン』、『メイドインアビス』、『明日、私は誰かのカノジョ』が現在進行形で連載されているすばらしい時代。  

鍵がない

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 外ではなく、部屋のなかで鍵をなくすと、ただ鍵をなくした不注意な自分が情けなく、二万九千円かかるだけ。

 ちなみに遺失届は、警察署に電話する→鍵の詳しい形状・アクセサリーについて知らせる→登録番号が発行される、の流れだった。

 部屋の中でなくしたけれど、外でなくしたかもしれないとも思い、簡単にいえば混乱していたので届を出したがいま思うとその必要はなかった。部屋の中でなくしたのだから。それにしてはいまだに見つからないけれど。

社会

 事件以後、統一教会についての記事を読み漁っていた。二世の体験記も手に取っていた。

 また事件について、公的な場では絶対に口に出さないほうがいい思いが浮かぶが、特に吐きだすようなこともなかった。

スプラ3

 めっちゃやってた。ウデマエS+10、でんせつのアルバイターになったのでとりあえず満足した。

 アドバイス

 ・ステジャンを吐かずに味方に飛ぶのはリスクが高い

 ・打開するときに一人に突っ込まずに味方と足並みを揃える

 ・パブロの筆状態からの即イカロールは難しいが超楽しい 

暑い 

 毎年思うが、夏は暑すぎないだろうか。それで、今年の夏で俺はもう終わるんだろうと思う。今年は設備が壊れに壊れたのでいよいよ終わるのだろうと思った。

鍵をなくして一番悲しかった出来事

 家の鍵は郵便ポストの鍵も付けていたので、郵便物を受け取れなかった。そのせいで、Amazonで注文していた本を受けとったときにしなしなになっていた。悲しかった。

DXM

 メジコンコンタックSTといえば、大量に摂取することで閉眼幻覚を見れる薬で有名だが、その成分のデキストロメトルファンに抗うつ効果があるらしいってニュースがあった。

 世の中は抗うつ効果で溢れかえっているけれど、まだ足りない。夏は特に。

障害者手帳をなくした

 障碍者手帳をなくしたせいで更新ができずに健常者になるところだったが、発行日と更新月を役所に問い合わせて分かれば問題ない。

 障害者手帳は更新するために必須というわけではない。

 でもなくしたことを告げるときに相手方にけっこう驚かれる。

柔らかい声

 この夏、色々なことがあり、ここ数年でもっとも電話をしていた。みな対応が柔らか った。

くそみたいなJ-POP

 ってのは、尼崎でよくライブやっている、あやいやかしこの曲タイトルなのですが、くそみたいなJ-POPってめったになくないですか? いまならAdoがよく街中で流れているけど、めちゃくちゃくよくて注意を奪われるくらいですし。

みんながいいと思っている物を俺もいいと思っている

 なんか、最近ふと思うのが、みんながいいと思っている物を俺もいいと思っている。漫画も曲もアニメも映画も。

 学生時代はそれこそ、俺しか好きじゃないだろうから共有しようともしなかったけど、今はもう先にみんな知ってる。Adoがこんなにすばらしいって、俺最近まであんまり知らなかったくらいだったし。

 Adoの新時代を劇場で聞くためにONE PIECEの『FILM RED』観にいきてえなと思っているけど、スプラトゥーン3が楽しすぎるせいで厳しい判断を迫られている。

新時代

 Adoの『新時代』がとてもいい。その影響で、一か月ほどの鍵を掛けない暮らしのことを『新時代』と呼んで自分を落ち着かせていた。他の曲はあんまり、とにかく『新時代』がいいのだ。

ME!ME!ME!のミーム化を知った

 TIktokで知ったのだが、ME!ME!ME!がミーム化していた。ゼロツーダンスって名前で。

 舞城王太郎が脚本を担当したアニメがあることで知った日本アニメ市で見たやつで、それがネットミームとして脈々と受け継がれていて、Vtuber宝鐘マリンのPVにまで起用されて、ずいぶんと前からTiktokでも踊られていたらしい。

憑在論だとか、人新世だとか

 過去から眺めた未来という世界線を考えることが好きで、そのためによくわからない現代思想の本をたまに読む。

 十代の俺が想像した未来は、よくあるようにもう若死にしている未来で、そうではない未来をいま生きているのが不思議な感じがする。

 小学生の頃、いつか死ぬことが受け入れられずに夜な夜な悩んでいた。それについては死ぬときにあらためて考えようと保留することで難を逃れた。

 そのときが、今じゃないかと夏になるたび毎年思っているけれど、思っているときにタイミングよくそのときがやってくることはなさそう。

炊飯器があれば電子レンジとコンロがなくても何とかなる

 何とかなった。長期的には何とかならなさそう。調理方法が茹でor煮込みだけだけど、同じものを食べつづけても平気なので何とかなっている。

 しかし、同じものを食べつづけることが苦痛というのは、栄養の偏りの観点からするに理に適っているから、同じものを食べつづけても平気というのは良いのか悪いのか時代に託されている。

物を移動させる仕事

 物を移動させる仕事といえば、なにかを移動させる職って大きく括ると様々な形態があるようなーと気づく。その何かに人や数字を含めればさらにその職種は増える。

 多くの人たちが何かを移動させては日銭を稼いでいる。

首も手も回らない

 部屋の設備の修理依頼と、積読している本、未プレイのノベルゲームなど、首も手も回らない。

 金と時間が足りない。

 でも、スプラ3やってるんだから、まあそういうのだろう。別に生活がどれほど悲惨なことになっていようが、それはそれでスプラ3楽し~!!

 小さい頃から不安に付き合いすぎたせいで、薬やコンテンツの力でもう相手にしなくなってしまった。

秋 

 秋の気配を感じたら、いまだに凛として時雨の『秋の気配のアルペジオ』を思いだす。

 快適な温度というのは、生きていくうえで思っているより大事なものだ。