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 俺、俺の母が死ぬ死ぬいってたけど死ななかったどころか、「私を死なせたくないのならあなたは私の言うとおりにしなさい」と言われつづけてきたのに、実体験と知識を切り離すことができ「死ぬ死ぬいってるやつは死ぬ」と書いているの、偉いと思いませんか? 思いませんか……。

 俺が人が死ぬ話が好きなの、特に自殺に関する話や本を読むのが好きなのって、それを読むと「死んでよかったー」と「死なないでほしかったー」で気持ちが揺れ動いて、気持ちがぐちゃぐちゃになってしまうからだろうな。あの、よく分からなさがいい。世の中ってむつかしいね……と俺が言うときは、相当褒めている。それだけじゃなくて、人の死について考えていると、自分の死について考えなくなる、という即物的な効果もあるのだろうけど。さらに言えば、「死にたい」という言葉は、懐かしい家庭の味のような良さがあるのかもしれない。なにせ「死にたい」って言葉は1万回は聞いたからな。母が本当に言いたかったことは、その後の「だから私の言うとおりにしなさい」だったけど。

 みたいなことを、死についてだけだけど、だいぶ前にはてな匿名ダイアリーで書いたらホットエントリーになって、恐る恐るはてなブックマークコメントを覗いたら、「お前はおかしい」の大合唱があり、この感性はあまり一般的ではないのだなと痛感した。と同時に、同意が少なかったのは、ただ俺の書きかたが悪かったとしか思えなかった。だっていっぱいいるでしょう。俺みたいなやつ。

 俺が本を読むようになって、自死遺族という言葉をはじめて知ったときに思ったのが、なにせ「いいな、羨ましい」だった。感情に沿った理解を最初にしてしまう。その後で、さすがに一般的ではないだろうし、これは人に話すようなものではない、というかかなりよくない、と俺でも分かる。俺の話ではなく人の話だから。

 俺は反出生主義者ではない。姉が子供を授かったときに「出産という機能を使ったことないから使ってみたい」的なことを言っていて、だったら仕方ない! 好奇心には勝てないもんね! でも母のようにならないよう気を付けようね! と納得したから。使ったことない機能あったら使っちゃうよなあ、たとえそれがどのような結果を引き起こすにしても。そもそも犯罪でもないし。推奨されているくらいだし。

 母が後悔して、子も後悔する。そこに責任の概念を持ち込んでしまうと、戦闘が始まり、勝敗はそれぞれで、誰が勝ってもおもしろい話にはならない。

 俺は善良な人間で、人生で唯一犯したことがある罪といえば、小さいころにコウモリを育てたことくらい。時効だし、未成年だったし、まあセーフでしょう。鳥獣保護管理法でアウトと知ったのはだいぶ後。いや、雀も育ててたからそれもある。というか小さいころは何かしら育てていた。カナヘビ、イモリ、ヤモリ、蜘蛛、カマキリ、バッタ、蟻、カブトムシ、ノコギリクワガタ、金魚、あとカラスの雛とか。神社の境内にいたカラスの雛にミミズをあげてかわいがっていたが、住職らしき人に見つかり、「それ育ててどないすんねん」と怒られて辞めた。

 分別があるいい子だったのだ、俺は。小さな生き物たちを愛していて、狭いプラスチックケースで大事に大事に育て、杜撰な管理のせいか、すぐに死なせてしまったが。仕事中に俺はこんなことを考えながらも、家庭とかキャリアアップとかについて考えてる人の横では俺もそういうことを真剣に考えてますって顔は、もうできるようになった。