単行のカナリア

感じて想する

24.~50.

  いつだって同じことばっか書いて飽きてる。飽きた。俺だけじゃなく、皆が。

 

24.最後尾もしくは壁際から愛を

ライブを見ているときにパニック発作になって以来、ライブは後ろで見るようになった。
狭い空間で人が密集していると調子が悪くなる。
ライブハウスでの居場所は壁際、または最後尾が定位置になった。
ただ人が密集しているということが、とても怖い。

THE BACK HORNの「シンフォニア」をライブで初めて聞いたとき、それは初めてライブ中に体調を崩して後方で見るようになったときだった。
「最後尾から愛を」という歌詞に心を射抜かれた。
常に最後尾にいることができればそれも一つの安定になるのだろうが、そうもいかない。
最後尾だと思っていたのに方向が反転し、最前列に叩きだされることだってある。
自分がどこに位置しているのか分からない。
示し合わせたように急に向きを変える他人の顔。


シンフォニア」は不思議な曲で、2010年代初頭に流行っていたリフ主体かつ四つ打ちを取りいれていて、歌詞は横文字や矢継ぎ早に横文字や用語が歌われていく。
THE BACK HORNは孤高のロックバンドではない。
最先端の流行りだって咀嚼し、糧にしていく。

歌詞の中で「何も変わらないけど洗い立てのシーツが夜を越えさせることもあるだろう」と日常のささやかな一コマが差し込まれる。
優しい言葉に心が洗われる。
そうだったらいいなと思う。
そういえば、最近シーツ洗っていなかった、そろそろ部屋を掃除しないと思う。
でも疲れているから今度にしようと思うから、いつまでも実行されない。

やろうと思うことと、実際にやれることはあまり一致しない。

THE BACK HORNの「シンフォニア」を聞くと心が奮い立つ。
かつてライブで味わった興奮が蘇る。
しかし心を奮い立たせたところでやるべきことやりたいことは特にない。
日々のなかで要請されるのは勇気や士気ではなく、ただ一日分の忍耐。
ただ、忍耐を繰りかえすことにも気力はいて、だからといって気力を滾らせても徒労に終わる。
生活の身の丈にあった気力が大事なんだろう。
その塩梅はいつでも難しい。

状況はどんどんどんどん悪くなってさらに悪くなり続ける。
越えがたい夜は忘れた頃にやってきて、その痛みを肝臓が一心に引き受ける。
酒、薬、何だっていい、楽になれるならば。安ければよりいっそう。
何も変わらないようで事態は悪化しつづけていっている。
それにも終わりがあるという話で、だからそこまで悲観してはいない。

まだ何も始まってないのだろう。
何かを始めるのに遅いことはなく、またその必要もない。
好きにすればいい。
好きにできるようなことがもはや殆ど残されていないとしても。

「始まりが僕らを待っている」

待ち合わせの時間に遅刻している。
スタートの合図はすでに鳴ったと人は言うし、自分のタイミングで始めるしかないのだ。
始めたいならば。


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25.尼崎日記

 『東京』がタイトルに含まれている曲は多いが『尼崎』となると少ない。くるりの『尼崎の魚』と、完全にノンフィクションの『A.M.G.S.K.』くらいしか思い付かない。人口数が30倍も差があるからべつに不思議な話ではない。

 『A.M.G.S.K.』のPVでは、阪神尼崎駅のアップから始まり、JR尼崎駅北側にある公園で終わる。一般的にイメージされる尼崎といえば、前者の、下町情緒ある商店街近くの阪神尼崎駅の方だろう。

 


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 尼崎といえば、俺が酒やら薬やらで酔っ払いながら深夜徘徊していた時期に、立ち寄ったファミリーマートの側で発砲事件があったらしい。その半月後、今度は北に約1km離れたところで住宅に発砲される事件もあった。それまで尼崎の治安は「世間のイメージより良い」と感じていたが、そうでもないのかもしれない。体感と実数値が異なることは多く、かりに数件でもインパクトある事件が発生してしまえば、その印象も強くなる。 

 兵庫県の不審者MAPは、独特のセンスをしている。強盗・脅迫が銃を突きつけているアイコンで、風営・売春がバニーガールのアイコン。動物のアイコンはクマだが、兵庫県はイノシシ被害が全国最多の年が何度かあるようだし、そこはイノシシが適切では、と思う。六甲道~芦屋あたりでイノシシを見かけたことが何度かある。

https://www.gaccom.jp/safety/area/p28/c202

 

 発砲現場は、深夜徘徊時に撮ったこのびっくりドンキーから南に100mほど下ったところにあるコンビニ。

 

 また別の日、尼崎を深夜徘徊(よくしてた)していたとき、夜2時ごろに腹が減って適当にのれんをくぐった店で担々麺を食べていたら、おそらくスナックの勤めを終えた30代と思しき女性が入ってきて、俺の側に座って「一口頂戴」とねだってきて、俺も「いいっすよ」と担々麺をおすそ分けしたことがある。私的な食べ物、というか見た目ぐちゃぐちゃで気持ち悪くなるのによく貰おうと思ったな、と驚いた。「炭水化物控えているからあんま食べられないのよ」と何も注文もせずに店員と喋っていて、常連客のような初老の男性がやってきて一緒に店を出ていった。しいてエピソードを探しても、それくらい思いつかない。

 

 2014年に、阪神尼崎商店街に来恋夢(くるむ)神社が創建されたらしく、はじめて目にしたときはそのネーミングのズレている感と、ピンク一色の外観のあざとさに驚いた。

 尼崎のうまい飯屋には、だいたい看板に『松本家の休日』『今ちゃんの実は』で紹介されました、とテレビのキャプション付き紹介文が張ってある。俺はテレビを見ないからよく知らないが、どうやら関西では影響力があるテレビ番組のようだ。

 尼崎にはスーパー玉手があり、そこでクリオネが売っていたときもある。激安スーパーというイメージがあるが、関西でもっとも商品が安いスーパーはサンディだろう。一時期は豆腐一斤30円、チーズ7p100円とかで、PBだけではない食品も安い。トライアルは弁当が安い。ただ一人暮らしにおいて100円ローソンを上回る便利な店はないと思っている。知りあいに尼崎のコストコに連れていってもらったことがあるが、一人暮らしには持て余す量のものばかりだった。

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 尼崎ボートレース場付近で、「あなたはよくても みんなが困る」という標語を見かけて、それはそう。「みんなが良くても 俺が困る」という標語を見かけても同じこと思うけど。

 JR立花駅とJR尼崎駅の中間くらいにある公園で、「家のカベにボールを投げないで下さい。『めいわくになる』 野 球 禁 止」と看板を見つけた。これもそうだが、公園で注意をするならば「家のカベにボールをぶつけないで下さい」が正しいのでは。家のカベにボールを投げるのは、そもそもいつの時代でもめいわくになるだろうし。

 

 このような写真を撮っていたのも近辺に引っ越して数年間のこと。尼崎出身の文化的ななにかといえば、車谷長吉の『赤目四十八滝』の舞台であり、中島らもの実家があり、梨本ういがやっているあらいやかしこがよくライブをしていて、完全にノンフィクションが歌にしている、くらいだろうか。

 発砲といえば、ある山奥の廃村を探索していたとき、発砲禁止の看板を見つけた。むしろ許可されている場所があることを知らなかった。

 尼崎には「尼崎tora」というライブハウスがあり、よく梨本ういがライブをしているイメージがある。あらいやかしこのライブを一度だけ観にいったことがある。


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 兵庫県のいいところは、死体解剖率の高さ。神奈川県41%、兵庫県36%、東京都17%、広島県1%(2018年度)と、二位に位置している。ということを『死体格差』で知った。いいことなのだろう。そのように書かれていたので。

 

26.甥っ子と謎生物とカナヘビの話

 甥っ子と謎生物とカナヘビの話。

 甥っ子は俺にいろいろな漫画をおすすめしてくる。(『チ。―地球の運動について―』とか『ワールドトリガー』) 話題の漫画が多く、俺は読んだことがあるものばかりでそう伝えると、甥っ子はちょっと残念って顔をする。甥っ子は嘘を嫌うので、知らない振りをして「じゃあ読んでみるね」といって会ったときに「おすすめしてくれたマンガ面白かった! ありがとう!」と感謝する、みたいなことはしない。

 で、前に会ったときにおすすめされた『拾った謎生物の観察日記』は知らずに、家に帰ってすぐに読んだ。なかなかおもしろかった。無料で読める、SF異種交流ストーリー。

 この、謎生物のリーハちゃんを見ていたら、昔飼っていたカナヘビをおもいだした。俺はカナヘビが大好きで、小さいころの一番の友人だった。茶色っぽい地味な肌と、爬虫類の良さが凝縮されたフォルム、トカゲと違って歯がないので危害性がないのも大きい。ちょうど手のひらに収まるサイズ感、ひょろひょろしたしっぽ、でっぷりした腹部など魅力が多く、それはもう可愛がっていた。カナヘビの子どもとか、あれもう天使の別名だろう。そしてなにより、カナヘビは給餌がおもしろいのだ。口を二回つんつんとすると、カナヘビは口をパカッと開ける。餌の尺取虫を近づけると、パクっと噛み、体全体を動かしながら飲みこむ。その一連の動きを見るのがとても好きだった。

 甥っ子と昆虫談義をしてたき、カナヘビを一度も見たことがなく、その存在すら知らなかった。俺の地元では至るところで日向ぼっこをしているカナヘビがいたから、これは意外だった。そういえば、俺も関西に引っ越してきたから一度も目撃していない。イノシシは何度も目にしていたのに。

 goggle画像検索でカナヘビを調べたら、四番目にとかげが出てきた。それは違う。とかげはまず動きが機敏すぎて捕獲が難しく、給餌しようとしても歯があって噛まれると痛いから少し苦手だった。苦手といえば、キリギリス。「アリとキリギリス」で怠け者として登場するが、あいつに噛まれるとめちゃくちゃ痛い。

 『拾った謎生物の観察日記』は日記形式でストーリーが展開するのと、そのSF設定が、どうもノベルゲームっぽいなと感じた。ノベルゲームと昆虫といえば、小松貴の 『フィールドの生物学14 裏山の奇人 野にたゆたう博物学』で、作中に学位論文の謝辞に好きなエロゲキャラの名前(タマ姉)をこっそりと載せるエピソードがある。

 秋から冬にかけての論文執筆たけなわの時期、友人も伴侶もいないすさんだ私の心を癒したのは、近所の凍てつく森の夜に潜むフユシャクやコケオニグモの美しさ、野ネズミの愛らしい顔であった。もう一つの大切な心の支え、それこそが私のノートパソコンの内部に巣くう「二次元美少女たち」であった……!

