単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

文章を書きつづけるうえで信条にしている「おへんじ」

 俺が文章を書くときに参考にしているブロガーが三人いまして、ひとりは Neverending Cultの西京BOYさん、もうひとりが関内関外日記のgoldheadさん、あとひとりがG.A.Wや24時間残念営業のMK2(nakamurabashi)さん。

 タイトルにある、信条にしている「おへんじ」というのは、俺がMK2さんにアドバイスを求めたときのおへんじ。

 彼のサイトはだいたいが削除されているから(tumlrとか残ってるけど)、残存しているのは外部サイトに寄稿した「島田なんとかって人の記者会見すごかった」や「質問に対して「善意」を与える人たち」は今でも読める。これを読めばどれだけ「文章力がすごい」か分かる。本人は「やや高度に発達した悪文」と言ってましたけど、俺はどこが悪文かそれすら理解できずに、ただただ読みやすくいい文章だとおもっている。

 

 いまなら分かるけど、彼の「文章のすごさ」は、「文章力」で括れるものではありません。

 というか、俺が使う「文章力」って言葉は意味が曖昧としすぎていて。彼の文章には切り口の鋭さ、思考の精緻さ、観察の解像度の高さなどがあり、そこにリーダビリティを極限まで高めた文章力が加わって、はじめて彼のような文章になる。読みやすいのに、すごい遠いところまで連れていってくれる感じ。文章というのは、つまりそういった要素のもろもろの総体で、とくに個人のブログなんかでは、いわゆる技術が介入する場面は意外と少ないとおもった。「文章力」は、自分が分からない良さを入れる箱ではない。

 で、ブログをはじめたころの当時の俺は、「文章をもっとよりよく書きたい」とつよく思っていて、とくにその頃なんども読みかえしていたMK2さんの文章に憧れていました。おそろしいことに、俺はMK2さんがツイッターをやっていたのをいいことに、「あなたのような文章を書くにはどうすればいいんですか?」と質問をしました。なぜこんな質問をしたかは言い訳させてもらうと、ほんとそのころは今よりさらに頭が悪くて「文章力があればこんな文章を書けるようになるかも」と思ってたので。

 そのときMK2さんにいただいた「おへんじ」を紹介がてら、感想でも書いていきます。文章そのものはブログに公開されていたものになります。あと掲載許可はもらっていました。いまでも有効だと信じたい。

 「おへんじ」は、ようは「お前の文章はよくない」という内容でして、それだけだったら「ああ、やっぱり」と落ち込むだけなんですが、さらに「ここがこうよくないので、こうしたらいい」と具体的な改善策までついてきました。嬉しいのと参考になるのとで、もう何度も読みかえしています。この「おへんじ」がなかったら、「文章どうやって書けばいいかよく分からない」と悩んで潰れて、ブログつづけてなかったとすらおもいます。

 しかし、いまでも「おへんじ」のアドバイスを徹底できていないなーと痛感しました。だいたい全文抜粋。 

 

おへんじ。 

どのへんが「独特な表現」なのか具体例があれば助かったんですが、なんか明日まで待ったら書く気力なくなりそうなので、自分でてきとーに「このへんだろー」って見当つけて回答しちゃおうと思います。たぶんこのテキストに代表されるようなものをいってると思うんで、その前提で考えます。あと重要なことですが、基本的にこういうことで「他人の説明」はまったく役に立たないものだと思ってください。もし本気で「MK2みたいな文体」を習得したいのであれば、これからエントリにしようとする題材を「MK2風」つまり、パクリで書いてみるのがいちばんです。

