単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

石川智晶さんがつぶやいた「普通」という興味深い言葉


※訂正

タイムラインにて。午後五時に目撃。



2011/09/06 14:11:42
わざと?。。と言うかフツーに。そんな感じにしたの。。wwRT @kagero59: @ishikawachiaki3 ねえさん!不完全燃焼の歌詞、Blackness...のあと「感情の不利幅が」になってるんですが、これはわざとこうしてるんですか?




 これは、不完全燃焼の歌詞にて誤字のように思える「不利幅」という表現に疑問をもった方が、意図的にこうしたのだろうかという質問をしていて、それに対して作者が「フツーにそうした」と答えているつぶやきです。

  
 これ、面白いですよね。見たときに理解できるようで理解できない感覚に襲われました。


 まず、ここで使われた「フツー」という言葉は、おそらく私たちが日常的に使用している「普通」と同じもので、意味としては「当り前のように」とか「意図的ではなく自然に」などだと思います。
 
 そうすると、「フツーにそうした」という返事が、普通ではないことに気づきます。
 そもそも不利幅という言葉は存在していません。これは完全に造語のようです。なので、そこには「わざとそうした」という作者の作為が明らかにあるように思えるのですが、しかし本人はさらっと「フツーにそうした」と答えています。


 この感覚の違い。今回の記事はそこに注目していきたいです。


 ここで「アーティスト」と「一般人」の違いというと、さすがに主語が大きすぎるし、過剰な一般化の罠にはまって曖昧すぎますので、「石川智晶さん」と「私」の感覚の違いということでいきます。

 
 引用。以下の内容は「書く」という表現行為がいかに過剰であるか、という説明です。

 で、だ。「なんで文章を書くのか」っていう自分の側の理由。これがないと長続きはしない。で、君はいままで数年にわたってかなりの量のテキスト書いてるじゃない。君自身は「なんとなく好きだから書いてきた」って言うかもしれないけど、でもそれって、必ず、いい、必ずだよ? 理由のあることなんだ。理由なしに人はそこまで書き続けられない。量だけならバカでも書ける、っていう話もあるけど、俺はそうは思わない。前に村上春樹評かなんかで読んだんだけど「邪悪なまでの、書き続けるという意志」っていう言葉があったのね。そう。本来、書くのっておかしいんだよ。書くっていうのは、それがいかなる形態であっても「世界の再構築」っていう側面を含むわけで、そこに邪悪さがないはずがない。ややもすると、支配欲とか、そんな負の感情とも直結してるような世界。

 そこまで言わなくても、書く人は、なにか過剰なものを抱えている。ちょっと前まで頻繁に見かけた「自己承認」じゃないけど、ほんとは人なんて、「私はここにいます」「あなたはここにいますね」で完結していいいきものだと俺は思う。だけど、俺と君がイコールではないように、「私」と「あなた」もイコールではなくて、世界には無数の「同じじゃない人」がいたりする。

G.A.W.




 ここに登場する「書く人」は、表現をするという点で、作詞をする人に置き換えられるでしょう。むしろ作詞というのは、書く人よりかも遥かに過剰なものを抱えているように思えます。なぜなら、作詞された文章の殆どは、それ単体でみるとおかしいものですから。


 それを補強する引用をコメント欄から。 

 石川智晶さんの曲もそう、歌詞を文章として見ればアンインストールのサビでなぜアンインストールを二回繰り返すのか、ということすら引っかかる。というかなぜ あの文脈でアンインストールという単語が持ち出されるのか理解できない。こうして改めて考えてみると何気なく聴いている歌詞がいかに文章として不自然か、 言い換えると普通に書いたら自然な文章にしかならないのだから、歌にすることを前提に故意に不自然な文章を書く作詞という行為がいかに作為的かが分かりま す。

  

 そうやって創作される歌詞。それは、自然というには私たちの日常には姿をみせることはあまりなく、作者の作為と意図によって生産されている、いわば作者の「わざと」が詰まっているものではないかと。


 そんな歌で発見される「不自然」な箇所は私からすると、「わざと」であり「過剰」なもののように思えてしまうのです。


 しかし、作者はフツーと言いました。この感覚の違い。多少は理解できてたとしても感覚レベルでは納得できません。どうも根本的な差異があるようです。
 

 なので、なぜ「フツー」なのかは当てずっぽうな推測になりますが、そもそも詞を書くこと歌うことが過剰なものではないのでしょうね。さすがに日常的とはいわずとも、生活に密着しているものぐらいの身近な感覚で、呼吸するように、といった感じなのかもしれません。


 彼女にとっては、他者にとって不自然な詞すら自然と思ってしまうまでに、「歌う」または「詞」を作るという行為が自分と同化しているものだと、私は思いました。つまりは、技術、作為、過剰さ、そういった表現を担う諸要素を、呼吸するかのように無意識のレベルで処理することができるからかもしれません。

 作詞は元々作為的に不自然な文章を作り出す行為なのですから。まして石川さんはすでに商業流通にのってる曲だけでも数十曲は作詞してますし(多分100には届かない)もう慣れて作詞の不自然さを不自然と感じなくなってるのでしょうね。

 
 ということです。私が書きたかったのは。
 ツイッターを見ての突発的なアイデアなので上手くまとまっていませんが、この感覚の違いとやらは私には興味深くて、これをもっと掘り下げると面白い解釈ができそうです。


 とりあえず思ったことをまとめてみました。


 ※ちぐはぐであったところを指摘してもらって訂正しました。