 本自体は硬い内容で、基本的には昆虫や動物の学術研究やフィールド観察が大半を占める。それもあってか、突然、エロゲについて語りだしたのがおもしろかった。タイトルの「奇人」という表現に誇張はなく、ひとつ具体例を挙げれば、筆者が大学生のころにカラスに襲われたくて黒い大きな帽子を被ってカラスの群れに奇声を上げながら突撃した、こういったエピソードが山にいる虫ほどある。幼いころからひとりで裏山にずっと居つづけて生き物を観察していたくらいで。本人も前書きで書いているように「私は周囲の「人間」たちからいちじるしくズレた価値観と常識を持った、奇怪な生き物」なのだ。俺は虫と同じくらい人間とも遊んでいたのでそこまでにはならなかった。共感したのは、作者も幼少期に鳥獣保護法を知らずにコウモリを飼っていたこと。ペットの猫が玄関に置き土産するのもだいたいコウモリだった。

 

 甥っ子が俺と仲良いのって、もしかして俺が「謎生物の観察日記」的なおもしろさがあるのか? とふと思った。だったらもっと謎生物の一員として励んでいきたいところだが、甥っ子はそういった作為もすぐに見抜き嫌うので、余計なことはしない。

 

27.Syrup16gの歌詞から曲名当てクイズと言葉

 「みんなで早押しクイズ」という人気スマホアプリでは、ユーザー自作のオリジナルクイズで遊ぶことができ、部屋を立てたときに人を誘う機能があって俺は誘われて、そこで有志が作った「Syrup16gの歌詞から曲名を当てるクイズ」をやっていたことがある。

 勝敗はだいたい一位か、二位だった。早押しなので反射神経(とスマホのレスポンド速度)が問われそうだが、俺はある程度歌詞が表示されたら回答ボタンを押し、数秒の回答時間中に考えて答えれば勝てると気づいた。なにせSyrup16gの歌詞はだいたい分かるし。外れとペナルティを食らって負ける。play.google.com

 Syrup16gの歌詞のフレーズから曲名を当てるクイズをやっていて気づくことがあった。

 それは、わたしの頭のなかで、特定の曲が曖昧なカテゴリー分けをされていて、歌詞の一部のフレーズだけではひとつの曲として認識できていない曲がいくつかあるのだ。例えば「Antythig for today」や「Are you hollow?」、「My Song」「Mouse to Mouse」「Your eyes closed」。あと「君をなくしたのは」「君を壊すのは」もそう。何度か誤答してしまったことがある。

 

 これらの共通点は、同アルバムに収録されている、似たような曲調ということだ。おそらく、大半の人は「似ていない」と言い返すだろう。でも、俺のサウンドに対する粗い解像度では、これらの組み合わせの曲は似ているようなのだ。

 

 この現象に関して、丸山圭三郎の『言葉と無意識』という本を参考にしてすこし考えてみる。

 本によれば、言葉はすでに分節され秩序化されている事物にラベルを張りつける。また、名づけることによって異なるものを一つのカテゴリーにとりあつめる。

 それらの作用を、それぞれ分類化と統一化と呼ぶ。これを楽曲が収録されているアルバムに当てはまると、曲名はアルバム名の分類化であり、アルバム名は曲名の統一化となる。

 アルバムのタイトルとは、統一化に他ならない。 

 

 ところで、アルバムを通して聞くというのは、いまでも主流の聞き方なんだろうか、と思った。レコメンド機能による関心の先取りがあり、アルゴリズムによって提供された好きな物詰め合わせを聞きつづけることができ、嗜好はビックデータからフィードバックされて細分化されていく。アルバムにあまり好きではない曲があると、それだけでレコメント機能が割りこむ余地ある。

 俺は、Syrup16gに関しては特に、アルバム全体で聞いていることが多い。そのような聞き方がもっとも手軽だった時代の影響もあるし、あまり好きではない曲がないという理由もある。それでも、俺の頭の中でSyrup16gの曲はいまだ秩序化されていないから、歌詞から曲名を当てるときに「同アルバムの別の曲」で間違ってしまう。

 

 それにしても、Syrup16gの歌詞から曲名当てクイズをやっていると、「ほんとすばらしい歌詞だなあ」としみじみする。「ちゃんとやんきゃ素敵な未来なんてのははじめからねえだろ」と俺は何度心のなかで唱えたことだろうか。

  とはいえ「本当のリアルはここにある」とか「美味しいお蕎麦屋さん見つけたから今度行こう」とか、言葉単体を抜きだして眺めると、それはなんともいえない。なにせ、その言葉というのは、その文字列だけではなくて、それが登場する歌詞の文脈があり、五十嵐隆の声で歌われていてギターが弾かれ、キタダマキ中畑大樹の両名によるビートがあってこそで、歌詞なのだから。一度聞いたら、もはや文字列に還元することはできず、必ず曲として想起されてしまう。「ここの歌詞がいい」の言葉はどうやったって「その曲の歌詞、曲名、サウンドやメロディーがいい」から切り離すことは不可能なのだろう。

 これは「間テクスト性」の一種といえるもので、本によると。

すべてのテクストは、これに先行する諸テクストとの連関において書かれ、かつ読まれる。現に存在する現象としての〈表層としてのテクスト〉の背後には、このテクストを可能ならしめた発生としての〈テクスト〉が「常に、すでに」存在する。

 と解説されている。それらのテクストを読むのは他ならず自分である以上、そこでは脳内神経伝達物質のバランスやアルコールの血中濃度すら影響してくる。それについては「演劇や音楽、絵画、彫刻もまた一つの言葉であり、見るたびに、聞くたびに、その都度新しい意味を与えられ与えられ返す体験の一回性」とある。歌詞を鑑賞するというのは、このような営みに位置づけられるのだろう。

 つまり「この歌詞がいい」、歌詞と間テクストの入力→自分というブラックボックスの情報処理器官→「この歌詞がいい」と出力、の流れ。 

 俺みたいに音楽レビューの体で歌詞をことさら取り上げていると、賢しい見知らぬおやじに苦笑されるのは、間テクストをないがしろにしている、わかってない、と思われるからなんだろう。サウンドを分類化する語彙を持っていないと、必然、書くための手がかりとして歌詞が主要になってしまうから。

 

 俺はSyrup16gを聞いたときの「かんじ」を言葉にすることができずに、なぜ言葉にできないかについてずっと考えている。答えはまだ出ていない。 

 

……ってか、「みんなの早押しクイズ」ではなくて「みんなで早押しクイズ」なんだね。ずっと間違って覚えていた。「9mm parabellum bullet」を「キュウミリ・パラベラム・バレット」、「OGRE YOU ASSHOLE」を「オーガ・ユー・アスホール」みたいな勘違いしてたのか。

 グーグルは優しいので、表記違いをしらっと無視して、次の検索結果を表示してくれるるが、その優しさのせいで正式名称を勘違いしつづけることがある。

 

 SyrupXgのNにいろいろな数字を代入して検索にかけてみたところ、いろいろなサイトでSyrupXgを名乗るユーザーがいるようだ。なんか背番号みたいだな。Twitterでは16gを背負った人が多い。かつての俺もそうだった。16gならそう多くもないが、数字を増やしぎると体に障ると彼女が言った。

 

28.THE BACK HORN『赤眼の路上』より「インポの路上」について

 カラオケで人前で歌いにくい曲の一つに、THE BACK HORNの『赤眼の路上』が挙げられます。それは「理解った顔したインポの路上よ」というフレーズが原因です。ゴールデンカムイのおかげで、少しだけ「勃起」と言いやすい世の中になったが、いまでもインポとは口にしにくいと思う。

 俺はかつて「インポの路上」について、「発起心を表現している」「いざというときに立ちあがれない意志の弱さをインポに例えているのかもしれない」と書いた。

 今ではさらに新たな解釈をすることができる。そのとき出てくるキーワードが「抗うつ剤」である。

「世界の疫病負荷研究(GBD)」の研究によると、現在、世界の鬱病患者数は約二・六億人存在する。ここには、医療人類学者の北仲順子も指摘するように、一九八〇年代にアメリカ精神医学会作成の診断基準のDSMが改定されたことで「鬱病」とされる範囲が広がったこと、それに加え、一九八〇年代末から一九九〇にかけて新世代抗うつ薬(SSRI)が登場したことで製薬業界とも結びついた世界的なマーケティングが行われ、「鬱病」の概念が拡散していったこと、といった事情が存在する。

 『失われた未来を求めた』木澤佐登志

 また、ECRIT-O十三号において北側淳子はこう指摘する。

グローバルメンタルヘルス運動でも当初は抗うつ薬を世界中に配りさえすればOKみたいな言説が少なからずあったんですが、今ではガイドラインが書き換えられ、少なくともマイルドディプレッション(軽傷うつ)に関しては抗うつ薬ではなく心理社会的介入を最初に行うことが原則になっています。にもかかわらず、日本ではなかなかそれが進んでいない現状がある。 

 『蔓延するうつ病と精神医療の現在』北川順子

 

 そこで紹介したい曲が『運命複雑骨折』。「抗鬱剤をくれ不安でしょうがない」と表記される抗鬱剤が「くすり」と歌われるのだ。向精神薬の種類は多い。抗うつ剤双極性障害には禁忌(抑うつ症状が重度なときには少しだけ投与することもあるらしい)だし、抗精神病薬気分安定薬もまた役割が異なる。そこで抗うつ剤が扱われているのはヒントになる。

 あと、必要なのは、抗うつ剤の副作用といえば、男性では特に性機能不全があるという情報だけだ。というか俺をはじめ、twitterやネットではそういう意見が多くあるが、副作用に表記されている確率は1%以下のようで、よく分からない。ただ『痴漢外来』によると、性犯罪者に抗うつ剤を投与している国らしいし、まあ1%以下だとしても母体数が増えると、該当者も当然ながら増える。

 これらの情報を組み合わせて「インポの路上」を解釈してみると、うつ病の時代(In The Time Of Lexapro)が加速していくなかでいまだ抗うつ剤が安易に処方されていてその副作用で性機能不全を起こした人間が路上のあちらこちらを歩いている状況に批判的なまなざしを向けている、と言えるかもしれない。

 とまで書いて、さすがにここまでいくと牽強付会でしかなく、言えるかもしれないことはない。


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29.今いる世界にさよなら、できない

何も変わっていないけれど、ドラッグによって一時の幸福を得てその勢いで世界を肯定しちゃって、でもシラフに戻って現実に立ち返ることにはならずに、トリップしたままでそのままグッバイする物語はいい。

シリアスな作品もいいが、ドラッギーな作品もいい。数年前までは、世界に打ちのめされた人間が世界を呪う系が好きだったけど、今では世界に打ちのめされた人間がトリップ状態で世界を肯定する系の作品を読むことが増えた。

見えている世界がだいたい同じだったら、そこからの違いは気にならない。

小学生の頃、なぜか家に石丸元章の「SPEED」があって、筆者がラリッて見知らぬ老人にドロップキックをかました描写を読んで「僕もこれくらいふっきりたいなー」と憧れていた。とりあえず今の生活の苦しみから解放してくれるものなんでもよかった。そのときに目にした「ドラッグ」が画期的な選択肢として見えたのだ。その動機においては、母が買っていた水晶の数珠やエスパーシールとそう変わりがない。

中学生の頃、自分が苦しみから逃れるためには精神変容しかないと思って、脳についていろいろと調べていた。明晰夢、対外離脱、タルパ、変容意識、その他もろもろ。とにかく脳さえ誤魔化してしまえば、もう少し不安は軽減できるのではないと必死だった。

結局、すべての試みは失敗し、すぐに飽きて、なんら救いには役立ってくれなかった。ただそれに熱中しているときは不安を遠ざけることはできていた。

その後は、「いや脳神経科学だ」とか、「やはり哲学か」とか、「てか宗教でしょ」とか、「それよりも行動分析科学がいいのでは」とか、「酒だ!薬だ!」とか、「つまるところ、死でいいのでは?」とか迷走しつづけ、ときには「森田療法とか認知療法を試してみるか」とか「第三世代の認知行動療法、マインドフルネス療法の時代だ」とか、手あたり次第に救いを求めてつづけていたが、結局のところ、いまでは正しい容量・用法を守った服薬に落ち着いたのでした。せーのっ!SSRI最高! 序盤の性欲が消滅していくシーンにはびっくりしたけど、最後らへんはあんまり動揺しなくなった主人公の成長に感動しました! 

