おそらく、俺は共感とコンテンツの話をしている。
・『愛されなくても別に』から。柔らかで温かなものに傷付くということについて。
小学生の頃、道徳の教科書に載っている家族愛の話を読んで吐きそうになった。授業参観で親と喋る同級生を見た時、両親に日頃の感謝を伝える手紙を書かされた時。あぁ、自分は平均的な幸福を持たないのだなと何度も眼前に突き付けられた。
世の中にいる善良な人たちは、子供が傷付かないようにたくさんのことを考えてくれる。自殺シーンは悲しい気持ちを増長させるからいけないだとか、人を傷付けるような創作物は子供には見せないようにしろだとか。だけど、幼い私を襲った凶器は、もっと柔らかで温かな匂いがするものだった。私はそれを見て傷付いたなんて誰にも言わなかった。だって、言っても仕方がないから。傷付く私が悪いから。
『愛されなくても別に』
道徳の授業、あれは傷付くよなあ。
数少ない人にとって、少なくとも俺にとっては道徳の授業というのは「自分はおかしいのではないか」と苦悩するきっかけになった。道徳の授業の教科書には、剃刀の刃みたいなものが至るところに仕込まれているから、めくるページによっては傷を負ってしまう。
公的なもの、社会的なものには正しさがあり、どうやらそれを自分が持ちあわせていないようでなぜか隣の席の人は当たり前に持っていると突きつけられる。運が悪いと、「みんなちがって、みんないい」の授業の後に「みんなこうすべき」という道徳の需要、というような凄惨なカリキュラムになることもあるのかもしれない。
・人を傷付けるような創作物で救われ、人を癒すような創作物に傷付けられる。それ自体は、多かれ少なかれ、誰でもそのようなものを持ちあわせていると思っている。その創作物はときに道徳の教科書になったり、90年代悪趣味カルチャー本になったりするのだろう。
俺は舞城王太郎の『土か煙か食い物か』を親子が殺し合う物語として読み、癒された。同じような人はいないだろうかと感想を読み漁ってもそのようなものは見当たらなかった。あそこまで親と子が「殺す」と言い争っているときの別の子のストレスを鮮明に描いた作品はないのなあと思う。
・インターネットではみんながみんなではないのでそう思うことはめったになくなった。最近も、みんな母親が高価な壺や数珠を売られたことがあったんだと知った。ただ、みんな変なシールが食器や家具に貼られているわけではなかった。ただ、そのようなみんなもいるだろう。インターネットの広大な海のどこかには。物語になってない物語のほうが珍しいのだろう。
・『愛されなくても別に』のAmazon紹介文にこのように書いてあった。
時間も金も、家族も友人も贅沢品だ。
共感度120%で大反響、続々重版!
共感度120%らしい。共感の難しさが描かれている小説が、共感が作品のウリとして紹介されていておもしろい。
かつてタワーレコードのCD紹介カードに「神聖かまってちゃんに共感できない人は幸せな人生を送ってきた人だと思う」とあり、俺はそれに対してそのような視点でのおすすめの仕方はあまり好きではないとブログに書いたことがあった。
共感の有無でコンテンツの良し悪しを語りたくはない。共感できなくてもすばらしい作品はいくらでもあるし、共感できるからといってすばらしい作品というわけではない。
とはいえ、共感はおすすめするときによく登場するように、やはり強い。それについては身をもって分かっている。
例えば、俺の場合は、親子関係は破綻しているほうが、そうでないよりかは「親しみやすい」。
それは、そのほうが共感できるから。そのほうが自然だから。
『アスペル・カノジョ』はそれを端的に、「見えている世界が違う」という言葉で表現していた。
ときにはそれが好きになったり嫌いになったりするときの決定的な要素にもなる。
・最近は、いやもうだいぶ前から、世には俺が親しみやすいコンテンツが増えているなあと感じるようになった。ただコンテンツの総量が増え、そのような作品が増えたというだけかもしれない。よく分からないが、俺の共感の回路は作動されっぱなしである。
・共感回路が侵略されているのでは。むしろ共感させる技術が発展しつづける昨今のコンテンツで共感しないことが難しくなっているのでは。
・いや、そうでもなさそう。「あなたとは違う」という分断線が引かれることのほうが多いかな。
・登場人物に共感できない。だから面白かった。が、あまりなくなってきている。
・「いいよなお前は、共感されやすい苦痛で」という最低の言葉が頭に浮かんできた。
・診療室や支援施設で辛さや苦しみを語りつづけていると、それらの共感されやすさに大きく差があることがうっすら分かってくる。共感されやすい物語の類型に落とし込む努力はしんどいが非常に有効だとも分かった。
・共感、よく考えてみると作品の評価と切り分けられていない。全然できてない。現にブログで書きたい作品はそういうものが多いし、俺は評価しちゃっているのは明らかだ。それもかなり。とはいえ、べつにそれを考慮する必要もないのだが、その傾向が自分にはあるとはっきりと自覚しておきたい。
THE BACK HORNの『孤独の戦場』でいう、「神様、俺達は悲しい歌が気が触れる程好きです」なのだろう。
今も昔も。相変わらず。
・こういう、どっちもどっちみたいなしょうもないことをふんわりと書いてしまっていて、俺はもっとまともなことを考えることができるだろう、できないのだろうかと悲しくなった。