単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

16.家庭環境について

 いかにして俺が「母には死んでほしかった」とまでブログで書いてしまうようになったか。もしくは俺が育ってきた家庭環境について総括、または昔話のようなもの。一度まとめておくか、と書き始めたら興が乗ってしまって、やや長い。

 結論だけ先に書けば、「母が死をほのめかして子を使役するのはよくない」と「母は悪人ではないが、馬鹿で強欲で、運が悪かった」という内容。

  

 「あなたを心配している」と「あなたの話は聞かない」は矛盾しないどころか、むしろ両立することのほうが多い。

 以下に引用するのは、MK2さんがスクーターで怪我をしたときに見えた人の本性について。

その状況になってみて思ったのは「自分が弱い立場にいると、人の本性みたいものがよく見える」ということである。気遣いの上手な人、そうでない人。そもそも気遣う気がない人、ほんとに心配してくれる人。こちらの自己申告を受け入れてくれる人、そうでない人。この「受け入れてくれない人」には、過剰に心配する人と、口だけだろっていう人との両方があるが、どっちも人の言うことを聞いてない点では一緒である。

□ — さて、スクーターでコケた。...

 俺にとって、この「受け入れてくれない人」は、ずっと母だった。母は病的なまでの心配性で、正確にいえば、子を心配する母というイメージを装っていた。世間体と自己弁護のために。子どもを大事に思って心配する母親、といいように書けば、聞こえはいいだろうが、その大事さは高価な道具に対するそれだったら、話は変わる。そして、俺の子ども時代はそういう話になる。また、大事に思うことと、大事にするの間には、距離がある。さらにいえば、大事に思うことと、愛することは、さらに距離がある。

 とにかく母は、俺が言ったことを「受け入れてくれない」。特にその傾向が顕著になるのは、夢や進路の話題になったときだった。俺の願望や計画を話したとき、母が決まって口にするのは「でも、あなたのために言うけど、こうしたほうがいいんじゃない」だ。まるで「はい」を選択しないとストーリーが進行しないゲームみたいで、結局、俺は「僕もそう思う」と同意する他なかった。話し合いの形をした、答えが一つしかないクイズだった。だから、俺が10歳くらいになると、もう自分の未来についてはあまり考えないようになった。

 確かに、母は俺のことを心配していた。ただ、それと同時に、頑なまでに話を聞こうとしなかった。

 しかし母とはいえ、他人である。言葉に強制力はないはずだ。目に見える暴力は控え目だったし。がしかし、母の押し付けてくる願望が、ある事情によって強制力を持ってしまった。そして、それこそが決定的だった。

 

 その事情について以下に詳しく書いてみる。

  • 母が決定的に子育てに向いておらず、姉との家庭内喧嘩が耐えなかったこと(舞城王太郎の『土か煙か食い物か』のように、殺す殺さないとかしょっちゅう飛び交っていたし、稀に刃傷沙汰すらあった)
  • 姉の子育てに苦労した母が、こんなに苦労してしんどい思いをしているのだから子に自らの理想の体現を要求することを、当然の対価だと認識してしまったこと
  • そのとき「あなたがちゃんとしてくれないと私もう死んでしまう」といったように自殺をほのめかすことを手段にしてしまったこと。(『惑星のさみだれ』で「一日三回言われれば十年で一万回だ」と言葉が枷になったことを表現するセリフがあるが、そのように俺も一万回は言われてきた。俺の家庭以外でもこういう話ってよくあるのかも、と嬉しくなった)
  • 母は自分の理想と俺の資質をすり合わせるような器用なことは(緩やかにそっちの方へ誘導するようなこと)、母にはできなかった。ただ押し付けてだけだった。
  • 母が悩んだときに、占い師や情報商材にアドバイスを求めたこと。家庭の問題を相談できる相手がいなかったこと。それで、皿の裏に気色悪いシールを張るなどが、どうやら子どものために自分がすべきことと勘違いしたこと。
  • 母の理想を実現するために必要な能力が俺には授けられておらず、そのため努力している過程で精神が耐えきれずに発症したこと。容易に達成できるほどの才が俺にあれば、話は大きく違ってきただろう。「条件付きの愛」という言葉があるが、その条件が生存だったならば、何ら問題にはならない、というように。
  • 父が「家に赤の他人がいる」というくらいに不干渉で、家庭で母の発言のみが影響力を持っていた。 