 
幸か不幸か、僕にはドラッグを手にする金と人脈がないの手を出さずにいる。だから、ドラッグ的なものはフィクションとしか消費できない。ただし、フィクションとしては大好きなテーマになりつつある。

ただ、日常でドラッグに接近したことがあって、以前の職場ではシンナー大好きかつドラッグ関係の前科持ちがいて、休憩時間にドラッグの体験談をよく聞かせてもらっていた。面白かったのはシンナーによる共有幻覚の話で、その人いわく「バルタン聖人みたいにビームを出せるようになって仲間同士で戦ってた(わりとあるらしい)」「ある家に空から光が舞い降りていて、翌日その家の人が死んだ」とかの不思議なエピソードを教えてもらった。

僕があまりに興味津々に聞きだすもんだからやりたいのだと勘違いされて、「お前、歯がボロボロになるから絶対にシンナーはやんないほうがいいよ」と釘を刺されたが、心配されなくてもやる予定はない。その職場はすぐに辞めてしまったが、いまも僕はとてもヘルシーに生きている。

 

ただ、いまもなおドラッグ的なフィクションを読みつづけている。教訓を引き出すことができないような、ただの悲劇でしかないフィクションがいい。それよりもいいのが、脳神経伝達物質を混乱させることではじめて世界を肯定できるようになる瞬間だ。僕にとっての受けれいやすい幸せとはそのような形になってしまったのだろう。有無を言わさない神経への直接関与のみがリアル。僕にとってはフィクションだが、芸能人が逮捕されているニュースを見ていると現実でもあり(しかもその現実はお話のようにきれいな終わりはやってこない)、しかしいまのところ僕には関係ないことだとまたフィクションに回帰していく。

 

30.マルチ商法はいいし高額商品もいいが霊能力者はよくない 

 母は、マルチ商法に騙されつづけてきた。幸いなことに、母が勧誘する伝手はなかったから、そこから拡大しなかった。失うような友人が端からいない! しかし、そういった孤独な状況に陥っていたからこそ、うさん臭くても自分に親しくしてくれる販売人を無批判で受け入れ、湯水のように金を溶かしていたのだろう。

 ここから、具体的にどういったマルチ商法があったのか紹介していきたい。

 

エスパーシール

 家にあった食器は、すべてダイソーにありそうな白っぽい皿で、その裏にはエスパーシールが貼ってあった。△の、目のような模様があるシール。余ったシールは、他の家具にも目立たように張られていた。Big Brother is watching的不気味さがあった。家に貼ってあったのはエスパーシールと、菓子パンに付属していたポケモンシール。気色悪くて、俺の頭がおかしくなったときに全部割って、もうない。科学では解明できない大宇宙の「ま」心は、科学では解明できない謎の効能しかないようだったが。

数珠

 身内に自称霊能力者がいる。母はその人の信者だった。「この数珠を付けると悪い気を追い払ってくれる」という言葉を信じ、俺たち家族は変な数珠を付けて生活させられることになった。先生に注意されて、隠すようになった。

浄水器 

 ある日、家に中年男性が訪ねてきた。「水はこんなに汚染されているんですよ!」と、ビーカーと妙な装置を取りだして実験をしだした。「ほら見てください!」とビーカーの中にぷかぷかゴミが浮かんでいたのをみて、母は「そんなこと……知らなかったです」と顔が真っ青となり、次の瞬間には浄水器を購入していた。2lくらいある太田方の浄水器

視力回復超音波器具

 いつの間に家にあった視力回復器具。両目で一日二十分、謎の器具を目に当てていた。目を閉じて休ませる以上の効果くらいありそうだった。べつに器具はいらないが。いまの俺の視力は0.01である。

高額教材

 ある日、家に中年男性が訪ねてきた。「この教材、あなたと同じ学校に通う○○君が使い始めてから成績が伸びたんですよ!」を聞かされ、母は「そうなんですか!?」と、次の瞬間には高額教材を購入していた。俺はその時点ですでに習い事をふたつやらされており、キャパオーバーしていたから、購入したところでやる暇はなかった。

聖書

 これはマルチ商法と関係がないかもしれない。段ボールの中から埃まみれの聖書が見つかった。おそらく母は勧誘されるままに聖書を手に取ったらしいが、付箋やマーカーが最初の30ページくらいで終わっていた。どうやら頭が悪い母には難しかったようだ。

伏見稲荷の端っこにある小さな拝殿

 例の霊能力者「ここが、一番強い力をもった稲荷様がいるのよ!」母「そうだったんですか!」 で、年に一回ほど、泊りがけで伏見稲荷の端っこにある小さな拝殿に連れていかれた。 ドレスコードは、謎の数珠を左腕につける。そこで、一年分のパワーを充電するといいらしい。これに関してはそう悪くない。ガキにとってはただの旅行気分で、伏見稲荷で食べたすずめの丸焼きは獣臭くて骨が硬くあまりおすすめできない。

自称霊能力者

 母はある時から、マルチ商法的なものに手を出さなくなった。痛い目を見たからではない。ある霊能力者の信者になって、そこで紹介されたものを購入するようになったからだ。数珠、仏壇、お守り。さぞ高名な霊能力者とか思って検索をしてみたところ、何一つ情報が出てこず、いまでもあの霊能力は謎の存在である。中学生のころの俺を占い未来予想図では、俺はもう結婚していて責任ある立場を任されているはずだったのだが。母は信仰が足りなかったのだろう。

 

 シングルマザーの姉は、マルチ商法によく誘われる。苦労してそうな人間を見つめては、親切なひとたちがあれやこれやをオススメしてくるわけだ。俺と姉は「母を殺したかったことがある」という点で年をとってから仲良くなり、姉には母の二の舞になってほしくないのでその手のことは俺に一旦相談してほしいとお願いしている。それで、同僚から「○○いいよ!変われる!」みたいな勧誘がくるわくるわ。シングルマザーというのは、ここまでマルチ商法に誘われるものだなとおもった。 

 具体的名前を避けるが、「ブレイクスルー」とか、「ハッピー」とか、「龍」とか、そういったワードの誘いがある。Instagramで勧誘の総本山になっており、コメント欄が眩しいことになっている。姉は経済的に苦しい生活を送っているから、俺が調べて「それ、高いよ」と言えばまず関わろうとしないので安心ではある。この手のマルチ商法は、どうやらシングルマザー枠が用意されているらしく、手厚いサポートがあるようだ。高額の。

 


 俺は、科学を信じている。正確にいえば、『社会心理学講座』にあるように、

「科学者たちが合意する理論にしたがって適切な実験方法が定められ、実験機器が出す結果の意味が解釈される。この解釈以外に事実は存在しない。観察された事象が世界の真実の姿がどうなのかを知る術は、我々人間には閉ざされている。科学の成果が信じられるのは、この分野で事実が生みだされる手続きが信頼されるからです。どの理論が正しいかを決定するのは結局、科学者共同体のコンセンサスにすぎません」

 という留保の付きの信じ方だ。英才教育を受けてきたのだろう。母にしては。だから俺は学歴は高卒で、体系的な学問を学んだことはないから、俺もまた人が言っていることを鵜呑みにしている。たまに『生命科学クライシス』『科学を語るとはどういうことか』とか読んで、よく分かんねえなとなっている。

 

 俺が気がくるって実家に連れ戻されたようになったときに、母の信仰についてぼろくそ言ってからは隠すようになった。もう会ってないし、話すことは数年に一度、用事のやり取りくらいだ。だからもういまの母がなにを信じているか詳しくないが、どうやらまだ霊能力者と繋がりがあるようだ。まあ他人に迷惑をかけなければいいのでは、と思う。なにせ、母は知人が少なく、ついには孫にも嫌われだしたから、母が影響を及ぼせる相手はいなさそうだし。まあ、だからこそ、母は昔から今まで、よくわからんものを信仰してしまっているのだろうが。

 事情を考慮したところで、白い皿の裏に貼ってあるエスパーシールのようなものは気色悪かったことに変わりはない。科学では解明できない大宇宙の「ま」心に頼るより、もっとどうにかならなかったのではと思う。ま心、なかった。

 

31.俺が暗い

Syrup16gが暗いのではなく、時代が暗かった」とどこかのレビューで読んだが、もっと言えば、俺が暗いんだろうな。いや、気持ちを暗くするような解釈を好むといったほうがいいか。生と死の両価性があったときに先に死について目が奪われるというか。そういうことばっか書いているから、「間違っている」とか「的外れ」とか「自己陶酔ポエム」とか「インターネットデブリ」とか思われているんだろうが、俺はもう繊細な少年ではなくなってしまったから、「それはそうかもしれないが、解釈バトルやるか?」と対抗してしまうか、見なかったことにしてしまうようになった。以前は「ブログをやめたほうがいい」とコメントされて一週間ずるずると引きずって、挙句の果てにブログに書いて気持ちを落ち着かせるような感性は俺から失われた。文章の魅力って、なにかしらの葛藤が生みだすエネルギーがあるのだろうが、俺からそういうエネルギーが失われて、結果、ただなんか暗い人間になっている。

 

32.血中濃度格差社会.

 社会への適応度を、アルコールと向精神薬血中濃度の低さを基準に判断するならば、俺は社会に適応できていない。

 数年前にプッシュアップバーと腹筋ローラーを買って自重トレを始めた。平均して週に一度やっていて、最近になってついに腹筋ローラーで立ちコロができるようになった。腹筋に限定するならば「継続とは力なり」は確からしい。達成できたときは充実感があった。

 太陽の光を浴びる、リズミカルな運動をする、瞑想、トリプトファンが含まれた食品を多く摂取する、よりも、抗うつ剤で選択的にセロトニンの再取り込み阻害をしたほうが明らかな効果があった。

 抗うつ剤の作用機序が知りたくて読んだ本に、ふたつの動物実験がのっていた。抗うつ剤を投与した鼠は「溺れたときに諦めずにもがく時間が多少伸びた」、「ビー玉(ネズミにとって異物でストレス・不安を引きおこす)を気にする回数が多少減った」といった実験が紹介されており、したがって「抗うつ薬は抗絶望効果がある」と解説されていた。

 しかし、『アルコールとうつ・自殺』という本に、「抗うつ薬には抗借金効果も抗失業効果もありません。やはり借金や失業といった根本的な問題を解決しなければ、問題は解決されません」とあり、それが正しいような気がする。不安を軽減してくれるだけでも、それだけでもとてもありがたいが、賽の河原の石積み感は否めない。

 

33.ラムネの瓶に沈んだビー玉をどう捉えるか

コップの水が半分残っているとき、「まだ半分あるか」「もう半分しかないか」、どう捉えるか、という話を自己啓発本でよく目にした。

 同じように、ラムネの瓶に沈んだビー玉をどう捉えるか、についてそれを「美しい」と憧れるのか、「閉じ込められている」と嘆くのか、違いがある小説と本に出合った。

 「閉じ込められている」は、VELTPUNCHの「Fighting Pose」。「あたしは わたしは まるでラムネのビー玉のように この町を出ることはなかった」。二番の歌詞は「あたしは わたしは 迷い込んだ温室の蝶のように その扉に気づいてなかった」とあり、ラムネのビー玉をその閉鎖的環境として例えている。

 


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 一方、このラベで二年連続トップを飾った『千歳くんはラムネ瓶のなか』では、誰にも触れることができない孤高の美しさとしてビー玉が例えられる。

もっと高く、もっと遠く、手を伸ばすことさえバカらしくなるような場所を輝けばいい。誰にも触れられない、撃ち落とされない場所で美しく在ればいい。

それは例えば、夜空で青く輝く月のように。

いつか本で読んだ、ふたの開かないラムネの瓶に沈んだビー玉みたいに。

千歳くんはラムネ瓶のなか

 ラムネ瓶のビー玉を見て、人がどう感じるか。の話で、対照的なのが興味深かった。まあ、スクールカーストをテーマにしている時点で閉鎖的な意味は少しは含まれそうだが。

 

 『千歳くんはラムネ瓶のなか』はnot for meだった。スクールカースト上位のいわゆる陽キャが主人公で、ステレオタイプ的演出のあとで内面を掘り下げ、スクールカーストという環境を舞台にしたストーリーが展開される。いかに陽キャであることを自覚的に振舞っているか、陽キャになるためのノウハウ、陽キャへのありがちな批判への応答、といった理屈面に紙幅が割かれており、そこがnot for meだった。あと、スクールカースト上位の力学関係。俺はそこで語られていた内容に目新しさは感じなかった。それら理屈に裏づけされた振舞いによって、「うるさい馬鹿」を論破するストーリーもまた面白さを感じなかった。同じスクールカーストをテーマにした、深町秋生の『ヒステリック・サバイバー』のほうが圧倒的に好き。こっちは暴力で固定された関係性を粉々していく、バイオレンススクールカーストデストラクションで面白い。顔ではなく、武力のほうが強い世界。

 どちらかといえば、俺はラムネのビー玉は、閉ざされていると感じるかもしれない。出れてよかった、本当にそう思う。

 

