単行のカナリア

感じて想する

文章から声が消えていく

もとから俺が書く文章に声があったかは疑問だが、2015年に書いていた記事は少なくとも今より声があった。

4年間まったく文章を書かなくなって、また書きはじめて大分経ってから、いまこうして文章の声が小さくなっている。消えかけつつある。

よくない。

声が宿っている文章というのは、作家でいえばたとえば、舞城王太郎トム・ジョーンズ、またはジム・トンプソンとかチャールズ・ブコウスキーとか。

リチャードブローティガン高橋源一郎の初期ニ作にはみずみずしい声が聞こえてくるし、古川日出男の「ボディ&ソウル」は声というか文章で歌をうたっている。セリーヌシオランは力強い声を持っている。

苦しんでいる人や怒っている人が書いている文章は声が大きいから、良くも悪くも耳目を集めて、その声にひかれる。

そういう、文章から聞こえる声が好きだった。

文章に声を持たせるためには、入力と出力の間に挟まる技術も関係するだろうが、それよりはそもそもの「伝えたいこと」が重要だとおもう。

俺がも文章が読みやすくて声がでかいと思っているMK2さんというブロガーは、意志があれば文章は力を持つ、と書いていた。

俺には、知識も語彙も増えているはずなのに、声だけが失われていく。

その原因を俺はSSRIを服用しているせいだと決めつけているが、それはそうでなかったらもう絶望的だからであって、本当は一体どうしてだろうと思いつづけている。

書きたいという動機はあるのに、書くときの意志が弱まっている。

出来上がった文章をみて、俺ってこんなことしか考えてなかったの? もっと、こう、大きなものを受けとって頭の中に抱えこんでいたんじゃないの? と思ってしまう。

それにいまだに「俺」「私」「僕」のどの一人称が文章を書きやすいかすらよく分かってなくてますますそれが分からなくなってきている。

瀬戸口廉也のテキストを読んでいると「僕」って使いたくなって、パルプノワール読んでたらひらがな開きの「おれ」を使いたくなる。

いい加減に自分に合ったスタイルってのを見つけたいのだが、書けば書くほどよく分からなくなっているし、おまけにすぐに人の文章に影響を受けてしまうからずっと自分が揺れている。

どの一人称でもしっくりこない。どんな書きかたをしても違和感がある。

だから最近はずっと試行錯誤してたんだけど、もうそれにも飽きてきてしまった。一生こんな感じで違和感を持ちつづけるのだろう。

ただ、それでも、文章から声は失いたくない。

ずっと書いているのがSyrup16gの全曲レビューなんだけど、俺はこの曲をこのように聞いているってよりかは、俺はこの曲をこういう風に聞いてみたのですがこれってどうなんでしょうっていうかんじで声が小さい。

読んだり聞いたりして生まれたうるさい感情を書くためのブログで、こうも声が小さくなりつづけてしまう状況を俺はよくないと考えている。他人がどうこうではなく、自分がどう思うかが大事だから。

なにせ結局、俺が書く文章を最初から最後まで読んでくれるのは俺しかいないので、もっとも身近な読者である俺を失望させてしまうのはつらい。それでは続かない。

よくない、ほんとよくない。

俺がもっとも好きな文章というのは、なにかよく分からないけどその文章には声が宿っているというものだから、俺が読者なら俺はそういう文章を書くべきだ。

なのに最近の俺といえば、覚えたての言葉をすぐ使おうとするし、ヘタなレトリックや言い回しが文字数を増やすなんて悪手だし、もう考察風のべつに目新しくもない視点提示をしている場合ではないのだ。

なんか最近の俺が書いている文章、やりたいこととやっていることが決定的に違わないかという疑問が増してきた。

それならばもう書かなければいいのではという意見はもっともだが、「書きたい」という欲求は依然として存在していて、それは満たしたいのだ。金とか安心とか満たせない欲求に囲まれているからせめて「書きたい」という容易に満たせるものくらいは。それに書くのは楽しいからやめたくない。せっかく俺の中で生まれてきたかけがえのない内発的動機を殺したくない。

どうして文章から声が消えていくんだろう。そもそも声なんてなくて幻聴が聞こえていただけだったのか。それならそうで、幻聴でもいいから文章に声を宿したい。

という思いを書いた。