単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『BLACK SHEEP TOWN』がめちゃくちゃおもしろかった

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 瀬戸口廉也の新作ADV『BLACK SHEEP TOWN』をクリアした。

 滅法おもしろかった。俺が瀬戸口廉也の熱心なファンになったのは、『暗い部屋』や『電気サーカス』などの軽薄さと深刻さを兼ね備えた語りだが、今作はエンターテイメントの読み物としてすばらしかった。

 『BLACK SHEEP TOWN』は"Y地区という架空の都市を舞台にしたデジタルノベル"と紹介文にある。で、そこがどのような都市かといえば、子どもが母親の売春の客引きをするのが日常光景になるような場所だ。THE BACK HORNの『上海狂騒曲』という曲に、「オヤジは首吊り、ババアは酒浸り、ガキは物乞い」という歌詞があるが、Y地区は遥かその上をいく混沌とした舞台設定になっていて、つまりは、治安がとても悪い。そして、それ以上に登場キャラクターが濃いのだ。

 

 瀬戸口廉也の熱心のファンの一人としても今作は傑作と断言できる。ADV好きの一人としては、文章の牽引力が圧倒的すぎて、それに比べると音楽や映像がやや物足りないと感じた。

 と、書いたが、訂正。別に物足りなくはなかったな。ただシナリオが圧巻だっただけで、陽気なBGMをバックにして凄惨な描写が繰り広げられるシーンや、アレやコレが飛び交う酸鼻を極めるシーンをイメージしやすくしてくれるイラストなど、ストーリーの佳境でしっかり魅せてくれていたから。視点が飛び飛びになっても物語にスッと入りこめるのもADVのシステムがあってこそだろうし。

 総じて、ADVとして傑作なのだろう。登場キャラクターが多く、その多種多様な生き死が今作の魅力で、序盤はキャラクターを把握するためにTIPSに多いに助けられた。  

 体験版の時点でこそ、「今回は『ゴッドファーザー』みたいな血と継承の物語なのか?」と、「いやこれは『シティ・オブ・ゴッド』的なものか」、「ビルを住処にする組織って『ザ・レイド』っぽいな」から、さらに「ギャングが出てくる異能バトルって『バッカーノ!』みたいだな」とか思いつつプレイしていたが、結局は「この物語は『BLACK SHEEP TOWN』としか言いようがないな」に落ち着くことになった。

 『BLACK SHEEP TOWN』はADVの作品を探すときに俺が参考にしているレビューサイトのエロゲー批評空間で中央値90点だった。なるほど、非常に好評。まあこれは宣伝が少なく発売されてからまもないことを踏まえれば、このサイトを利用している瀬戸口廉也の従来のファンが評価している、という話だろうが。俺もその一人のファンに当てはまるだろう。

 

 一応、成人向けコンテンツ。エロはないが、グロはある。というか、人間がそもそもグロいという物語。どんな美少年でも美少女でも、ナイフで皮一枚抜いてしまえばB級ホラー映画の化物になるし、もともと人間はただの糞尿と血のつまった肉の袋であると同時に、奇跡でもあり、どうしようもない運命のなかでかけがえのない生をまっとうする主人公でもある。

 視点が変われば、命の価値も変わる。人は、救世主にもグロ画像にもなりうる。そんな当たり前のことを突きつけられた。そして、同じく当たり前だが、死んでしまった者の視点には変われない。

 

 人種も容姿も思想も混沌としているY地区が舞台で、視点となる登場キャラクターたちも多種多様。容赦なく命が散っていくノワール映画と、ライトノベル的異能バトルもある。異能を持つミュータントという存在の扱われ方が独特で、現代の基準でいえば障害者でもあり超能力者でもあり、介護の対象でもあり脅威でもある、その辺りの絶妙なバランスがよかった。

 なんというか、『BLACK SHEEP TOWN』は物語がおもしろかったな。この先、どうなるのか」そのためにクリックする。そして、ところどころに瀬戸口廉也にハマったきっかけのいい感じの語りが出てくる。俺がハマらないわけがなかった。

 凄惨な展開を迎えるのに読後感が妙に爽やかなのは、Y地区という都市が主役にした群像劇だからだろうか。都市の視点からすれば、人が死ぬのも街から立ち去るのも、人が舞台から降りる点ではそう違いはない。