34.『千歳くんはラムネ瓶のなか』で学ぶ脱オタファッション論

『千歳くんはラムネ瓶のなか』は、脱オタファッション論はなかなか興味深かった。買い物に付き合って一式揃えてあげるというシュチエーションは、げんしけんを思いだした。

 ファッション論は、おしゃれを目指すのではなく、ダサさからの脱却を目的にしたもの。「趣味レベルで時間やお金を注ぎ込むほどではないが、ダサいとは思われなくはないし、最低限の自分らしさぐらいは出したい」という人たち向け。いわゆるノームコアのような装いになるのがゴールなので、アイテムもスタンダードなものが選択肢として挙げられる。靴は、スタンスミス、オールスター、オーセンティック。トップスとパンツは、ユニクロ無印良品など、組み合わせやすい無地でベーシックなデザインならOK。鞄は、アークテリクス、インベーダー、もしくはアウトサイダー。なるほど、スタンダードなのかもしれない。俺の世代なら少なくともそう。

 ラノベを読んでいたら脱オタファッション論を読まされていた。「トップスはまだしも、試着なしにパンツ買うとかあり得ない!」と、俺が学んだことと同じで、これを読んでマネした中高生は「ダサい」とは言われまい。  

 

 ファンション、自炊もそうだが、高いものに先行投資し長く使用することで費用対効果を抑えることができるのが、それらの初心者を脱出したと言えるのではないかわたしは思っている。その点で、わたしはファッション初心者ではない。

 わたしが休みの日にフラっと出かけるとき、だいたい、ビルケンシュトックのサンダルを履いて、マスターピースのリュックを背負って、財布はコードバンのモノを長く使っている。アウターはだいたいセカンドブランドのセールで買ったやつで、パンツはTOPMANとかヌーディージーンズのスキニーとか履いている。二十代前半はわりとファッションに金をかけていて、南堀江に行ったり古着屋を巡っていたくらい。が、ハイブランドに手を出すことはなかったから、ファッションに詳しいわけでもない。家にある一番高価なものは、ダナーライトのブーツで5万くらいした。あの頃の俺は食費を削ってファッションに金をかけていた。現在は、もうまったく金をかけていない。

 地元にいた頃は、GALFYのジャージやカンゴールのバケットハットがオシャレの代名詞だった気がする。そうでないときは、しまむら。わたしもしまむらのヘビーユーザーだったので、『抜きゲーみたいな島に住んでいる私たちはどうすればいいですか?』の「ここは試着セックスOKのファッキンセンターはめむらだよ!」でゲラゲラ笑った。あと背伸びして街に出かけて、RAGEBLUE、GLOBALWORKとかたまに買うくらい。

 

 建設業界で働いていたときは、ポールスミスと神戸デザインフェスで購入した名刺入れを使用していた。Snow Peakのスキットルや、元町付近のおしゃれなインテリアショップでピルケースを買ったこともある。手作り市とか、デザインアートとか、知人に誘われてよく行っていた。

 

 部屋の収納、某服屋の内装工事現場のお下がりでもらったディスプレイ用巨大ラックに、だいたいFellowsのバンカーズボックス入れて管理している。職場にあったBRUTUSで気に入ったインテリアを参考にした。そういう業界だったので、D&DEPARTMENTとかJOURNAL STANDARD FURNITUREとか、たまに行っていた。金があるならばインテリアグッズはD&DEPARTMENTで買うとだいたいオシャレ感ある。

 これらすべて過去の話で、部屋はもうゴミ屋敷。いま使っている万越えのファッションアイテムがボロくなっても買い直す余裕はない。

 

35.「麻枝准Syrup16gを好きなのはよく知られているが」からの語り 音楽編

・「麻枝准Syrup16gを好きなのはよく知られているが」から始まる下書きを見つけたが、はたしてこの事実は本当によく知られているのだろうか、と思った。

麻枝准Syrup16gの片方は知られている方だと思うが、どちらともなるとよく知られていなさそう。

・「スイートプリキュア♪」のドラムはSyrup16g中畑大樹で、さらにいえばベースをVOLA & THE ORIENTAL MACHINEの有江嘉典のコンビでやっていることは定期的に話題になって知られている。

 

TheピーズKING BROTHERSが出演したイベントを見にいったとき、前座であいみょんが弾き語りをしてはじめて知った。

・『王様ランキング』のアニメの2期OPでVaundyをはじめて知って、絶対に人気になるなと思っていたら、すでによく知られていた。

・当時から邦楽ロックシーンで絶大な人気を誇っており、解散後も後世に影響を与えつづけている(と俺が思っている)ハヌマーンが3000枚限定で「REGRESSIVE ROCK」のリリースを発表したとき、速攻で売り切れると慌てて予約したがだいぶ猶予があった。

・そのハヌマーンが魔法のiランドに公開していたサイトの好きなバンド項目にザ・バックホーンと書いてあったことはよく知られていない。

 


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・最近バズってたnoteの記事で、バズマザーズの『バックステージ・ジャック・ガール』が出ていたが、ライブ会場限定シングルに収録はハードルが高くて知られにくい。

・特撮のラジオのジングルがAmesoursの「Herut」のイントロっぽい、ということはほぼ知られていない。ただ特撮からCoaltar of the deepersNARASAKIからブラックメタル/シューゲイザーのNeige、NeigeのAlcestはわりと知られている。と思う。


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サカナクションが1stアルバムをリリースした頃に放映されたドキュメント番組をいまだに覚えている。俺が「きっと人気になるだろうな」と予測したバンドでもっともよく知られたバンドだろう。

 

・俺が持っているCDであまり知られていない名作は、MEAT EATERSの「so messed up」と麓健一の「あるいは、その夏は」かもしれない。

・俺が人生で一番聞いたことがあるアルバムはSyrup16gの「HELL-SEE」で二番目は「coup d'Etat 」、三番目というとFlying Lotusの「You're Dead!」かもしれないということは俺以外に知られていない。好きすぎてインストゥルメンタル版含めて二枚買った。半年ぐらいずっとリピートしていた。


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・こういう、知られている知られていないは母集団をどう切り取るかで大きく変わるのだろう。

・ワンマンライブでその出演するバンドを知っている人はおそらく98%くらいになるだろうし。

 

36.「麻枝准Syrup16gを好きなのはよく知られているが」からの語り エロゲ・ノベルゲーム編

・「麻枝准Syrup16gを好きなのはよく知られているが」から始まる下書きを見つけたが、はたしてこの事実は本当によく知られているのだろうか、と思った。

・こっちはただのノベルゲーム雑談。

 

・『CLANNAD』で有名なセリフの「常に語尾に『それと便座カバー』と付けろ」の選択肢はフラグに影響しないことはよく知られている。それと、作中のミニゲームが面白いノベルゲームとしてよく知られている『リトルバスターズ

・ノベルゲームを最短セーブ数でクリアするために攻略サイトを見る人間に『誠也の部屋』はよく知られている。助かっている。

・『NANACA†CRASH!!』を知っているが『CROSS † CHANNEL』を知らない期間が十年以上あった。

・選択範囲をスクショするときに使用しているウィンドウズ標準機能の『Snniping Tool』は保存するときのアイコンがフロッピーディスクなのはよく知られている。分かりづらい。

・「麻枝准Syrup16gを好きなのはよく知られているが」の後に書きたかったことは、「瀬戸口廉也が過去に更新していたテキストサイトSyrup16gの歌詞が引用されている」だった。

瀬戸口廉也といえば彼がシナリオを担当した『CARRNIVAL』のOPのイントロがThe pillowsの『Last Dinosaur』に超似てるのはよく知られている、のか。

 

・エロゲではなくノベルゲームと表記する理由は、エロ抜きで価格が安いSwitch移植版やSteam版をプレイしていることが多いから。

・そうすると『マブラヴ オルタネイティヴ』のような、シナリオに影響する触手凌辱シーンが規制されてしまう、といった悲劇が起こる。起きないことのほうが多い。

・というか、ノベルゲームもよくプレイしていた。『シンフォニック=レイン』『ファタモルガーナの館』『428 封鎖された渋谷で』『レイジングブルー』とか。Twitterやっていたときにタイムラインで目にしたフリーノベルゲームとかも色々。あのとき休職していたので。

 

・『リトルバスターズ』と『Summer Pockets 』のミニゲームは面白くやりこんだが、『マルコと銀河竜 』のミニゲームはちょっとなあ。


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・にゃるら『インターネット2』は、エロゲ入門書としていい。おすすめすべき10選や、岩倉文也の『美少女ゲームダイアリー』は夏休みにエロゲを始めてのめりこんでいく日記で、瑞々しい感性で感想が書かれていて面白かった。

 

・「○○を知らないと損する」の○○にもっとも相応しいのは、自立支援医療制度や生活福祉支援金貸付制度といった行政サービス。

教養主義やエコチュンバーの話を書きたいわけではない。ただの居酒屋談義。

・時間が無限にない以上、人がすべてを好ましく思えない以上は偏りが生まれる。そして、それは会話の話題になる。

・ということを甥っ子とマンガトークをしてて、「ONE PIECE」「ワールドトリガー」「寄生獣」を読んだことがあるのに「ハンターハンター」を読んだことがないと知ったときに思った。

・必修科目はないし、知らなくても損はしない。

・甥っ子が小さかったときに、動物園の入り口に設置された触れあいコーナーで楽しそうにずっと遊んでる甥っ子に、「動物園の中はもっと面白いよ」と声をかけずに楽しそうならそれでいいやで見守っているような人間なので特にそう思う。

 

37.フィクションライン

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評価には影響しないが、不愉快になるシーンといえば俺が気にかかるのが、街中の逃走劇で、主人公が通行人を突き飛ばしたときに、「ごめん」と言うだけで通り過ぎるシーン。突き飛ばされたとき通行人は、擦り傷を負うかもしれないし、運が悪いと捻挫するかもしれないし、そもそもが突き飛ばすことは「他人の身体に対する不法な有形力の行使」であり、暴行罪の要件を満たしている。

駅構内で人にぶつかるやつが話題になっていたが、フィクションのなかでは頻繁に「人ぶつかり男」が出てくる。世界を救うためならまあ納得はできるかもしれないが、ときには「あの子が旅立つ日、本当はあの子ことが俺は好きでこの気持ちをやっぱり伝えなきゃいけない」って感じの理由で急いでいる人にぶつかられたときには、すこし可哀そうになる。

これはフィクション中の行為を現実の規範や倫理に当てはめてしまったときの不快感だから、作品の評価にはたいして影響しない。それをやらかした登場人物の評価は下がるかもしれないが、それだけ。次に述べる公正世界仮説が否定される不愉快さも同じカテゴリーだろう。

公正世界仮説というのは、良いことをしたら報われて、悪いことをしたら罰せられる、という信念のこと。これをフィクションにまで持ち込んでしまうと、軽犯罪が見過ごされていることが不快に感じるかもしれない。

 

 

作品の評価に関わってくるのが、フィクション内のあるキャラクターの犯罪や粗暴の描かれかたによって、リアリティラインの水準/フィクションラインの齟齬が出てしまうこと。

もう少し詳しく述べれば、フィクションラインとは現実に存在している常識が通用する世界なのかどうか、どこまで現実的な描写がおこなわれるべきであるのか、というような水準であって、作品内の描写により暗黙的に享受者の裡に設定されるものではないかと思っています。
私はそのラインを超越した描写・演出が見られると無視できない違和感を覚えることが多いです。

フィクションに求められるライン「フィクションライン」というもの。:大作戦企画ベタ

 例えば、大きな枠組みでいえば、フィクションラインが厳密な因果応報のルールに則ってィクションラインが敷かれているのにもかかわらず、主人公だけがルールから無条件で免除されていると、俺は少し引っかかる。ただ最近の作品は、この手の齟齬を目にすることがめったになく、具体的作品が一つも挙げられないので、そういう作品が存在するのかは分からない。

 

もっと小さな枠組みでかつよくあるのが、ラブコメではなくてドキュメンタリーのように日常を描く作品内での、風呂や着替えを覗くという行為。ラグビーがなんのお咎めもなく登場する。

これがラブコメであったならば、そのようなフィクションラインを敷いていると分かるのだが、感情の機微に重きを置いている作品で、ちょっとした言い間違いやすれ違いを取り上げているときに、いきなり軽犯罪が野放しになっているシーンを見ると違和感がある。

その違和感というのは、自分がその作品に見いだしていたフィクションラインに齟齬をきたすから。行為そのものの描写はたいした問題ではない。その行為が、作品において(作品のルールで)どのように受け取られているかの描写が重要

 