 簡単に整理すれば、俺は小さいころにふたつの選択肢があり、それは「我慢して母の言うとおりにする」か「我慢せずに母の言うとおりせずに死なせる」で、俺は前者を選択した。虚構の選択肢だったとしても、1万回も迫られたら、誰だってそう刷り込まれるだろう。それで、後者を選べばよかったと俺は死ぬほど後悔するようになった。死ぬほどというのは、殺したいほど、ということでもある。

 ただ、俺が母の言うがままに生きて辛かったのは、俺がこうなってしまった結果そのものではない。だから、責任を追及することは考えたことはなかった。俺は無能だし、頭悪いし、別の選択肢でもそう上手くいったとは到底思えないから。ただ母に選ばされるよりかは、自分が選んだからと受け入れやすかっただろうとは思う。本当に辛かったのはそれではなく、俺の将来の夢や希望する進路を発表するときに、俺のではない母の願望を俺の口から話さなければならないことだった。想像してみてほしい。自分が頭が悪いと分かっている子どもが「自分は頭がいいから将来はこうします」と人前で発表しなければならないときの辛さを。 

 それに関する、いまだフラッシュバックするいくつかのエピソード。

 年始に親戚一同が集まって子どもたちが将来の夢を発表する催しで、俺の番のときに母と親戚一同から向けられた期待と圧力の眼差し。学生時代、なにかしらの機会に俺が将来の夢について語ったときに「お前が?」と失笑されたこと。俺はその反応は当然だと感じたこと。あと、俺が中学生のときに、お世話になっていた女性の国語教師が別のキャリアに向けて教師を辞めることになり、最後に挨拶にいったときに「あなたの将来の夢は何ですか?」と真正面から聞かれて、俺はそれに答えられなかったこと。俺にとって将来の夢は「我慢し、努力して達成しなければならない義務」と同義であり、その女性が離任式で堂々と語ったまばゆいものとはあまりにかけ離れていた。俺はなにも答えられず、そのことが無性に悲しくて仕方なかった。なぜかわからないが、今でも感傷的になってしまう出来事だ。なぜ。

 ということが学生時代が終わるまであり、俺が一人暮らしするようになってから初めにしたことと言えば、かつての俺を知ってる人達と縁を切ることだった。

 

 母は悪者ではなかったのだろう。ただ母は愚かで、無能で、頭がとても悪く、やや強欲で、極めつけに運が悪かった。旧弊な価値観に染まった親族、落とし穴のような人間関係、母になって当然子が立派になって一人前の社会的状況、姉がグレてしまったことでより増した子育てのプレッシャー、また俺も頭が悪かったことなど、母があのように振舞ったのはさまざまな理由があるのだろう。原因を遡及したところで、どこで区切っていいかは俺が判断するしかなく、そうなると俺は頭が悪いから母が悪者だったと片付けてしまって。それはあまりフェアではない、と思う。

 ただ、母は苦労した分だけ対価を得ることができると無邪気な思いを捨てきれず、その対価をよりにもよって俺に要求した。「あなたがちゃんとしないとわたしは死ぬ」という言葉が子どもにどのような影響を与えてしまうのか考慮することができなかった。細かい点は違えどよくある話に違いない。

 俺がパニック障害になり、母の願望を実現するためには俺が先に死にかねないと気づき、そうなるよりかは母を殺したほうがいい、と決意したとき、ようやく呪縛は解かれはじめた。だから、俺はもう、母に対して恨みや怒りは特にない。当時の俺がなぜあのような将来の夢を語っていたか、その理由について説明するのは面倒極まりなく、物事を複雑した母に苛つくことはいまだにある。面接で空白期間について聞かれるとき、こんな話をするわけにもいかないので、別のエピソードを支援施設の人と一緒に考えたこともあった。その過程でクソみたいなカウセンラーに出会ったことは別の記事に書いたからしない。

 

