まくるめさんが「『地獄の道は善意で舗装されている』は使い古されてきている」とツイートしていた。
似たようなものに「止まない雨はない」という慣用句がある。
これにいたっては使い古されているだけではなく、「そうではない」と反論するためのサンドバックして使われているケースの方が多いのでは。
ちょうど最近、「止まない雨はない」を殴っている作品にふたつほど出会った。
ひとつは、米津玄師が、
「止まない雨はない」より先に その傘をくれよ
米津玄師『KICKBACK』
と『KICKBACK』で歌っていた。
もうひとつは、最近読んだ『愛さなくても別に』で、
私の嫌いな前向きな言葉ランキング第一位は、『止まない雨はない』だ。あの、良いこと言ってる風のやつ。
もしかしたら十年後、幸せを掴んだ自分はこう言っているかもしれない。「あの時頑張ったから、今の自分があるんです。生きていて良かった」と。だけど別に、たとえ十年後に想像できない幸福が待っていたとしても、今の自分が生きていたくないことに変わりない。止まない雨はないかもしれないが、雨に耐え切れず野垂れ死ねば、空が晴れると知ることはない。生存者バイアスにまみれた言葉は、私以外の誰かの為に掛けてやってくれ。……なんてひねくれたことを思ってしまう。
武田綾乃『愛さなくても別に』
と嫌いな言葉ランキング一位として出てきた。
俺は「止まない雨はない」と面と向かって言われたことは人生で一度もない。そもそもインターネットでも前向きな言葉として使われているのを見たこともない。
だから「止まない雨がない」は出自からして「嫌われているなあ」という印象があった。むしろ、こんな言葉がよく今日まで慣用句として語り継がれてきたのだなと感心すら覚えるくらいだ。
祈りや信仰として自分に向かって言い聞かせるためならまあまあという感じだが、どうやらそうではなさそうだし。
ここ数年の風潮でいえば、「止まない雨はない」は「でも、そういうお前は傘を持っているじゃん」と返されることが多いのではないかとふと思った。
この傘は、結婚、配偶者の有無、太い実家、良好な人間関係、職業的スタイタス、安定した年収、顔や声、生活能力などが当てはまる。様々な傘があり、誰かはそれを持っていないし、誰かはそれを持っていることを当然だと思っている。
これらの中でもっとも影響があるのがおそらく「配偶者」で、この手の「傘」が出てくる当事者エッセイの話題をよく見かけるようになった。
例えばこんなかんじで。
「雨は降りつづけているのに、お前はただその傘を手に入れられたから雨が止んだと思い込んでいるだけ」
「どうやってその傘を手に入れたのか、それこそが物語になりうるのになぜ語らないのか」
「傘がダサい」「傘の見せ方が下手」「傘だと思っていたのに傘ではなかった」
「傘がなくなった」
など。
なんというか、「止まない雨はない」はなにか言ってる風として使うのに適しているし、そのぼんやりとしている比喩の弱さのおかげで、それでいて、なにか言ってやるときに使うのにも適している。
そのせいで、この慣用句は使い古されたあまりに、ついには新しい使い道を見出されている次第だ。
それにしても、「いつかきっとよくなる」系の言葉は種類が多い。ほんとに多いし、いくらでも言い換えができる。
俺は、その「いつかきっとよくなる」系の慣用句の中でも「夜明け前が一番暗い」だけは気に食わない。そのためにこの言葉はまったくのデタラメでしかないとは書きつづけていきたい。なんにせよ俺の嫌いな前向き言葉ランキング一位が「夜明け前が一番暗い」である。眠れずに、ゆっくりと夜が明けてきて、カーテン越しに日差しが見えはじめるときのしんどさと付き合いが長いこともあり、「夜明け前が一番暗い」は受け入れがたい。
曖昧にせず、正面から「これから先、生きていればいいことあるよ」とか、「未来は明るい」、「辛いことはいつか終わりが来る」と言えばいいのに。
そして「今はその話をしていない」と返されるといい。