例えば、「着替えを覗く」に対して、「キャーもうやめてよ」で済まされていれば、読者はそういうフィクションラインがあると分かる。性観念に対しては道徳観がやや欠如している世界観なのだろうと認識する。作中でそのラインをずっと保っていればいいのだが、急に「人が嫌がることはやめましょう」と素朴な道徳観が出てくるとこちらは戸惑う。

言い換えるならば作品全体を通して求められる描写の厳密さの水準であり、描写の信憑性を司る概念です。

つまるところは、信憑性の問題なのだろう。フィクションラインがブレていると、一貫していないことへの違和感が作品の不信感に変わってしまう。どのように読めばいいか分からなくなり、道徳的な懊悩が描かれたとしても、その世界の道徳観がいまいち分からずのめりこめなくなる。

ただこれ、キャラクターごとに道徳観が異なることもよくあり、ある人は許すが、ある人は許さないといった状況もよくある。だから、ぼんやりとした話になってしまうし、具体的な例はあまり思い浮かばない。

 

38.『忌録:document ᙭』収録の「綾のーと。」とそこに出てくるSyrup16g

 インターネットで話題になっていたホラー小説『忌録:document ᙭』を読んでいたら、その掌編「綾のーと。」でSyrup16gがでてきた。読んでいた作品に彼らの名前を見かけたのは初めてかもしれない。嬉しかったのとあと少し思うことがあったことを、「綾のーと。」の感想とともに紹介したい。「綾のーと。」は無料で読めます。

 『忌録:document ᙭』を知るきっかけは以下の記事から。

 

 「忌録:document ᙭」の掌編「綾のーと。」は、そのままブログを電子書籍にしている体の作品で、新しいマンションに引っ越してから生じる不可解な出来事が語られるお話。主人公が、隣人の騒音に悩まされいて大家に相談したところ、謎のお札を渡されてもしや自室は事故物件なのではないか……と展開していく。そして事件は迷宮へ。

 話に登場するブログは実際に作成されてあり、書籍の内容とほとんど同じになっている。拍手ボタンの回数と、承認待ちのコメント数は伸びつづけているので、書籍とは異なっているが。

 

Syrup16gの話

 で、このお話の途中、主人公が騒音問題や大学中退したことに消耗して気が滅入っていたときの記事のなかでSyrup16gを聞いているのだ。

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 スクリーンショットはブログからの引用だが、電子書籍版でもほとんど同じ表記になっている。電子書籍版のPV箇所をクリックすると、じっさいにYoutubeにリンクが張ってあり飛ぶのでビビった。本を読んでいたらいつの間にブログを読んでいて、挙句にyoutubeに飛ばされるという。他にも「明日を落としても」と「不眠症」が貼られていたが、その動画自体が削除されているから黒画面になってる。

 偶然にも、Syrup16gの名前を小説のなかで出会ったので嬉しくなったが、登場した文脈が文脈なだけに少し引っかかった。それは、知らない方には妙なレッテルを貼られてしまいそうということで。

 というのも、これは好きなバンドに関して皆が口を揃えていうように「それだけではない」とレッテルを否定したくなる引っかかりで、かつSyrup16gは分かりやすい理解に押しこまれやすく、「それだけでなく」と言いたくなるバンドだから。私にとっては。

 それだけでなく、かくいう私もこんなブログを書いていて、そのレッテルに加担しているだろうこともあって、「私がそれを思うのっておかしくない?」と引っかかった。もちろん私は「それだけではない」ことを強調してはいるし、むしろ「それだけでない」とずっと書きつづけてきたつもりだが、それはあくまで私がそう意図して書いているという話。読んでいる人には関係ない。だから、本来ならば、Syrup16gのすべての記事に「これは私がSyrup16gに持っている私の印象です。他の印象を否定するものではありません」と書きたくなるが、そんな注釈はたいして意味ないし。

 私のブログをたまたま目にしてしまった人が、「あれでしょ?Syrup16gって薬の名前を曲にしているメンヘラバンドでしょ?」という印象を持たれたら悲しいし、私の文章はその可能性に加担しているからなんかごめんなさい。

 

綾のーとの話

 話をかえて「綾のーと。」について語ると、忌録作品にすべて共通する、情報は提示されるがすべては解明されない物語で、その空白が訳の分からなさを促進し、しかし状況は悲惨であるから恐怖心を刺激する……と、まっとうなホラーの構造であり、しかし、その見せ方が電子書籍時代ならではのもので、取りあげたブログを実在させたり、パスワードを知らないと閲覧できない記事などのあたらしい空白の描きかたがある。

 「綾のーと。」はパスワードがないと閲覧することができない記事は、ざっと調べても発売されてから数年経っていますが、まだ解明されていない。この「謎」が、自分だけではなく多くのひとの気持ちを引きつけているから、この試みは成功としているといっていい。

 で、結局「綾のーと。」はどんな話なのか、どういった背景があったのかについては分かずじまいなのだ。

 作中、主人公が心療内科でお薬を貰うわけだが、そのお薬が精神安定剤と総合失調症の薬という。だからって総合失調症であることが分かるような記述はなく、薬の画像があってその薬剤名をググったら分かるだけであり確定されてはない。もしそうであるならば妄想という答えもでてくる。


 が、事故物件であることをほのめかす大家さんがいたり、事実は事実としてありそうで、まあ結局、なにも分からないわけです。だからこそ怖いという話であり、怪奇は明かされることがないからこそ怪奇でありつづけるというわけ、

 本作の他の人の感想で見かけたように、この「綾のーと。」が公開されることによって、個人の生活を綴ったブログに多くのアクセスが集まり、また多くの人間がパスワード付きの記事を読みたくなる、この現象そのものもひとつのホラーになりかねない。

 俺が「綾のーと。」を読んだ感想といえば、はっきりいってsyrup16gが登場している!という喜びだった。2月にライブに参加できることになったNUMBER GIRLはいっぱい見かけたが、読んでいる作品にsyrup16gを見かけたのは人生でおそらく初めてだったので。

dnimmind.hatenablog.com

 あと、主人公はこの地獄から生還できていたらライブに参加できるといいねとおもった。彼らはとてもすばらしいライブをしているから。ほんとに。

 

39.好きなことを好きでいるために

好きなことを好きでいるために。

 「飽きないってのは簡単なことで、好きなことに対する嫌な思い出を増やさなければ、ずっと続けることが出来ます。そのためには嫌なことから逃げるのが重要です。」 
http://getnews.jp/archives/241592


 好きなことに対する嫌な思い出が増えて、好きなことを続けられなくなるのはとても悲しいことだ。
 出来るかぎりは好きなことに対しての良い思い出が増えてほしい気持ちはみんな同じだろう。

 しかし、好きなことに対する嫌な思い出を増やさないというのは、なかなか難しい。

 特典を手に入れるために映画を観にいったらいろいろと酷かったり、好きなバンドのライブに行ったらファンのマナーが悪くてうんざりしたり、好きなことについて書いたら通りすがりの人に叩かれたり、好きなものにレッテルが張られてバカにされていたり。こういうことはいっぱいある。
 
 ふとしたことで好きなことに対する嫌な思い出が少しずつ増えていってしまう。そして、いつしか嫌な思い出でいっぱいになる日がやって来てしまう。

 好きなんだけど、あんまりいい思い出がない。
 そうなってしまうと、自然に距離を置いてしまう。
 つまりは、飽きてしまうというわけだ。
 
 だから、好きなものを好きでいるためにがんばらないといけない。がんばって、好きなことに対する嫌な思い出を減らすために、嫌なことがありそうだったらそれを避けたり、なるべく嫌な思いをしないように選んでいかないといけない。

 そういうと、わざわざがんばってまで好きでいるというのは、本当は好きじゃないのでは?と言われる。

 確かに嫌な思い出がいくら増えたところで、好きでいつづけられることが好きである何よりの証拠だと言えるのかもしれない。そのうち飽きてしまうならばそれは好きではなくなったのだと言えるかもしれない。

 しかし、ときには「好き」でいたいことだってある。できるならば飽きたくないこともある。本当にそうであるかに関係なく。
 
 そういうときには、やはり嫌なことから逃げるのは大事だと思う。
 もしあなたが好きなものをまだもう少しは好きでいたいならば。

 それに「好き」という気持ちは心の中にあって見つけるものではないと思うのだ。たくさん聞いたり、たくさん見たり、たくさん考えたりする自分の行動を振り返って、事後的に推測するかたちで「好き」であること判断するものだと思う。
  
 そうだとすると、推測には錯誤やバイアスが避けられない。そもそもが好きなこととその思い出をきっぱりと分けることはできないし、そのうえ錯誤やバイアスによって、好きなことと嫌な思い出を勘違いしてしまうことだってあるだろう。

 つまりは、好きなことに対して嫌な思い出が増えるというのは、好きなことを嫌いなことと勘違いしてしまう可能性が増えるということもである。

 それは避けたい。しかも、その勘違いは勘違いとは認識できないからたちが悪い。

 だから、好きなことに対する嫌な思い出を増やさないこと、嫌なことから逃げることは大切だとあらためて思った。
 見放されてしまうくらいに好きなものが多いなら関係ないことだが、少なくとも私はそうではないから好きになったものは大事にしていきたい。そのためにも嫌な思い出はなるべく増やさず、嫌なことからはできるだけは逃げていきたい。

 

40.発達障害的ミスふたつ

 以下のリンクの診断テストをやっていて、案の定43点という高得点だった私、個人的にお気に入りの発達障害的エピソードがあるので紹介します。
 


ADD
 以前の職場で、あるとき上司が「俺、奥さんが妊娠したんよ」と急に話を振られました。それに対して私が返答したのが「その子どもって産むんですか?」。今ならこの返答がおかしいことはすぐに気づきますが、当時の私は急だったせいで、そう答えてしまいました。

 なぜこのような返答をしたのか。まず、私は妊娠そのものは良いことでも悪いことでもない、という思いがあります。その上司はすでに子だくさんで経済的に困窮しているのを知っていたので、新しい子供はさらに経済を圧迫する恐れがありました。だから、私はまずその出来事に対して当事者の態度が知りたくて、「産むんですか?」と問うたわけです。それで上司は「当たり前じゃん」と返したので、そこで私は「おめでとうございます。」と答えることができました。

 で、このエピソードで自分のことながら危機感を抱いたのは、上司が「奥さんが妊娠したんよ」と発言したときに満面の笑みだったこと。笑顔で発言したならばそれは本人にとって喜ばしいことだ、というのは私でも分かりますが、ただそのときは理解が追いつかずに変な回答をしてしまいました。

 これ、人の感情を表情から即座に読み取れないことが理由だけでなく、私の人生経験が偏っていることもあります。もしこれが「親が自殺したんだ」と悲しい表情で言われても、私は「その親と仲良かったんですか?」と聞いて、その答えで「大変ですね」「良かったですね」と返事を買えるでしょう。つまり生来の共感性の低さに加えて、私の価値観の偏りのせいで、この問題に拍車をかけています。 

 
ADHD
 大学受験をしたこと、前日に試験会場を見にいって席番号を確かめにいきました。当日、前日に確認した席に座って受験していたところ、途中で試験間「君の席は間違っているよ」と耳打ちされました。運が悪いことに、その間違った席の人は欠席していたので、指摘されるまで気づかなったのです。で、そのあとは動揺して集中できずに悲惨な結果に終わりました。

 こういうケアレスミスは人生で数えきれないほど出くわしています。一度間違ってインプットされると確認してもミスを見つけられること貼りません。数字の読み間違い、言葉の勘違い、ケアレスミスをカバーできる能力があればいいのですが、そうでもなく、ただでさえ人並み以下の能力なのに小さなミスによってひどい出来になるわけです。


 というのが私のエピソード。
 正直なところ、コミュニケーションについては適当にやり過ごすテクニックを覚えたので書いたような致命的なミスはしなくなりました。そもそもが自分の意見は求められていないので相づちを打てばよく、相づちはまあ適当でもなんとかなります。今でも反応の鈍さや感情の方向性の違いのせいで眉をひそめられることは多いですが、違和感程度のズレくらいなら問題化することもないので少しずつ孤立するだけで済んでいます。そして私は運がいいことに、孤独耐性が非常に高く、社員食堂で自分以外がグループを作ってご飯を食べていてもたいして気になりません。よかった。