 どのような苦境の中でも人間の生には美しさがあり、その美しさが苦境があってこそならばそのような苦境はないほうがいいに決まっているが、それでもやはり美しいものは美しいのだろう。

 

ここからはネタバレあり感想

 それにしても人がいっぱい死ぬ。醜態や内臓を晒しながら死んでいく。亮が龍頭になってからはさらに死が加速していく。その手際の鮮やかさというか、軽さというか。キャラクターに愛着を持ちはじめころに無残な死にざまを晒すような展開もあった。

 それが悲劇的でも喜劇でもなく、なるようになった感があるのが、『BLACK SHEEP TOWN』なのだろう。ドラマいえばドラマだが、それは特定の視点に限った話で、別の視点ではただ障害物を除けただけになってしまう。その物が人間だっただけ。群像劇が活かされていた。

 好印象を持っていたキャラが路上に臓物をぶちまけて首として晒されるのは『BLACK SHEEP TOWN』の凄みを感じた。太刀川の死に様はあっけないし、汐子は惨殺されたあとにレイプされるし、リタなんて晒し首になる。それも、Y地区にとっては日常光景でしかないってのがまたなんとも。

 それから『BLACK SHEEP TOWN』の物語に深みを与えているのが、(条件つきで)不死というキャラクターもでてくるところだと思った。そのせいで「死があるから生が輝く」的な言葉の適応範囲が狭まる。ローズクラブでは、不死を商売道具として機能させているし、ラストでは亮は一人の独断によってふたたび生を得ることになったし。不死があるせいで、ときには命の価値すら曖昧になっていく。

 登場キャラクターが「生きていることより、何をしたかが大事だ」的なセリフをたまに口にするが、それはそうなる。だって、生すらかけがえのないものではないのだから。とはいえ、不死を得られるような立場ではないキャラクターにとっては、死と隣り合わせの日々では生きているこそが奇跡という話でもあり、なんか俺はうちのめされていた。

 生とか死とか、命が軽いとか重いとか、従来の作品ならば決定的なそれが、今作では相対化されてわけわからなくなっていく感覚がとてもよかった。

 亮の好きなセリフで、

僕は何も感じない。死者たちを恐れることもなく、死なせたことの罪悪感も覚えない。むしろ気軽に話しかけたいような親近感がある。このまともにつき合うのはいささか厄介な世界に生まれ、苦しみ、戦い、そして目一杯楽しんで来たんだ。僕らは同じショーに参加した役者であり、観客であり、オーナーだ。僕も近いうちに誰かが夢に見る亡霊になるのだろう。誰かに殺されるか、病気が進行するか、いずれにしろ死ってのは生まれた時に予約済みなんだ。大騒ぎすることじゃない。

この世の中に、罪というものは存在しない。それは僕が神を信じないからだろう。この終わりなくいつまでも続くお祭り騒ぎのなかで、一体なにをしたら罪になるっていうんだろう?

 とあるが、死の予約すら取り消されるのだ。クリス・ツェー含む主要な登場人物のほとんどが、望むのならば不死になれたという状況を踏まえると、ほんとうにお祭り騒ぎのようなものだ。

 お祭り騒ぎのなかで、人の死が大騒ぎすることではなくなる。生死観は人それぞれだが、『BLACK SHEEP TOWN』ではその幅が極端すぎて、なんかすごいなーと思ってプレイしていた

 

 そんな街で、もっとも暴力を行使したのが亮だった。彼は非ミュータントながら、情報収集と拙速な行動、動員できる暴力という、シンプルな強さで対立組織やミュータントを次から次へ葬っていった。理詰めで最適解を選び、それを淡々と実行する、それがもっとも暴力的になる、というのが面白い。さくらのようにキルレート評価するならば、亮のスコアは圧倒的だろう。

 亮は功利主義的な価値観を語っているシーンがいくつかあったように、彼がやってることはY地区に限定した統治功利主義感がある。Y地区という舞台で、オリジナルのトロッコ問題に即答しつづける亮の決断力こそがもっとも異常といえる。

 そんな亮も最期はあっけなく暗殺される。しかし、さらにあっけなく生き返る。あれほど亮が拒絶していた選択肢をアサヒの独断で勝手に選ばされてしまう。これはハッピーなのかバッドなのか分からないが、そのあっけなさもまた『BLACK SHEEP TOWN』だと感じた。