 つってもまあ、実は難しいんですよね……説明するのは。
 なぜなら俺は、頭ではなく手で書くことで鍛えてきた人なので。
 身もふたもない結論からいってしまえば、一日に10KB、内容はなんでもいいからとにかく毎日休まずに書き続ければ、文章は「絶対に」上達します。そして、できれば、伝える内容はくだらなければくだらないほどいいです。題材は、ほんとになんでもいいんですよ。たとえばPCデスクを見渡してみると、んー、まあいまの俺の場合はCD-Rが3枚ばかり置いてあります。これについて10KB書くんです。そんでね、ためらったらだめです。「どうやったらCDーRを題材にして人に読んでもらえる文章を書けるか」なんてやったら、そもそもCD-Rなんてどうでもいいものなんですから、絶対になにも書けません。ただし、文章そのものは楽しんで読んでもらえるようにしなければならない。ここで、構成とか題材とか、うまいオチとか、そういうものの力に頼っちゃ「だめ」です。文章だけで読ませなければならない。
 言うだけではなんなので、実際にやってみましょうか。

 机の上にCDーRが3枚ばかり転がっているわけですが、この中心にたとえばちんこを通したとします。通らないというやつはちゃんとしたちんこもったリア充なので自分の手じゃ握れない大きさにまでちんこ発達してオナニーできなくてそのへんで夢精して死ねばいいと思うんですが、とりあえず穴があれば入れてみたくなる、というのが男心というものですよね。別に入れるのはちんこでなくてもかまいません。突起であればいい。今回は、具体的には舌を用意しました。ためしにCD-Rの穴に舌を通してみることにします。
 すごいですね。なんにも楽しくないです。俺の真上に防犯カメラあって一部始終を撮影されていて、それがつべとかに流れた日には、もう生きていく気力残らないこと必定ですね。

 とまあ、てきとーに書いてみました。つまり「つなぐ」んです。なんでもいいから、とにかくつなぐ。
 題材が決まっている場合には「膨らます」いう手を取ります。「こなたはちっさい。ちっさいからかわいい。かわいいものが部屋の床でごろごろしてたらダイビングしてだっこしたくなります」というような内容を書くとしましょうか。そのまま書いたらそのままですよね。無理やり膨らませます。

 俺が思うにっていうか、俺が思わなくてもかがみとかつかさとの対比からもあきらかなわけですが、こなたはちっさい。身長142センチとかかなりちっさいです。ちっさいと頭なでたくなります。頭なでたらなんだよもーとかゆって首振って髪がばさってゆったりして、つむじが自分から見える位置にあったりして、つまりこなたはちっさいです。このちっさいものが床でごろごろしている場合、それはちっさいのでかならず妹です。妹の定義に疑義を挟むな。俺が法律だ。俺が妹だ。すいません俺は妹じゃないです。とにかく妹的だったり娘的だったりするなにかが床にころがってるとすっごいだっこしたくなるとジャンピング土下座からの前転→倒立前転→だっこ、とつないでアクロバティックだっこ感性でこなたの髪の毛クンカクンカクンカクンカクンカクンカクンカ過呼吸で死ぬのが俺の腹上死です。パライソ!!!

 例文としてのよしあしはとりあえずほっといてください。この場合「こなたはちっさいのでかわいい」という核になる概念を関連するものを使ってひたすら増幅してるわけです。この増幅の内容は、つまり「すごく」とかそんな感じの副詞に置き換えることができる。
 じゃあその副詞節をどうやって生み出すかの問題なんですが、こればっかりは「手数」というほかないです。「こなたはちっさいのでかわいい」を「こなたはちっさいのでウルトラデラックススーパー信じられないくらいこんにちわもう地球も今日で終わりの日を迎えますエクストリームかわいいです」としてもいいですし「こなたは☆ちっさいので☆かわいい(暗黒微笑)」としてもいいです。で、そうした手数をできるだけたくさん持って、適宜組み合わせていく、というのが、俺特有の無駄に冗長でありながら勢いだけはあって、うまくツボにはまる人は笑ってくれる、という文体になるわけです。要はウケるためならなんでもやる、というのが基本にあります。
 あとですね、こうやってできた文章を、もし可能であれば「目の前で読んでくれる人」がいるといいです。そしてその人が笑ったら勝ちです。