 ケアレスミスはどうしようもありません。多分そのうち致命的なミスをやらかして人生が終わることでしょう。お疲れ様でした。

 

41.梨本ういの曲って嘔吐のイメージが強い

 梨本ういの曲は、深酔いしすぎてトイレに駆けこんでゲロ吐いてすっきりしたが頬に触れた便器に頭を冷やされてどうして自分はいつもこうなのだろうとみじめな気分がせり上がってくる系のよさがある。

 彼は10年以上活動していて制作時期に幅があるが、だいたいどの曲もハイになったりゲロ吐いたりしている。その多くがディストーションを効かせたつんざくギターと重低音的ダンサンブルなリズムから成りたっている。最近アップロードされた「そんな未来」もそうで、俺は最近制作した曲だと思いこんでいたが「2006年に作った曲です。人間そんな変わらなもんですね」とあった。え、16年前に作ったの曲なのか。驚き。変わってねえな、と。   


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 変わる人とか変わらないとか感じる根拠っていったいなんだろうね。思想/環境といったもろもろを含めた総変化量の問題ではなく、自らが自らをたしめていると想定しているものの変化量が重要なのか。体を構成する細胞が一新されても変わったと実感することはないが一方、あんなに好きだったバンドの曲を聞かなくなったことに気づいて変わってしまったと実感することはあるし。実感の話だから、統計のP値有意差5%みたいな指標はなくどうもふんわりとしてしまう。

 梨本ういの曲でもっとも好きなのは「だめなひと」。頭の中が真っ白になって自分から出れなくなったときに聞ける少ない曲。

 「自分のことだけでいっぱいだ/僕はもうダメかもしれない/誰かのことを考えてみたい」という叫びをはじめて聞いたときは、小学生のときにころ国語の教科書で読んだ宮沢賢治の「春と修羅」で死の瀬戸際にある妹が「また生まれてきた時には、自分のことばかりで苦しまないようになりたい」と語るシーンで心が張り裂けそうになったときの気持ちが甦った。その感受性が俺らしさというのならば俺もあんま変わってねえ。いまだって聞いて同じように感じるし。  


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 「おえおえお」は俺にとって梨本ういらしさが極まっている。説明するまでもなくただゲロを吐いてるだけ。親切にも嘔吐するまでの状況をたどり、吐しゃ物の中味までも描写している。しかし荒々しいバンドアンサンブルをもってすれば、結果「なんかかっこいい曲」に仕上がっているのだからさすがだ。

  動画はセルフカバーしているバンドver.


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 しかし俺が梨本ういのファンといえるかはあやしい。ライブ一回いってアルバム「まどのそと」を持ってるくらいで。だから勘違いしているかもしれない。でも2009年頃の曲とその10年後の曲を比べて聞いても、相変わらずハイになったりゲロ吐いたりしているし、やっぱあんま変わってねえなと感じるし、それが嬉しかったりする。

 梨本ういがやっているバンド「あらいやかしこ」がよくライブをやっている尼崎toraに行く機会があるならその近場にある穂乃果といううどんが尼崎一おいしいのでおすすめ。 

 あと、曲を聞きなおしたけど、全然ゲロ吐いてなかったわ。偏見こわい。

 

42.感想が書けない!

感想が書けなくなってきた。

なんでだろうと考えつづけているけれど、どうも分かりやすい答えが見つからない。

それで、ある方に貰った文章に関するアドバイスを読みかえしていた。

由来、文章には書かれる理由があります。なぜなら「書こう」と思い立った時点で、自分の内部にあるなにがしかに、その作品は触れたんですから。通常ではありえない刺激をもらったんですよ。だとするならその「通常ではない」部分を説明しなければならない。だって、伝えることの核はそこにしかないんですから。もしそれを客観的な事実群から証明し、読む人の前に陳列するならそれはレビューということになりましょうし、自分の内面から湧き上がる衝動を細密に描写するなら「語り」あるいはいい意味での「印象批評」という言葉を使えるでしょう。

感想を書くときの、核にあたる、自分の内部に生じた「通常ではない部分」というのが、見当たらなくなったのかもしれない。よく分からない。

そもそもが、なぜ俺は大量の作品(ノベルゲーム、小説、漫画、音楽、映画)を消費しつづけているかといえば、はじまりは現実を希釈するためだった。

学生時代、教室にも自室にもどこにも落ち着ける居場所がなくて、せめて脳の中だけは安心ができる場所にしたいという切実な思いから、大量に作品を手に取るようになった。「今、ここ」ではない物語に没頭しているときだけは穏やかな気持ちになれていた。 

おそらく現実逃避のようなものではあるが、俺の中では積極的な意味合いが強かったので、たえず現実を物語で希釈しつづけるといったほうが正確におもえる。

 

で、大量の物語が頭の中に生息するようになったいまでは、新しい作品が自分のなかの通常でない感情を引き起こしたときに、既存の作品が参照されることが増えてきた。

どういうことかといえば、感情を言語化するときのラベルに、「楽しい」「良い」「素晴らしい」といった言葉の代わりに、他の作品そのもので説明してしまうのだ。具体的には、Aという作品の通常ではない部分は、Bという作品のあの描写とCという作品の構造とDという作品のテーマで説明してしまう、という状況になってしまう。

おそらくこうなってしまったのは、大量にかつジャンルレスで作品を消費しつづけたせいで、言語化を省略するために情報整理として脳がこのような処理方法を選択してしまったと思っている。

自分のなかでは最適化された情報処理方法なのだけれど、この感想は言語化したところでけっして他人とは共有することはできない。

だから感想が書けなくて、いつも最後は自分語り。

 

43.スプラトゥーンにハマった

スプラトゥーン、去年の九月ごろに購入して、それ以来はひたすらS+ランクを目指してプレイしつづけて、運よく今年に二月ごろに目標を達成できた。ゲームのプレイ時間は数百時間に及んでおり、おそらくここまでもこれからも最もプレイしたゲームがスプラトゥーンになるだろう。

スプラトゥーンを購入するキッカケになったのがスプラトゥーン甲子園。その大会も終わり、S+になったこともあってこのまま熱が冷めていってしまうかと思いきや、いま私はスプラトゥーンにドハマりしている。購入したときのようにやり過ぎで人差し指を炎症させかけて、睡眠時間を削ったプレイによって体重が減少しつつある。ダイエットをしたいならばスプラトゥーンをやるのも一つの手かもしれない。

で、本題。ここ数日、ある方と二人のタッグマッチをするようになった。私はゲーム内のフレンドが数人しかおらず、これまでタッグマッチというものをしたことがなかった。というか、現実においてもタッグというか協力というか、そういったものにそもそもが縁がない。そのせいもあってか、初めてプレイしたタッグマッチにハマってしまったのだ。

タッグマッチにはいつものガチマッチとは違った楽しみがある。それは一緒にプレイする仲間が固定されているので、その仲間がどう行動するかが分かること。それに合わせて自分の立ち回りも工夫することができること。なによりこの工夫がうまくいったときがとても面白い。自分はここにきて、さらにスプラトゥーンの奥深さを知ることになった。もはや深海、しかしまだ深度があると言われている。

タッグマッチでの敗北は、「悔しい」という気持ちよりも、「次は勝ちたい」という気持ちになる。そうなると「じゃあ、そのためにどう立ち回ればいいか」を考えるようになる。具体的には、一緒にプレイする仲間が短距離ブキなので、自分は長距離ブキで支援する。また、何度かプレイするうちに仲間が場を荒らしてくれるタイプと分かったので、自分もその機に乗じてさらに場を荒らすことで有利な状況にもっていく。特に、短距離ブキはどうしてもデス数が多くなってしまうので、自分は全員がデスするのを避けるよう動く、といった感じ。どうやったら勝てるのか、それを考えることすら面白いし、それで勝てたらライフイズハッピーの領域に達する。

正直、十年ぶりに買ったゲームでまさかこんなに熱中するとは思っていなかった。そして、購入してから半年以上経ってからも熱中するとも思っていなかった。この日々をいつか懐かしい思い出として振りかえることになるだろう。でも、まだそのときではない。今日もまたハイカラシティでインクを塗っているし、ハイカラシティの外でもどうインクを塗っていこうか考えている。自分は飽き性だから、明日突然飽きてしまうかもしれないけれど、まだまだインクに潜りたいという欲求だけは増していく一方の今日この頃だ。

 

44.寒天豆腐ってこの世で一番グロい食べ物だと思っている

 そういえば、おれって苦手な食べ物がない。まったくない。数年前の話、食欲があることが腹立たしくなって、低血糖でぶっ倒れる寸前まで食を抜いていたことがあって、そのときの経験から「腹減ってたら何でも食えるな」と気づいた。

 こうなってくると、逆に「おれが苦手な食べ物はないのだろうか」とおもって、いわゆる好き嫌いが別れる珍味をいろいろと試してみた。鮒ずし、このわた、豆腐よう、沖縄のなんかよく分からない汁ものなど。あとソウルフードに憧れて、さいぼし、フク(肺臓)、なんかよく分からない豚や牛のどこかの内臓なども食べてみたが、まあどれも美味しくとまではいわないが普通に食べられた。

 腹減ってたら何でもうまいだろ、マジで。

 それと本当に不味いものは高くて、手に入らないのもあるだろう。関西の激安スーパーの、トライアルやスーパー玉手の激安弁当ですら、低血糖になりかけにときに食べればおいしいし。

 ようは貧乏舌なのだろう。ただし、おれの名誉のために言わせてもらえば、だいたいおれが何か食べるときは、平日は労働前に低血糖症状対策でエネルギーを補給するか、休日だと空腹でふらついたときだから、そりゃあおいしい・おいしくない以前に、脳がカロリーが補給されることに喜んで、高評価してしまう。

 

 さて、本題の「小さい頃はグロい漫画を読んだせいで寒天豆腐が食べられなかった」の話をしよう。

 おれには姉がいて、その姉が学生時代は札付きの不良だった。田舎の不良に流行っていたのか分からないが、姉が家に映画『シティ・オブ・ゴッド』や石丸元章の『SPEED』などの文学を置きっぱなしにして、おれはその薫陶を受けていた。読むでしょ。それらの作品のなかにあった『多重人格サイコ』こそがおれにトラウマを植えつけた当のグロい漫画である。

 いまならなんとも思わない描写だが、小学生のおれは『多重人格サイコ』のグロさに衝撃を受けた。「え……人間を食べちゃだめでしょ……」と怯えつつも、引きこまれるなにかがあってページをめくる手を止められなかった。そこで出会ってしまうわけだ、「寒天豆腐」を食べられなくなったシーンに。

 

 さて、いまおれはそのシーンを引用するかどうか迷っているが、やめた。どうも人間関係が薄すぎるせいで、おれは一般的な価値観と言うのを理解できずに、ともすればみんな人がいっぱい死ぬ作品を好んでいると誤解してしまう。この世には犬が死ぬシーンを絶対に見たくない人だっているし、四肢切断された女性のシーンなど見たくない人もきっと多いことだろう。だから文章でつづける。

 そのシーンは、主人公にクール便で届いた発砲スチロールを開けてみると、主人公の彼女が生命を維持したまま四肢切断されている、というシーンだった。なぜかおれはそのシーンをみて、クール便と液体に付けられた死にかけた人間から、寒天豆腐の感触をイメージしてしまったのだ。どういう連想の飛躍があったのは分からない。ただ、それからというもの、寒天豆腐を噛むたびにそのシーンが頭に浮かんで、苦手な食べ物になってしまった。あの薄くぶよぶよとした衣が、ふやけた人間の皮膚に思えてしまうのだ。そう思ってしまうと、もう無理。小学生が人間のふやけた皮膚みたいなものを食べられるわけがない。

  

 で、これは小学生の頃の話で、たぶん20歳くらいからはまったく気にならなくなった。ただそれまではこの世でもっとも食べたくない物がぶっちぎりで「寒天豆腐」だったのだ。幸いにも、寒天豆腐は食卓に出る機会そのものが少なかったから憂き目にあうことは少なかった。ただ出されたときは地獄としかいいようがなく、もし食べ残しがあったら家の外に叩きだされて鍵を閉められるので、それはもう寒天豆腐を恨んだものだった。

