単行のカナリア

感じて想する

「私の家族だって私の遺書が長文ならとばし読みする」だろうね

 

高速回線は光うさぎの夢を見るか?(光うさぎを、覚えていますか?)より

 「私の家族だって私の遺書が長文ならとばし読みするよ!!」

 こういう状況を想定してみる。身内の遺書がtwitterで140字のツリーが軽くスクロールしても途切れない量あるツイートだった、と。……たしかに途中からとばし読みしてしまうかもしれない。身内の遺書という価値を、長文を読まされる苦痛が上回ってしまう可能性はある。それが俺が書くようなもっさい文章だったら尚更。

 

 藤本タツキの短編やゴールデンカムイ全話が無料配信され、Kindle Unlimitedに加入すればかんかん橋をわたってやザ・ワールド・イズ・マインが読み放題にもなる。どこを見てもみんながなにかをおすすめしているから、あとで読む、後で見る、Amazonの欲しい物リストは増えつづけていく。

 そんな状況下で、俺が思いつくままに書きなぐったような文章は相手にされないだろう。というか、最初の読者である俺こそが俺の文章を読むのがきつい。誤字脱字をすこしでも減らすために読み返すのがきついのだ。だからってそうしないと誤字脱字が酷いことになる。せめて文章量が少なければ。作品をおすすめするなら簡潔に紹介し、感想文を書くならシンプルにまとめることができたらいいのだが。

 それができない。したくもない。読みやすくするならばそうすべきとはわかっているけど、俺は書きたいし書いた以上は削りたくないのだ。どうも筆者の「書いたままに読んでほしい俺」と、読者の「俺が書いたものを読みたくない俺」が主導権争いをしている。その争いでは読者が勝ちつづけているせいで、いよいよ俺はブログを書かなくなった。

 

 冒頭の話に戻る。

 もし俺が遺書を書くときは長文でしたためたいとおもった。少なくとも10,000字くらいは書きたい。そんで読んだ人に「遺書を読んでこう思うのは不謹慎かもしれないけど、読みごたえあって正直おもしろかった」と言わせたい。むずかしそう。いまの俺が遺書を書いたらブログを書くようにいろんな本を引用してしまうだろうから、だったらもういっそのこと画像とかYoutubeの動画とかも張ってしまえばいい。そのときは引用した作品はAmazonへのリンクを張るのを忘れてはいけない。名付けるなら遺書2.0。そんだけ凝ったら案外長文でも読んでもらえるかもしれない。どうでしょう。分が悪そう。