タイトル通りで、複雑な家庭環境やアイデンティティがあるからといって創作がパッとするわけでないと気づく話が好き。
『違国日記』では女子高生がバンドで自作曲をやるから作詞をすることになり、彼女の境遇は叔母さんが小説家で親が死んで超つらいのにもかかわらず、いいかんじの詞が書けないことに悩むシーンがあった。
『放浪息子』でも少しだけ似たような話があった。主人公はかわいい女の子を格好をしたい(よくしてる)男子中学生で、第二次性徴期のなかでジェンダー・アイデンティティの混乱を抱える。で、その主人公が文化祭でかねてから構想していた性別逆転劇の脚本を手掛けることになるが、そうでもないクラスメイトにずけずけと「こっちのほうがおもしろいだろ」とダメだしをもらい、周りの反応もそのほうがいいとわかって落ち込むシーンがある。
入力と出力の間に技術が介入する、という当たり前の話でしかない。おもしろい人間だからおもしろいものを創作するわけではない。名曲の制作背景にいつも名シーンがあるわけではないのだ。
一方で、題材や情報という入力の観点から捉えるときはそれらが「フツー」でないほうが創作に優位なことも多い。が、それも肝心の出力がおざなりだったら畢竟、出来あがったものもそうなるという話になる。
最近、ある行政手続きをするときに過去を生後から現在まで振りかえる機会があり、おれは文章にまとめるにはややこしい人生を送っているのだなあと思い知らされた。ただ引っ越しや転職などが多いからややこしいってだけで複雑ではない。
この話は、社会的にも経済的にも安定してきているであろうバンドの新譜の曲にかつてないほど不安定なムードを漂わせているものがあって、それってなんんというか最高だなという話に繋がっていく。