単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

死ぬこと、自死することについてpart2

 自死にすることについての雑記。

 

 「アルコールとうつ・自殺」を読んでいたら「男性が初回自殺企図によって既遂になることを予測する要因を検討しました」と書いてあった。

 その要因は以下の3つからなる。

  1.  うつ病などの気分障害の存在。
  2.  返済困難な借金
  3.  アルコール乱用・依存の存在

 わたしにどれほど当てはまるだろうか。

 1.わたしは、SSRIを上限容量まで服用していて(なぜ日本は海外に比べて上限が半分以下なのだろう)、軽度のうつ病パニック障害がある。そしてまた、服薬をもってしても生活にずっと付きまとっている全般性不安障害はそう改善されていない。 

 2.わたしには借金はない。が、これはいまのところの話で、経済的困窮と隣りあわせではある。判断力が低下したときの衝動的な浪費はやめられなく、ましてや今の職よりも金を稼ぐ能力も意欲ないときているので、それなら仕方ないと納得している。そこまで不満はないが、恐怖はけっこうある。いつか病気や事故などで大きな出費があれば、明日には要因に追加されることだろう。この頃は「借金できる限度額までが財産」というどこかで聞いた言葉をよく思いだしている。

 3.わたしはアルコール乱用・依存はしていない。一年前ほどに身体不調とアルコールの過剰摂取がたたって、重度のパニック発作を起こして以来、アルコールが怖くて飲めなくなったことがあった。半年ほど経ち、いまはもうアルコールを飲めるようになったが、臆病ゆえに前のように溺れてはいない。だいたい素面。最近は、また酒を飲みだすようになった。

 どうやら、わたしは「男性が初回自殺企図によって既遂になることを予測する要因」をひとつしか当てはまらないようだ。そうなると次に気になるのが「複数回自殺企図によって既遂になることを予測する要因」でそれは書いてなかった。

 

 わたしが自殺について歪んだ価値観を持っていることをはっきりと自覚している。おぼろげながらその原因も分かっている。おそらくこれは、小さいころに母が自殺をほのめかしてわたしの不安を利用して、つまりは手段にしていた影響が大きい。それもあって、「自殺は、自殺(もしくは自殺をほのめかすこと)を手段にすることに比べれば遥かにいい」という価値観を持っている。それが歪んだのか、自殺を自殺以外の含みを持たせずにやり遂げた人たちへの尊敬にも繋がっている。あと「あのとき母が死んでいてくれたら」と死ぬほど思いつづけてきたせいで、自死に関する本はよく読むが、自死遺族に関する本は気が向かずにたった一冊も読んだことはない。

 

 この記事はpart2で、part1は5年前に書かれました。大きく変わったことといえば部屋にクレモナロープが常駐されるようになったことで、あんな変わってないのはまだ生きていて似たような文章を書いていること。

死ぬこと、自死することについて - 単行のカナリア

 

 例えば、いまこの瞬間に死ねるボタンが出現したとする。ただし、いまこの瞬間に押さなければ一生押すことはできないボタン……と5年前に書いたifの話は、古谷実の「僕といっしょ」のオマージュだとおもう。それにしても、このifを想像することで、いったい過去のわたしはなにを伝えたかったんだろうといまは思ってしまう。だってないし。そんなボタンは。ない。

 

 反出生主義を考える、という本を読んだ。ベネターが「反出生主義」で主張の論旨である、「快の不在は悪くはなく苦の不在は良い」という基本的非対称性は、反論が多くあったが、「私の人生においては」という留保つきで、さらに「出生以前の話に限らず出生以後の話」と歪曲したとき、まったく理解できるし肯首する。それはつまり「生きていたら楽しいことあるよ」「生きていたら苦しいことあるよ」と同時に言われて天秤にかけたあとき、「生きていたら苦しいことあるよ」のほうが重いという理解で。5年前も同じこと書いていた。

 

 この前、父とひさしぶりに話したら「もっとちゃんと生きなさい」ということを言われて、ずいぶんと恐ろしいことをいう人だな、と思った。ハンス・ヨナスの出生主義では、ひとは「人間は責任の主体でありうる唯一の生物種だから、人間が存在することが責任が可能になるための条件であり、よって責任の可能性への責任を宿命づけられている」とあり、これまたずいぶんと恐ろしいことをいうひとだな、と思った。似ていると思ったので並べた。

