単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

こんな未来

梨本ういの『そんな未来』をBGMに書かれた。


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おれのライフステージが変わらないのは設計段階のバグなのか、現代人に必須の自己啓発のコマンドを選択していないせいなのか。もしくは型に嵌ったライフステージの移行を成し遂げていないと「変」と分類される固定的価値観およびその価値観に反して流動性が高くなりつつある労働環境のポストフォーディズムや資本主義リアリズムと形容される社会的構造(この手の表現は多すぎて文脈に沿った適切な引用はできない!)のバグなのか。いずれもわからない。

ただおれのライフステージは変わらないのは確か。おれは酒や薬の血中濃度によって変わりつづけているような気もするが、それらは一定の値に収まる以上は変化ではなくて振動というほうが正しそう。

正常と異常の境界線(は恣意的な線引きだが)で震えてるだけ。

加齢のなかで変化しないライフステージは衰退と捉える向きもあるようで、おれがいざそういった言説で踊ろうとするなら窮屈だろうな、と他人事みたいに思う。

ライフステージと社会的地位をひっくめたらジェンダーの問題がある。『うつの医療人類学』によれば、うつ病男性の回復の語りは「職場に復帰し、社会的地位を取りもどす」ストーリーが大半を占めるらしい。『霊と金: スピリチュアル・ビジネスの構造』によれば、中年女性がスピリチュアルのメインターゲット層で魂の次元上昇(=アセンション)に惹かれる傾向があるらしい。

いずれにせよおれには関係なくてカンタンなビートにしなきゃ踊れないのかと不満があり、一方でカンタンなビートでみんなと一緒に踊れていればよかったとも思う。ここでの「カンタン」のは容易という意味ではなく複雑ではないという意味ってだけ。

決して容易ではないと思う。おれがそのビートで踊れるように親が多額の労力と金銭を払ったのに、具体的には保育園から二十歳まで英才教育、さらには高額教材や霊験あらたかな数珠やエスパーシールなどのスピリチュアルの恩恵を受けさせたのに、結句おれは踊れなかったわけだから。おれ以外ならおれのスタート地点からでは踊れるのはカンタンそうなのに、とこれまた他人事みたいに。

 

『違国日記』というマンガではひょんなことで35歳少女小説家の伯母と15歳女子中学生の姪が同居するようになり、姪は伯母の生活能力のなさに驚く。掃除、炊事、コミュニケーション、等々の領域での振る舞いの稚拙さに。だから姪の「大人なのに」というセリフが何度か出てくる。例えば「大人なのに掃除できないの?」「大人なのに傷付くの?」とかいう風に。つづくのは「なんでこんなこともできないの」で、同居生活が長くなってくると「変わってる」という評価に落ち着くことになる。

姪はただ疑問で、なぜ大人なのに部屋の片付けができないのかが不思議でしかたないからそう口にする。そしてそれを指摘された伯母はしっかりと傷つくのが『違国日記』の面白さだったりする。

ヤマシタトモコ『違国日記』四巻より

「人は適切に老いてその老いに適切な振る舞いができないと滑稽や醜悪な若者のフリをした老人になる」的なツイートは昔から今に至るまで定期的に人気だ。

久しぶりに情報収集用に使っている鍵アカウントのいいね欄を眺めていたらこの手のツイートを何度も目にした。ということはつまり当時の俺がいいねを押していたわけだ。そうならないように気をつけようと思って似たようなツイートに飽きずにいいねを押していたのだろう。

で、どうなの?と聞かれなければ答える必要もないので。

 

年相応の社会的地位、年相応の生産性、年相応の人間関係、年相応のライフイベント、年相応のファッションは……特にこだわりがないならば年相応がよさそうなので飛ばし、年相応の趣味、年相応の思想、年相応の価値観、年相応のあとなんだろうないろいろありそうだがキリがないが年相応とセットとなる言葉が多数あり、いずれにせよおれはほんと全然できていない。

努力が足りていないで片付けてしまうには努力しすぎてたし。少なくとも二十代まではそうだった。まだ足りないというのならばそう言えばいい。おれは好きな音楽を聞いてるので聞かないが。

 

向いてなかったで終わっちゃうのは悲しいから似合わなかってことにしたい。似合ってないのはなんかしょうがなさそうだし、「似合ってない」には自己責任論に還元されないどうしようもなさがある。おれがおれに生まれたのは似合ってなかった。なんでも似合うってことはないのだ。それだけなら、おれだけじゃなくてみんなもそうだろうし、あと「似合ってないから好きだから」の距離は近くて話のトーンが明るくなりそう。