 生も死もままらない物語だからこそ、ラストの展開も腑に落ちたということだろう。ご都合主義感がまったくない。なにせ亮にとっては少なくとも望んでいない生なのだから。そもそもが望んだようになることはあまりに少ないという話だし。

 結局、どうにもならないことが多すぎる人生の舞台で、そのどうしようもなさを諦めつつ、どうにかなるかもしれない狭い領域のなかで生きていくしかない。

 

 それと、能見美沙パートの病棟の描写が細かったのが印象に残っている。美沙や広美のやり取りをもっと読みたかった。それもあってか、今作では殺し殺されの応酬がつづくが、八龍解放軍の病院襲撃だけはなぜか心に引っかかった。ミュータントといえど不適応な特性が強く出てしまえば社会的弱者でしかなく、タイプB同士という共通項はあったところで、そこでも濃淡があり、当事者同士でも分かり合うのが難しいってあたりが生々しすぎた。

 群像劇という形式である以上、興味がないキャラクターのパートも当然あるわけで、俺にとっては見土道夫がそれに当てはまった。そのうえで、まだまだつづくと予想していた道夫の物語がスパっと閉ざされたのには驚き、『BLACK SHEEP TOWN』は容赦ないなあと思った。

 しかも、その暗殺に至るまでの実行者側の物語がこれがまた面白くて、見土道夫に思い入れがある人は一体どんな感情になるんだろうと想像もつかない。

 

 好きなキャラクターはレイレイ。彼女が不幸な目に合わずにほんとうによかった。亮がレイレイが淹れてくれるコーヒーを楽しみにしていた描写は微笑ましかった。登場キャラクターは膨大かつ、こういった視点にならないキャラクターの描写も細かいのもよかった。黄姉妹がアイドル好きってささやかな一文で温かい気持ちにさせられる。

 瀬戸口廉也的語りはないと書いた気がするが、さくらパートだけは彼らしい語りが全開で、まるで彼が昔にやっていたテキストサイトを読んでいる気分になれた。その語りそのものは瀬戸口廉也度が高いが、土壇場での度胸と行動力、そして乙女という、魅力的なキャラクターになっていた。

 

 表の主人公が亮ならば、裏の主人公はコシチェイだろう。最後の独白の、頑張ってあまり人を殺さなかったというのがじーんときた。そっか、頑張ったんだな。あまり人を殺しすぎなかったことが褒められるなんてないのだけど、それでも自分の中では折り合いを付けているのが生き様としてかっこいい。それも自己満足でしかないのだけど、自己満足は誰にも奪えない。視点が変われば、物事の見え方はまるで変わる。コシチェイはロジャー・アダムスを評価していたのがその極端な例だろう。ローズクラブというY地区の大多数に悪とされる組織の首謀者ですら、「この世のためにやれることをやっている」と思いを抱いて死んでいったろうし、それを認めてくれるキャラクターがいるのがこの物語の凄みを物語っていっていると思う。

 もちろん、思想と運用は噛み合わないし、ローズクラブは最初こそはよかったが末端では悪逆な人身売買の巣窟になっていて、まあ思ったようにはならないのだ。

 

 あと内田広美とエリオットの後日談を超読みたい。ほんと終盤でとんでもない関係性を立ち上げてくれたものだ。ボニー&クライドみたいと噂されるようになった二人のそれからが気になってしょうがない。俺、『BLACK SHEEP TOWN』でこの組み合わせがもっとも好きかもしれない。しかも、おそらくYS地区が激動の変化を迎える引き金になっているし、さらっと出てきたのにとんでもない魅力がある。

 『BLACK SHEEP TOWN』がサーカスの切り取ったものだからしょうがないが、あの二人の後日談は絶対に面白いでしょ。というか、軽く触れられる、謝亮死後のY地区もめちゃくちゃ面白そうなんだよな。寥志名がわりと好きなキャラクターだから彼がサポートするYSのその後とか、馬世傑のその後とか描いてほしい。

 でもそれはこの物語に含まれず、そのおかげで、あくまで延々と続く都市を舞台にした物語の一部分を切り取ったという『BLACK SHEEP TOWN』のコンセプトが印象付けられて、その物語はなるようになったと思わせてしまうところもある。

 ほんとおもしろかった。この物語のつづきも絶対におもしろいと確信できるのにつづきは(現段階では少なくとも)読めない罪深い作品でもある。『BLACK SHEEP TOWN』は傑作。