 寒天豆腐、ゲル化した人間と同じ食感でしょ。シュタインズ・ゲートで、コンプリートするためにわざわざ回収したCGのゲルまゆしぃ、彼女を目にしたおかりんもまた寒天豆腐を食べられなくなったに違いない。寒天豆腐ってこの世で一番グロい食べ物だろ、まじで。

 

45.ネガティブなことばっかり書きたい気持ち

 やっぱり、ネガティブなことばっか書きたいと思ってるんだよ。ネガティブなことって、まあ大抵がよくある10パターンの「認知の歪み」の範疇に収まってしまって、そういうのって簡単に批判できちゃうと思う。つーか、そういったものを批判するためのツール、思想ってのがいくらでも見つけられる。そもそも「くだらない」って一蹴されることだってある。そんなしょうもないことでもやっぱり俺はネガティブなことを書きたいと思う。間違ってもいいと思うし、そもそも俺が間違えない訳がない。とか書くと、極端な評価ってパターン化されるんだけどさ、それでいいんだよ。

 中学生のころからネガティブなもん好きで、でもその好きなネガティブな作品は「本当は生きるために」とか「希望があるからこそ」とかの注釈が付いて、ネガティブなのがたまらない!って楽しみ方は許されていない感じがした。暗いものは、人生に活かせない暗いものは良くない、そういう感じがした。最近読んだ「自死という生き方」という本、まさしく自死のための手引書にもかかわらず、巻末には「生きることを充実させるために」とか書いてあった。そういう感想が多かった。この本でさえもそういう取扱いをされている。一人の人間が命を賭けて伝えようとしたメッセージが浄化されてしまった。くだらねえもんになってた。別にそれが違うって思わないけど、ただ好きじゃないだけ。
 
 いやさ、ネガティブなもんって「認知の歪み」にしか過ぎないって言われればそうかもしれない。一時期は、俺はどうにもならなくなって認知療法関係の本を読み漁って自分の歪みをとことん修正してきた。常識的な肯定的な思考の選択肢をいっぱい増やした。んでまあ、どうにかなった。その作業のなかで気付いたのが、俺はネガティブな思考が好きだということだ。本当に好きなんだよ、暗いものだったりネガティブなものだ。それからは、好きなもんは仕方ねえだろ、って気持ちになった。ただの好き嫌いの問題だったらしい。人生経験が裏付けている、その可能性は否定しないが、俺はとにかくネガティブなもんが好きなのだ。

 たださ、趣味でネガティブをやるには、俺はあまりにストレス耐性が低いという問題がある。防衛的悲観主義っていう、それなりに機能する悲観主義があるが、その問題はストレスへの影響が大きいことだ。俺はネガティブなことに浸りつづけていたいけれど、そうするためには脳が耐えられないことが分かっている。だから、ほどほどにしている。趣味としては楽しむけど日常生活の中には持ちこまない。そんな区別が出来るわけがないから、日常生活でも悲観主義に捉われることもあるんだけど、なるべくは趣味でやっていこうと意識している。
 
 俺は、俺の人生とは無関係でただの趣味としてネガティブなものが好きだと言いたい。しかし、それは無理だ。感性がまったく環境の影響を受けないなんて主張するのは無理やりすぎる。俺でもそれくらいは分かる。だから少し妥協としていえば、俺は趣味としてネガティブなものが好きだ。人生と関係があるかもしれないから、来年も好きだとは保証できないけど、おそらく好きだと思う。ってとこだろう。

 好きなんだからっていえば、古谷実の「ヒメアノ~ル」を思いだす。あの話に、あるキャラクターが放課後に人の首を絞めることに快楽を感じること嗜好性に気づいてうずまくって絶望する、っていう印象的なシーンがある。あの話ほどではないけれど、俺がいう好きってのはそういう意味の好きに近いのかもしれない。人には言えんよなあ、と吐きだしてる。

 

46.「神聖かまってちゃんの曲聴いて何も感じない人は相当幸せな人生歩んできたんだと思うよ」

 「ニューヨークの夜を走るひとりのタクシードライバーを主人公に、現代都市に潜む狂気と混乱を描き出した傑作。」と称されている映画「タクシードライバー」を観ました。評判通りに素晴らしい作品で、とくに主人公の鬱屈、孤独、身勝手さといったままならない生き様に共感しました。

 で、本題に入りますが、この作品は過剰なまでに「共感」を重要視する人々が出ているんだろうな、と思ってちょっと感想をめぐってみたところ案の定そうでした。

 「この映画の主人公の気持ちが手に取るようにわかってしまった。
 俺も心が病んでいる証拠かな。
 わからない人にはいくら見てもサッパリわかるまい。 」

 「「今人生を楽しんでる!」って人にはトラヴィスの気持ちは理解できないのかもしれないな。
 ええ、俺は物凄くよくわかりますよ。もう何もかもがダメ人間ですから。 」

 「この映画は孤独じゃない人が見てもよくわからんと思う。
 トラヴィスのズレた言動をコメディとか言ってるやつは、
 この映画を見たこと自体が時間の無駄。
 孤独によって肥大化した自己で、悶々とした日々を過ごしている
 オレみたいな男には、何から何まで共感できる、悲しすぎる映画だ 」

「主人公に感情移入できない人は、ある意味幸せな人に違いない。
他のレビューにもあるように、負け組か負け組だった人間にしか感情移入はできないだろうから。」


 これらの感想は共感史上主義といわんばかりに、共感できることに価値を置いています。
 共感できるどうかが評価の分かれ目になると、当事者性による共感こそが作品の評価を決定づけるというわけです。さらには、もしあなたが評価できないとすれば、それは共感できないからで、共感するための人生経験がないからだ、という発言すらあります。

 つまりは、共感できるからよりいいではなくて、共感できないとダメってわけなんですよ。共感が作品を楽しむための必須不可欠の手段であると、言っているわけです。


 まあ、ぶっちゃけこの気持ちはよく分かるんですよ。
 いつでも笑顔が絶えることなく人生が楽しくてしょうがないというような人が「タクシードライバー」に共感するってなんだか嫌じゃないですか。つーか、そもそも楽しめるのって思ってしまうんです。
 私たちの作品であって欲しい、私たちだからこそ共感できる作品であって欲しい、という気持ちはよく分かります。そのせいで共感できない人たちや私たちではない人たちを排除する攻撃的な言葉を吐いてしまうくらいに。この「タクシードライバー」は自分が共感する作品に置き換えてもらってもかまいません。

 記事のタイトルにした「神聖かまってちゃんの曲聴いて何も感じない人は相当幸せな人生歩んできたんだと思うよ 」という言葉はCDショップのポップに書いてありました。このフレーズは共感のもつ暴力性を見事に表しているとおもいます。「何か感じる」と共感の敷居を下げているので、実際にそうであることは多そうですが、そうだとしても一つの音楽に対する感受性で人生すら判断してしまう、暴力的な言葉であることには変わりありません。

 構造的に同一の「この曲聴いて何も感じない人は相当不幸な人生歩んできたんだと思うよ」、「この曲聴いて何も感じない人は相当退屈な人生歩んできたんだと思うよ」と言い換えれば、どれほど暴力的な意味を持つ言葉であるかは分かるでしょう。誤解のないように付け加えますと、負の評価をしているから問題ではなくて、共感の有無をもって他人の人生を決め付けることが問題なのです。

 共感がロクなもんではないというわけでもありません。むしろ、作品を鑑賞するときに共感はとても役に立つものだとおもっています。当の私も共感がなくて感動することはめったにありませんし、実際にブログにレビューしている作品は共感があるからこそ熱狂しているってことが大半です。そもそも技術、テーマ性で評価できないので、やっぱり「私がどう感じるか」という共感がすべてといってもいいくらいになので。

 まあでも、だからといって「神聖かまってちゃんの曲聴いて何も感じない人は相当幸せな人生歩んできたんだと思うよ」は煽り文句として嫌らしいと思いました。嫌らしいからこそ煽り文句としていい出来なんでしょうがね。
 
 すっげえ根が明るくて笑顔が耐えなくて、だからといって無理しているわけでもなく自然体の人だって、神聖かまってちゃんを聞いて何か感じるかもしれないじゃん。共感ってそんなに精度が高いものじゃないんじゃない?とか思います。

 ちなみに、わたしは神聖かまってちゃんは好き。相当幸せな人生を歩んではいませんが。

 

47.気持ち悪い

 エロゲのことをPCゲームって書いてる自分が気持ち悪い。良い人に見られたいという願望はいつまでたっても消えることはない。誰でもできる単純労働をするようになり、人の筋肉しか要請されないような仕事をしてて、分かりやすく疲れるだけの仕組みのなかで石ころのような扱いに慣れてきたと思った。でもインターネットではたまに褒められることがあってそういう自分になろうとしている。ああ、気持ち悪い。僕はいつまでたっても変わらないんだなあ。
 
 いまエロゲにハマっていて、それっぽいアブノーマルなやつに手を出してみようとおもってeuphoniaをプレイしている。古今東西の凌辱ネタが出てくる。主人公はいつだって自分の凶悪な願望と理性の狭間で苦しんでいる。それにしたってアイデアがすごい。詳しくは書かないが、アレやコレが永久ループする拷問機関は悪趣味が極まっていて、アイデアに関心してしまった。興奮はしないし、わりと耐性ないからけっこうキツい。でも純愛と感動が待っているという話だから、最後までなんとかプレイしようと思っている。

 親の呪縛から抜け出せたキッカケは、「苛ついたときに殴れるじゃん」と思ったときだった。僕にとって暴力を振るえるかどうかは肉体的な要素よりも、精神的な要素が多い。あるとき、怒りと苦痛のメーターが閾値をこえて、親のことを敵と認定できたときに暴力の手段を思いついた。何も解決されないけど暴力によって一時期的に黙らせることができる、と分かったとき僕は初めて自由の気持ちを味わえた。

 何かしら暴力的な作品に憧れるのは、やはりあのときの暴力という概念を得たことで救われたからだろう。入りに入り組んだめんどうくさい状況だって暴力によってどうにかすることができる、その信念は僕にとって救いになった。じっさいに出番はないが、そういうカードを手にしていると思うだけで安心できるし、そのカードは使うことはできないが、持っていると思えることに効果がある。

 

48.ノゲルゲームいろいろやって自分の感性に気づく

 エロゲをやっていて自分の嗜好がおぼろげに分かってきたのでメモ。

・食卓が活気あふれるか葬式みたいな描写がある家庭問題を取り扱った作品
 「家族計画」は多種多様の家庭問題を取り扱っていてよかった。共感するにはいささかハードすぎだったが――虐待された子どもが描くイラストは父親の性器が描かれている、ってシーンが出てくるライン――やはり家庭問題を取り扱っていると思い入れが深まる。特に子供を道具のように使役する親のパターンは、だいたい自分の境遇と重ね合わせることができるから、呪縛に囚われたキャラクターに幸せになってくれと心から思える。
  
 あとやはり家庭問題といったら食卓。私は家庭問題の歪みはもっとも食卓に集中すると思っている。「家族計画」はみんなでご飯を食べるシーンが多く微笑ましかった。「CARNIVAL」では最高に沈鬱な食卓のシーンでこれもまたよかった


・交渉の解像度が高い
 私は高度なコミュニケーションができないくせに、高度なコミュニケーションを見るのがとても好き。いまプレイ中の「装甲悪鬼村正」はその点で近年見てきて作品のなかでもすばらしい。交渉においての禁じ手、卑怯なやり口を描かれていて、それがいかに卑怯かの説明もあって見ごたえがある。こういう作品は面白いのは間違いない。
 あと「SWAN SONG」も交渉の回銅像が高くてよかった。さらにそれを支える理性が動物的本能によって破壊され踏みにじられる様も描かれていて、人の脆さと強さがセットで表現されていた。


・全員死亡エンド
 なんといっても、全員死亡ENDが好きで私がなぜエロゲーを気に入っているかといえば、そういうバッドエンドが多いからだろう。「さよならを教えて」はどのようなルートでもハッピーエンドにはならないが、どうあがいても絶望といった前提条件から詰んでいる感があったのがよい。しかし蜘蛛の糸のような細い「救い」が提示されているから、よりいっそう最後のエンディングのむなしさが際立っていた。