 そんで、いまブログの文章を拝見してるんですが、伝えたいことの内容からすると、あまりこの方法論あってないんじゃないかな、という気もします。というのは、俺のこの「なにもないところから無理やりなんか表現持ってくる」というやりかたのそもそもの由来は、自分の書きたいことが、現在自分が考えていること、たとえば社会、たとえばアニメ、たとえばエロゲに対してであったり、あるいは「どうして俺はうまく生きていけないんだろう」ということに対する暫定的な回答であったり、そういうものが中心だったからです。
 つまり「自分ははかせがものすごくかわいいと思う」という衝動があったときに「はかせがかわいいという事実」を効率よえるのがレビューなんですが、俺は「なぜはかせをこんなにかわいいと感じるのか、またはかせのかわいさの強度は、スカウターを使わずに文章で表現するとこれくらいになる」という作業をしていたのです。これはレビューとは似て非なるものですし、評論でもありません。自分の内面を表現するための言葉というのを俺は知らず、やむを得ず「限りなく透明でブルーに近いけど実はうんこっぽい色混じってる悲しみ」とか、そういう自前の言葉で説明せざるを得ませんでした。「どうもほかの人が言っている悲しいという言葉と、俺のそれは違うのではないか」という疑念があったからです。
 でいま、電波女のOPのレビューを読ませてもらってます(ほかに取り上げられてる曲を知らなかったからなんですが)。で、思ったんですけども、この状況でレトリックを覚えて駆使しよう、というのはかなり危険な考えなんじゃないかと思います。というのは、レトリックというのはなんにせよ「増幅」「強化」などの機能を持つものです。特に「MK2のような」使いかただとそうなります。となると、必然的に「強化されるべき核」が必要になります。つまりエントリを通じて「なにを伝えたいか」です。
 このエントリでは、レビューだとすると「やばい」「良い」などの主観的な形容詞が混じりすぎですし、いかに好きであるかを熱弁するためには熱意が足りない。この状況でアクの強いレトリックを与えると、それが一人歩きしてしまって「伝えたいことはレトリック」という状態になってしまう。俺はそれを、かなり醜悪な状況であると考えます。
 由来、文章には書かれる理由があります。なぜなら「書こう」と思い立った時点で、自分の内部にあるなにがしかに、その作品は触れたんですから。通常ではありえない刺激をもらったんですよ。だとするならその「通常ではない」部分を説明しなければならない。だって、伝えることの核はそこにしかないんですから。もしそれを客観的な事実群から証明し、読む人の前に陳列するならそれはレビューということになりましょうし、自分の内面から湧き上がる衝動を細密に描写するなら「語り」あるいはいい意味での「印象批評」という言葉を使えるでしょう。
 そうしたものを、より読者に突き刺さるかたちで提供したい、というときに、初めてレトリックは役に立ちます。
 以上の文章は、あくまでその前提に立って書かれたものだと思ってください。言葉の強さはなるほど技術でも強くできますが、根底になにもなければ、ただのハリボテです。そして言葉に強さなんぞなくても、意志が強固であれば、その文章は立派に力を持ちうる。俺はそう考えます。

 

 それと、蛇足になるかもしれませんが、ボキャブラリーは可能な限り持っておいたほうがいいです。のちのち、文章を書く自分を助けてくれます。ボキャブラリーを増やす方法は読書と文章を書くことだけです。これを弛まずやりつづけ、わからない言葉があったら辞書を引きます。これの繰り返しで語彙は増えます。


 とまあ、こんなとこです。とりあえず書いてみました。

 俺がですよ、「MK2さんの独特な文章が好きです。どうやったらあなたのような文章を書けるようになりますか?もしよければ教えてください」って大雑把すぎる質問をしたのにかかわらず、こんなすばらしいアドバイスが返ってきたわけですよ。この「おへんじ」のおかげで、文章を書くときの指針ができて書くのが楽しくなったから、MK2さんにはどれだけ感謝しても感謝しきれない。