 「子どものために自分の人生をあきらめた」「母になることで奪われたものは取り戻せない」「向いていないし、好きじゃなかった」と母親になって後悔するように、当然「母親のために自分の人生をあきらめた」「生まれたことで奪われたものは取り戻せない」「死んでほしかった」と子ども同じく後悔することがある。そこには、選択可能性にまつわる非対称性があるが、最近では後悔の語りやすさにも非対称的があると知る。わが家では「産まなきゃよかった」はよく母が言っていたが。そして俺含めて子どもも「産まれたくなかった」と返し、みんなしんどかった。やってみないと分からないことだが、やってみた後はもう取り返しがつかないのは、構造的欠陥としか思えない。

 母は母親になって後悔しただろうし、俺はあなたの子どもになって後悔した。それぞれ、運が悪かった。俺はそう思うことにしている。それと、母があのころ誰かにヘルプを求めやすかったならば、しんどいと言いやすい環境だったなら、少しは話が違っていたのかもしれないが、あの頃の俺には関係ない。俺の手には余る。きっと母に必要だったのは、エスパーシールではなく、愚痴を言ったり相談したりできる人間関係だったんだろうが、しかしそれこそが得難いってのは、まあ昔も今もそう変わらないのだろう。

 こうして、冷静に振り返って考えるようになったのは、20代前半頃からだった。俺が死にそうとなるまで、それまでのストレスが堰を切ったかのように押し寄せてきて死にそうになったパニック発作になって、ようやくだ。そこから、俺が死ぬくらいなら、までは早かった。そもそもが、当時の俺は洗脳されていたようなものだったから、意識としては「なんとなく嫌だなあ、でも母が死んだらだめだしなあ」くらいの不愉快さを感じたくらいで。それでも、食事が喉を通らなかったり、授業中に動悸や吐き気でしんどかった日は多かったが。俺が「ちゃんとやんなきゃって素敵な未来なんてのははじめからねえだろ」と歌われるSyrup16gの『末期症状』を人生でもっとも聞いているのは、俺の無意識で渦巻いていた思いそのものだったのだろう。

 

 姉が母親になってもうだいぶ経つ。かつては「あんたを殺してやる」と包丁を持って母を追っかけていたやんちゃな姉だったが、子を授かったあと「母のようには絶対にならない。産んだからには子は幸せにしたい」と語っていとおりに、姉精神科に通ったり行政支援を受けながらも、俺の目には母のようにならないために母を一生懸命にやっているように思える。

 ここまで書いていて痛感したが、話に父がまったく出てこない。それもそうで、父は完全に不干渉を決め込み、自室に籠りっきりだった。何もしなかったことを非難するのは難しい。が、もしかりに俺が責任を両親に問うならば、母だけではなくて父に言及しないとおかしい。でも何もしなかっただけだから、ほんとうに何も思えないし、書くことがない。

 

 あらためると、機能不全家族の「過干渉の母と不干渉の父」という典型的なパターンそのものだな。そこに、自分の死と子の未来を天秤にかけて母が子に無理やりに選ばせる演出と、気色悪いシール(ほんとうに気色悪い三角の目をしたシール)やマルチ商法の数珠の小道具、それと絶えず中上健二や舞城王太郎の父兄と母姉と入れかえた出来損ないのオマージュを加えれば、俺が育ってきた俺から見た家庭が完成する。

 もう、俺と母の過去について、これ以上は書くことはないだろう。こういう家庭に育ってきたので、誰がいうところの「あのとき習い事させてもらっていたなあ」は、俺にとっては「あのとき母が死んでいたらなあ」となり、そう変わらない。からこういう考えをだいぶ前にカウンセラーにポロっと漏したとき、ひどい目にあった。どうも伝わんねえなと思って、人にこの話をすることはない。

 

 少しずつ書いては書き直してきたこの記事、2022年になってようやく書き終えた。「俺が死ぬよりお前が死んだ方が俺にはいい」と思えるようなったあの瞬間が、俺の人生においていかに素晴らしい瞬間だったかは、他人に理解してもらうのは難しいのは承知している。だが、誰に理解されずとも、俺は自信を持ってそう言える。そう言えるようになってからようやく区切りがついた。

 

 「でもでもでも! そんなの間違ってたって、いまはちゃんとわかってるんですぅ。だから大丈夫です! ホント、家庭環境って恐ろしいですよねぇ。……あ、私の家庭環境が気になりますかあ?」は『キラ☆キラ』に登場する白神翠というキャラクターの台詞。ホント、家庭環境って恐ろしいと思う。伝えることが、そしてまた、理解することが、とても難しいから。