・世の中ってむつかしいね系
 「キラ☆キラ」で登場した「世の中ってむつかしいね」ってセリフ、問答無用で好き。

・苦しい
 同じく「キラ☆キラ」であった「嗚呼、息が苦しい。本当に、ひどいなあ。」という主人公のモノローグも大好き。小説「さようなら、ギャングたち」では一ページに「嫌な気分だ」ってしか書いてないページがあり、そのページ及びそこに至るまでの描写が好きすぎて人生で一番読みかえしている。

 

49.曲を聞くってのは、固有の情報を生みだし、感想として言葉に翻訳することでもある

 SATOさんのSyrup16gの全曲レビューを読んでいて思ったんだけど、歌詞をどう解釈するかってのはどうしてもその人の価値観が出るよね。そこにいたるまで長いので好きなように読んでください。

 前もって書くけどここでの曲ってのはこのブログで語っているようなロックだったりポップスだったりします。曲ってだけでは主語が大きすぎるからあらかじめ小さくして話します。 
 
 歌詞って情報量が少ないじゃないですか。ここでの情報量っていうのは文字数とほぼイコール。たとえば3分あったとすれば文字だけだったら普通なら1500字くらい読めるらしいけど、3分の曲の文字数はせいぜい500字くらいが限度。サビで繰り返されることも考えればさらに文字数は減る。歌詞は分単位で換算すれば文字数はかなり少ないと言える。

 で、曲ってのは歌詞のみで構成されているわけではない。音があります。音しかないときもあります。言葉しかないときもあります。音も言葉もないときもあります。それらは例外として、曲ってのは音とサウンドで成り立っています。注釈しわすれました、これは曲を再生したときに感覚器官で受けとることができる情報に限定しています。そうでないもの、たとえば文脈的なものでいえば、アルバムでの曲順、制作時の背景、ルーツなど情報は膨大なものになるのは言うまでもありません。

 曲は歌詞とサウンドから成立されているのにめちゃくちゃ情報量が多くないですか。これは体感の話なので人によっては違うんですが、まあ俺には曲ってのはなんかもうやたらめっぽう情報量があるんですよ。

 なぜそうなってしまうか。
 それは脳で情報を補完しているからと言い切っていい。補完しているというのは余剰なものを読みとっている、と言い換えることもできる。そしてさらに、余剰なものを読みとっているというのは新たな情報を生みだしているとも言いかえることができる。この「曲を聞くことが新たな情報を生みだしている」ってことが肝要なのでここからこれについては詳しく説明していく。

 曲を聞くとき、そこにある形而下の情報としては曲と歌詞のみだけれど、形而上の情報としては先ほども書いた文脈がある。曲を聞くってことを二つの過程に分けると、実際に語られている言葉の意図や背景を言葉以外のメロディーやサウンドを参照して読みとり、そのとき同時に曲に付随している文脈も読み込むことではじめて「情報」を生みだすことになる。

 ここでいう情報ってのはまだ神経活動であり電気信号にすぎない。それを言語化したときにははじめて「感想」と呼ばれるものになる。曲を聞くってのはけっして受動的な行為だけってわけではないんです。ある点においては能動的な行為でもあるわけなんです。厳密にいうとすれば、曲、曲に付随する情報をもとに個人情報処理体系にそって新たな「情報」を生みだしているってことです。曲を聞くのは受動的な行為ではないからこそ、スルメって言葉があるように何度も聞くうちに感想が変わったり、他人の感想を読むることで魅力を発見できたりする。


 多分、情報を生みだしているって表現に違和感を感じると思う。その違和感はまさしくその通りです。
 俺もそうですけど、曲を聞いているときの実感としてはそのまま曲を聞いている、もしくは読み取っているぐらいのものでしかない。曲を聞いて「あっ、おれいま情報を生みだしているぞ」って思う人は少ないでしょう。だから情報を生みだしているのにもかかわず、その当人は音楽そのものにその情報が「あった」と錯覚してしまうんです。いや実際にあるともいえますよ。その情報の構成材料は曲そのものにもあるんで。それが全てではありませんが。でも曲にある情報と、曲から読み取った情報・生みだした情報はけっして等値ではない。

 そもそも曲を聞くってのはひとつの情報処理になる。情報を処理する過程において、必要か不要を振りわける海馬ってところがあって、そこは日常の些細なことから、非日常の異常事態まで、人生の営為のすべてを集積する価値判断基準として存在している。ここでいう「制作」ってのはつまり上で書いた情報処理のひとつの過程に過ぎない。それをあえて「制作」と表現することで能動的な行為でもあるってことを強調した。ただしそれはあまりに自然に行われるから、それを自覚することはほとんどない。

 とっていったところで、その感想が「凄い」としか書かれなかったら、個人の価値観も何もねえよなって話でもあります。曲を聞いて「凄い」という感想を書いてしまったとき、そのときは膨大な個人に由来する情報を放棄しているわけですよ。いやね、俺はこれを強調しておきたいんですが、感想は貴重なんですよ。人間っていま地球上に70億人いるんでしたっけ?それくらいいたところ、誰一人として同じ価値判断基準をもって人間はいません。だから曲を聞いた時に生み出す情報ってのは原理的に唯一のものになるんです。それこそ世界にただ一つなんですよ。

 ただねー、その情報を感想にする翻訳作業がマジで大変。俺はこうしてブログでずっと感想を書いているから余計それを痛感する。翻訳するときに一気に別物になってしまう。たとえば「凄い」って言葉しか知らない一がいたら、貴重なオリジナルな情報のすべてが「凄い」になってしまうことになる。まあ本人からすれば翻訳されていない時点の情報、いわば「言葉にすることができない」情報を体験できているんでいいんでしょうけど、それが翻訳されない以上は本人以外には存在しないものになってしまう。だから、俺は情報のまま表にでてこない感想を残念だと思ってしまいます。まあ百年後くらいにそのミクロ的な情報を翻訳するすんごい機械的があるかもしれないけど、今はないからね。多分俺が死ぬまでないでしょうし、そんなものよりソイレントシステムをはやくくれ。

 俺たちの目には翻訳された感想しか見ることができない。だから、翻訳された感想がすべてのように思ってしまう。でも、それはどうしようもないことだ。翻訳以前の情報なんて本人以外には存在していないようなもんだから。

 ここで俺は声を大にして言いたい。みんな、翻訳をして頑張ってほしい。
 言葉にしにくい情報をあえて言葉にしてほしい。さらにいえば、翻訳の過程で滑り落ちてしまう情緒みたいなものを必死に言葉に当てはめて、その情報が感想とできるだけ近似値になるように頑張ってほしい。そんで、俺がその感想を読めるなんてことになったら嬉しい。

 俺のブログの感想は控え目にいってもたいしたことは書いていないんですけど、それなりに評価されているところがあるとすれば近似値を目指す努力の部分だと思っている。それとブログでずっと翻訳している俺に言わせてもらえば、いい感じに翻訳できたときはけっこう嬉しくなるもんですよ。めったにないことだからそれは財産みたいなものに感じることだってありますから。

 最後に。俺、主題歌とかめっちゃ好きなんですよ。2000年代のベストランキングとか作ったらそれこそアニメや映画の主題歌だらけになってうんざりするくらい。これは曲を聞いて情報を生みだすときの材料として何かの主題歌であったというのが最高の材料になってしまうからです。こういう風に、曲をよりいいものとして聞くためにいい材料を仕入れるってやり方はありでしょう。そのとき他人の感想やレビューってのは本当にいい材料になるから、繰りかえしになるけど、やっぱりみんな翻訳を頑張って感想を書いてほしいと強く思いました。
 

50.グローバルな憂鬱にようこそ!

 酔っているときにはブログを書かないといつかの記事で書いたが撤回する。酔っているけど書きます。

 俺は酒を飲むとすぐに酔う。今日は安い発泡酒ウォッカを飲んだ。ウォッカは大変いいものだ。安いし、気持ちよく酔える。気持ちよく酔えるのは、度数が高いからかもしれないし、不純物が少ないから分解酵素が清く働くという前時代的な勘違いのせいかもしれないし、その情報が生みだしたプラシーボ効果かもしれない。いずれにせよただ気持ちよく酔えるというのは事実で、俺はことさらにそれを重要視しているからウォッカを飲む。

 酔うと、俺は不思議な気分になる。希死念慮と心地良さが脳のなかで沸きあがってそれに満たされる。まるで矛盾するかのような感情が同居する。めちゃくちゃ死にたくなるのと同時にめちゃくちゃいい気分になる。このまま死ねたらいいなと、ベランダから地上を見下ろすだけで何もしない。

 「N・H・Kにようこそ!」という作品が好きだ。小説を読んだしアニメも見たし漫画も読んだ。それぞれが少しずつ違う展開を迎えるが、そのどれもがいい。それは小説にしたってアニメにしたって漫画にしあってそのどれもに岬ちゃんがいるからだ。

 俺が関しない外的要因が俺の人生を救ってほしいとよく思っていた。岬ちゃんが来てほしいと切望していた。しかし今では、俺が救われない理由は金が無いことに尽きるのだし、金のための労働に耐えられないことが主な理由なのだし、もはや岬ちゃんが俺のところにきたところでどうにもならない。金だけが特効薬なのだ。
 

 「N・H・Kにようこそ!」の曲に「ようこそ!ひとりぼっち」という曲がある。俺は酔っているときにこれをよく聞く。ダウナーな曲調でひとりぼっちと何度も呟いているのがとても心地いい。

 俺はまさしく、ひとりぼっちな人間である。友達といえる存在がいたことはあるが、そのすべてと積極的に縁を切ってきた。そうするのは簡単だ。すべての連絡に無視をしつづけていくだけで達成できる。不誠実だろうと失礼だろうと罵られようが無視を決めこむのだ。そうやって俺は友達といえる存在をすべて失った。その状況は、とても気楽なものだ。

 「ようこそ!ひとりぼっち」という曲、Youtubeに違法アップロードされまくっている。そのコメント欄がとても面白い。この話がしたかった。これが本題なのだ。



 この動画のコメント欄はなかなか読み応えがある。以前にアップロードされてコメント欄が賑わっていた動画は除されてしまったが、この動画にも読み応えがあるコメントがいっぱいついている。海外の、どこの国の人間かは分からないが、多くが辛さを吐きだす場所として集まっている。英語で人間の苦悩が綴ってある。

 俺は数年前にセンター試験のために朝五時に起きて夜十一時まで勉強して習得した英語翻訳能力を使う。すでに錆びてしまった能力で、海外の他者の苦悩を読み込んで勝手に共感している。

 適当に翻訳してみる。大体が意訳。
 「俺は、俺を愛する人間と公園を腕を組んで歩きたいと願っている」
 「俺は孤独だ。」
 「俺はもうこれ以上こんな思いをしたくない。岬ちゃんはいないんだ。俺は地獄に落ちつつあるのか、死につつあるのか。」
 「この曲は俺を悲しくさせる。そういうときこそ俺が変われるチャンスなのだが、相変わらず俺はいつものように過ごしてしまっている」
 「岬ちゃんは俺の人生を救いにこない」
 「人生はクソだ」 
 「自分を愛することを一人で成しとげるのは困難だ。」
 「この曲はクソみたいな俺の人生を肯定してくれる。そして、俺はまだ生き続ける。」
 「お前たちはお前たちの人生に岬ちゃんは絶対に表われることがないとを自覚しろ」 
 「悲しくて孤独に感じている人のすべてに言いたい。もし誰もあなたを愛していると言わなくてもあなたはすばらしいのだ。」
  
 なんていうやり取りが見受けられる。なんかね、居心地がいいよね。 俺みたいなうだつあがらなさそうやつがいっぱいいて安心する。

 酔っているから共感装置が暴走して、おれは共感連呼のマシーンになっている。よく分かる。わー。分かる分かる。分かったところでどうにもならないけど、ともかく分かる。

 俺の人生はクソだし、俺の人生を岬ちゃんは救いにこないし、俺は地獄に落ちつつある。俺は孤独だし、俺はもうこれ以上こんな思いをしたくない。分かる。