単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

炭鉱のカナリアについて/ヤバい空気察知する能力オンリーで生き延びる


 ブログタイトルにもなっている「炭鉱のカナリア」という言葉について。

 ブログのタイトルに採用しているようにわたしの大好きな言葉です。今回はこの言葉について、内田樹の「呪いの時代」という本を引用しながら語っていきます。というか、この本を読んで初めて知った言葉でした。

 
 まずは概要についての引用。
 「炭鉱のカナリア」という表現がありますよね。鳥は人間がまだ気づかないうちに有毒ガスを探知して騒ぎ出す。命にかかわる危険に対する感知能力というのは必ず「炭鉱のカナリア」的なかたちをとります。誰も倒れないうちに倒れる能力。僕はそれを「能力」と呼んでいいと思います。

 要は、「炭鉱のカナリア」というのは、危険を察知するセンサーの役割、能力です。
 で、具体的にカナリアはどのようにして危険を伝えていたのかについて。
 
 いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。

 本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。
wikipedia
 
 ということ。
 また、カナリアオウム真理教施設への強制捜査の際に利用されたこともあるようです。その様子がテレビで放映されて以来、この「炭鉱のカナリア」という言葉が有名になったとか。とにかく、動物の習性と身体を利用したこの警報器である炭鉱のカナリアは、古くから信頼できる優秀なセンサーとして活躍していたようです。
 
 

 そこで、炭鉱のカナリア的なものは人間にどのようなかたちで備わっているのだろう。という話につづきます、ここで、また引用します。

 「自分にとって厭なことが起こりそうな気配を僕はずいぶんと手前で感知することできます。人間の場合でも、集団の場合でも、あるいはある種の制度やルールの場合でも、言葉一つの場合でも、わずかな身体的接触である場合でも、「厭だ。厭だ。これには絶対に我慢できない。」というアラームがけたたましく鳴り響く。もう、頭蓋が割れるほどに耐えがたい音量で。そうなると、もうとにかくアラームが鳴りやむところまで、その「厭なもの」から遠ざかるしかない。こっちだって必死です。 
 
 「炭鉱のカナリア」を人間に当てはめて考えると、それらは不安、恐怖、違和感、不愉快といった、なんとなく「厭」な空気を過剰に察知するという形をとります。過度に脆弱であり、その脆弱である部分に負荷がかかっていることを何かしらの警告とともに認識すること、それが人間にとっての炭鉱のカナリア的な能力になります。


 して、小さいころ、わたしは「やりたくない」「我慢できない」という感情は、あまり良くないものだと教えられてきました。そういった感情を表に出してしまったら、臆病や腑抜けという言葉で批判されていました。理由もないのに不安がっているのはあまり良くない。もっと勇気をもって一歩を踏み出せ、と言われつづけてきました。 

 まあ、それでもどうしても「やりたくない、我慢できない」といった出来事が多々ありました。
 理由もないのに、どんなに批判されても、どんなに背中を押されても、それでも最後には「しない」という選択肢を取ってしまうことが。わたしにとっては「できない」のですが、周りからみたら「しない」になるようで、そうした臆病さは酷い言葉とともに批判されてきました。

 そして、わたしもそんな自分を恥じるようになりました。なんであのときあの一歩が踏み出せなかったのか。なんて臆病な人間なんだ、といった自己批判


 しかし、こうして生き延びて今になってよく考慮すると、この「やりたくない、我慢できない」というのは、炭鉱のカナリア的な警告であり、「これはやってはならない」という重要なメッセージだったのかもしれません。

 臆病で踏み出せなかったあの一歩は、毒ガスが蔓延していたからこそ、崖っぷちに立っていたからこそ足が震えていたかもしれない。勇気をもって一歩を踏み出していたら、毒にやられて息絶えたり、崖から落ちたのかもしれない。そういった状況を私はいくつも思い出すことができます。
 

 まあ、あくまで「ときにはそういうことも」の話なんですが。私の場合の大概の「やりたくない、我慢できない」というのは、面倒で怠慢だからこその気持ちです。心配性の母親のように、不必要な保護というのは明らか。
 
 ただ、ときには、臆病な自分のなかには炭鉱のカナリアだって存在している、ということもあるかもしれません。いや、きっとあることでしょう。すべてにおいて、自分がダメだから「やりたくない、我慢できない」という選択を取っているわけでないのです。

 あまりにこのアラームが鳴り響くので、それだけで疲労してしまうことがありますが。それでも、アラームを無視して致命的な失敗をおかしてしまうよりかは、こうしてアラームが鳴っているだけでもありがたいのでしょう。
 

 「失敗は成功のもと」「やらない後悔よりやる後悔」なんてよく言いますけど、失敗を恐れて何もしないほうが、やらない後悔を背負ったほうが、自分を救うこともあるということを最近は実感しています。以前は、こういうのって臆病者の言い訳としか思えなかったですけど、こうして臆病であることおかげで生き延びてこれたなーと感じることが増えてますね。ほとんどの場合はただのサボりなんですが。でも、ときにはそういうこともある、という話。



 で、話は変わって、わたしが好きなSyrup16gというバンドの「天才」という歌詞に、炭鉱のカナリア的な表現があったのでそれを紹介します。それは「ヤバい空気察知する能力オンリーで生き延びた」といったフレーズです。

 このフレーズからは挑戦をせずに逃げてきた自分を批判する意味合いだけを感じとっていましたが、少なからず「そのおかげで救われた」という肯定の意味もあるのだとおもいます。というか、本人がそう思っていなくても、そのように作用した可能性は高いです。臆病ものの武器、ってかんじで。

 

 


 自分の中に炭鉱のカナリアがいることは、呪いでもあり、救いでもあるとおもいます。呪いとしか思えなかった自分の弱さはまた、同時に、自分を救ってくれている強さでもあるのかもしれません。まあぶっちゃけそう思いたいんですよ。そう思うことで救われる過去があるんです。


 だから、あのとき踏み出すことができなかったあの一歩を、けっして後悔の気持ちだけで語ってはならない。一歩を踏み出せずに安堵した気持ちはなにも恥じることはない、と。臆病で逃げてばっかりで諦めてばかりの私は、そうすることでどうにか生き延びてこれたのだと。