 もっとも心に刺さったのが、「いかに好きであるかを熱弁するためには熱意が足りない。」「言葉の強さはなるほど技術でも強くできますが、根底になにもなければ、ただのハリボテです。」ですね。当時の俺も「ここがすごいんだ!」という気持ちはあるにはあったはずで、ただ、その気持ちを表現するための思考力と文章力があまりに稚拙すぎるせいで、熱意を文章に反映させられなかった。熱意が文章に出力されるまでの効率が悪すぎるせいで、出力されたのは「すごい」「やばい」とかだけの感嘆詞のみだった。そりゃあ、何も伝わらないわけですよ。自分と何も共有していない相手に向かって、こち亀に出てくるオタクの「いいよね…」「いい…」みたいに、分かりあっている者同士でしか通用しない言葉の省略をしていたのだから。そんなんでは不特定多数の読んでいる人には何も伝わらないし、そういうのは属人情報を前提としたうえで口やSNSやることであって、ブログでやってもあんま意味ない。

 それからは、熱意だけは―MK2さんの言葉を借りれば「通常ではない」部分や「強化されるべき核」―しっかり文章に落とし込めるように意識しつづけました。文章は昔も今もかわらず稚拙のままですが、だからって熱意が劣っているわけではないですから、それを伝えようとする意志だけは持ちつづけていた。

 ありがたいことに、そのおかげで、ごくまれに「熱意がある」と評価されることもあるようになって、すこしは意識している成果がでたのかなと思うわけです。

 

 一方で、いや全然なってねえなとも思うことが増えてきました。どちらかといえば、こっちの感情のほうが大きい。 

 理由があるとすれば「俺がおもしろいと思った核の部分の邪悪化・複雑化」ですね。たとえば、最近の『真昼の暗黒』というフリーADVの記事では、「死体処理と屍体の描写がいい」とか少し書いたが、ほんとはめちゃくちゃよくてそれを核にして書くべきだった。でも死体処理の方法に人間性を見出してワクワクする気持ちをうまく文章にできない。また、『アルコールとうつ・自殺――「死のトライアングル」を防ぐために ...』を読んでいたら、「男性が初回自殺企図によって既遂になることを予測する要因を検討しました」と書いてあり心底読んでよかったと思ったのですが、ここでなぜ嬉しくなったのかをうまく文章にできない。こういうことが増えてきた。

 『ハイパーハードボイルドグルメバラエティ』だって一番気にいっているのは、貧困の最中にいる取材された人間がディレクターに救済のまなざしを向ける瞬間(=金くれ)の生々しさだが、それには触れなかった。というか書けなかった。

 そのせいで、「まあこの魅力なら不十分な説明でも理解できるだろうな」という点を前面に押しだして、本当に伝えたい核の部分をないがしろにしてしまっている。

 

 書けない原因は分かってるんですよ。いちおう倫理的な問題(あんま気にしないけど)もあるし、それを書くことで人にどのように見られてしまうかという問題もある。あと自分の醜悪な欲望に向きあうことができない問題もある。全員死亡バッドエンドがいかに好きかを説明するときに持ちださないといけない自分の醜い欲望があまりに多すぎる。死について書けば肯定してしまうから、自殺報道ガイドラインの正反対のことを書いてしまう。物語でも現実でも人にいっぱい死んでほしいし、そうやって死が日常に溢れかえったなかで、俺も機会をみて混ざりたいとか思ってるし。倫理的によくないし、人の目が気になるし、はっきりいって醜いよねって話で。

 でも、だからこそ、それが核になってしまうならば、そのときはやはり目指すべき文章を書くうえでは避けて通れないのだろう。その気持ちこそが作品から受けとった通常ではない部分で「伝えたい」という意思を持つのだから。って「おへんじ」を読みかえしておもいました。そうやってこそ、文章は十全に力を持ちうる。そう教えてもらったので。

 「本当に書きたかったこと」を書かないのはもうやめにしたい。書く以上は、文章に立派な力を持たせたいのだ。