 

 あるエロゲのラストシーンで、枕元に拳銃を置いて眠っているキャラクターが言う「悲鳴を上げて回る以外の選択肢がある」について考えている。私の人生では、いつかこのような日が訪れたときに、はたしてこの「選択肢」は選択可能になっているのだろうか。表示されてはいるが選択できない不具合によって、強制的にゲームオーバーの人生談を読み進めることになってしまうのではないか。拳銃は所持しておらず、代わりにあるのがもやい結びしている12mmのクレモアロープ、これははたして使用可能のアイテムなのかと考えている。どうなんでしょう。

  

 池谷裕二は、脳は身体と環境による相互フィードバックがあってこその脳といった意味で「心は環境に散在する」といった。それならば、心に含まれる希死念慮もまた環境に散在しているといえる。って書いたけど、ここからなにか付けくわえることもなく、そう考えることでなにも変わることもないから、最近はなんかもう死の概念をいろいろこねくりまわして自分が受け入れやすいように構築したりするの意味ねえなって思ってきた。死ねば死ぬ、生きていれば死ぬまで死なないでいいじゃん。とも思うのだが、なんでこうわたしはずっと死について考えつづけて、せっかくの休日にも人が死ぬ作品ばっかり見たり読んだりしているんだろうね。とも思うけど、やっぱ死は一回限りだから、死に救いと問題解決の意味を付与させまくって神棚に飾って拝むくらい大事にしていてもおかしくないのかもしれない。どっちつかず。

 

 一番最初の職場で上司がその妻子の妊娠を報告したとき、私はおもわず「大丈夫なんですか?」と聞いてしまったことがある。コミュニケーション能力欠如。生誕に対していまだに判断することができないことからの躊躇してしまった。なにせそのときディスプレイと向きあっていたから表情がうかがえず、その人にとってそれが良いことか悪いことか分からなかったからだ。上司は不思議そうな顔をして「え?なにが?いやー楽しみだわ」と答えた。それで私は「おめでとうございます」と答えた。学びがあり、次からは即座に祝福の言葉を返したい。別に他人の生誕について思うことはないのだから。が、ひょっとする可能性もあるので、コミュニケーションを円滑に進めるためにドナーカードみたいに「私は私たちの生誕を肯定しますカード」みたいなの首からぶらさげて欲しい。

 

 林先生のサイトで「コンサータによって自己の連続性を失いつつある」とあり、わたしは自己の連続性を断ちきるために努力しつづけてきたから、前はコンサータで今はSSRIを服用しているときの自己同一性の揺らぎをすんなりと受けいれられた。なんというか、中学生のころのわたしと現在のわたしはまるで別人のようになってしまったけど、死の地点でまた会いましょうといった感じ。

 

 職場とベッドを反復する単調な生活をしていたとき、縦になっては苦しくて横になっては眠れなくて、これ高速で早送りすれば、人が縦になったり横になったりする残影ができて重ねあわせると十字架が浮かびあがる。ってイメージが浮かんで、すぐに、でもべつに座標が合わないから十字架でもないなーと思いなおして、もう何を書いているのか何を思っているのかよく分からなくなって、いつかに備えて育てつづけている死の概念や人生を豊かにしてくれる物語を意識するたびに、そのたびに現実に「ちゃんと現実をしろ」と怒鳴られているような違和感がある。

 

 前回の記事と比べてみると、明らかに引用が増えた。自分の希死念慮くらい自分の言葉で語りたいのだが。SSRIのせいでそういう感情に蓋をされていて言葉にしにくい。絶対にそこにあるのに隠蔽されているような感じ。それがなんか気持ち悪くてこうやって文章にしてみるけど、やっぱりどうしても言葉にしきれていないようでもどかしい。

 

 だからって「死にたい」とだけ書くのはおそらく違う。根本はそうでも、もうちょっとなにか書けるはずだ。もっと素直になりたい。

 おしまい。