単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

HUNTER×HUNTER 劇場版 「緋色の幻影」 考察


 HUNTER×HUNTER劇場版「緋色の幻影」の考察を書いていきます。
 あらためて振り返ってみるとそれなりに読み取れるものがあったので。
  
 この映画には、二つの軸があって、一つはゴンとキルアの友情物語。もう一つは「操り人形」からの脱却というテーマもありました。
 前回は前者については酷評しましたので、今回は後者について考察していきます。


 劇場版では、イルミがキルアを洗脳するシーンと、その洗脳によってキルアが葛藤するシーンが何度も描かれます。これらはキルアがイルミの「操り人形」であることを示唆させるシーンです。また、オモカゲの「操り人形」であったレツが登場します。


 劇場版では「操り人形」であるこの二人がメインキャラクターとして活躍していました。
 そして、二人の「操り人形」は、最後には操り人形であることを脱却することになります。そのときのキーとなる人物が主人公であるゴンなのです。


 ゴンの目が奪われた後、ゴンの目を装着したイルミ人形とオモカゲの台詞に「世界が輝いて見える」というのがありました。ゴンというキャラクターは、好奇心の赴くままに冒険をつづけていて、まさしく「自分らしく」生きていていました。主体的で自由に溢れているゴンは、従属的で束縛されている「操り人形」の対極に位置する存在です。そのゴンが、キルアとレツを「操り人形」から救出するというのが、友情物語に次ぐ劇場版のストーリーでした。ちなみに、その方法は酷評したように安直な友情パワーです。どうして救出したかについては、ゴンが活躍した以上に特に語ることはありません。
 
 
 で、個人的に評価したいのが人間と人形の扱い方です。

 オモカゲの念能力は「相手が意思、記憶を持ちながら強制的に命令することができる」というものでした。オモカゲの人形になってしまうと、根性や友情ではどうすることもできないわけです。操り人形というと、意思によって反逆するといった展開が予想されますが、劇場版では人形はどうしようもない点に関しては徹底されていました。(ラストのレツがオモカゲをナイフで刺したシーンは、一応は、オモカゲがクラピカのチェーンジェイルになって絶になったときの隙を突いたを解釈することができます。一応。)


 そして、レツは最後には炎のなかに身を投じることになります。レツが人形でありながら自我を持って自由に生きるという展開に逃げずに、最後まで人形は人形でしかないと厳しい描き方をされてました。消滅をもって「始まる」というのは、人形である限りは自由になることができないとハッキリ宣言されたわけです。


 こうして人形を厳しく扱った理由は、人間であるキルアのためにです。
 人形は自由になることができなくても、人間ならば自由になることができる。人間は操り人形なんかではない、と。

 レツとキルアは同じく「操り人形」ではありますが、二人は人形と人間といった決定的な違いがあります。そして、ご存じのように二人の最後も決定的に異なりました。人形は途絶え、人間は微笑む。

 
 イルミの洗脳によってキルアは束縛されていましたが、ゴンとの友情によってイルミの洗脳を克服することできました。さらに、「操り人形」からの脱却といえば、イルミ人形と、人形師であったオモカゲを撃破することでも象徴されていました。ハッキリいって、その克服の仕方は根性論でごまかしたとしか感じせんでしたが、とにかくキルアは人間であったので「操り人形」から脱却することできたわけです。


 劇場版は、人形師であるオモカゲの念能力と、「操り人形」からの脱却というメッセージを上手く絡めていました。人形と人間を明確に区別することで、キルアの脱却を印象付けさせたのは悪くないと思いました。ただそのやり方は酷評してしまうほどの悪手だった点は容認できませんが。参考→そりゃ悪手じゃろ


 
 そして、このストーリーに重要だったのが、クラピカの存在です。
 クラピカは「死は全く怖くない一番恐れるのはこの怒りがやがて風化してしまわないかということだ」と過去に発言しているように、幻影旅団とクルタ族の過去の出来事の「操り人形」となっていました。これは意思に関係なく束縛されてしまうという意味で「操り人形」ということです。

 当のクラピカは劇場版以前のヨークシン編・幻影旅団編において、すでに過去の件と一旦の決着を付けています。そのストーリーではゴンたちの友情によってクラピカは自分を取り戻すことができて、もはや「操り人形」のようには束縛されていません。

 劇場版においても同様の展開を繰り返し、人形化されたパイロの存在によって束縛されかけましたが、レオリオたちの言葉によってそれを乗り越えることできました。こうしてクラピカはすでに乗り越えたテーマであったので、劇場版ではメインに扱われることはなかったということです。 


 
 このことから、劇場版のテーマになっていた友情物語と「操り人形」からの脱却というのは、友情によって「操り人形」から脱却するといったようにひとつのテーマとして繋げることができそうです。この映画においてキルアが主役のようであったのは、友情物語と「操り人形」から脱却の二つの軸を担うことができるのはキルアのみだからでしょう。そして、それは以前のクラピカのテーマでもあったわけです。

 舞台としてはクラピカの物語であり、テーマとしてはキルアの物語である劇場版を、あたかも「クラピカの物語」として宣伝していたのはミスです。ただ冨樫義博のクラピカ追憶編の読み切りからこのアイデアを発案したのはそれなりにいいと思いますね。まあアイデアだけの話。


 テーマとして見れば、劇場版は原作のハンターハンターに通じる内容ですね。
 自主性または主体的であることが大事なのは原作でも同様です。オモカゲが率いる人形がやたらと弱かったのと、人形にはやり直しのチャンスが与えられなかったことなどで、従属的な人形ではダメだとハッキリと描いていたのは悪くはありません。単行本の最新刊までのネタバレになりますが、ネテロに従属的な十二支んは、主体的なパリストンに完敗するストーリーがあったりと。一応は原作に通底する世界観に従っていたような印象。

 
 まあだからといって、劇場版はあんまり面白くありませんでした。というか、つまらないかった。特に原作を意識させた作りで、原作との齟齬がありまくりというのは酷かったです。アニメ版のみを見ている方はテーマもすんなり受けいられて楽しめたかもしれませんが。わたしは数年間ブログをやっていて、おそらく酷評したのは今回が初めてということを書き足しておきます。
 

 オマケ。
 「HUNTER×HUNTER」をバトルアニメ映画のテンプレに当て嵌めてはいけないという記事を読んで気付いたことが、HUNTER×HUNTERは理詰めで展開してあるのでそのディテールこそが面白さの魅力になっているということです。

 このブログでは何度も考察記事を書いています。こうしてネタが尽きないのは「なぜ」と疑問に感じた点を突っ込んでいけば面白い答えにたどりつくからで、それはHUNTER×HUNTERがディテールまでしっかりと論理展開されているからなのでしょう。劇場版はツッコミどころがめちゃくちゃ多くて、そのどれもが「原作をちゃんと読んでないだけ」「適当にごまかしているだけ」なので、わたしはあまり好ましくないと思ってしまったことに気付きました。


 いってみれば、HUNTER×HUNTERは扱いが非常に難しい作品なのです。バトルアニメ映画のテンプレに当てはめてディティールが杜撰になってしまえば、強固な論理展開がされている原作との齟齬が出てしまうのは当然というわけです。でも劇場版は「原作をちゃんと読めよ」って展開も多々あったので、それ以前の問題なんですけどね。


 劇場版を見て、あらためてHUNTER×HUNTERの世界観の強固さを再確認できました。わたしもハンターハンター大好きで毎週読んでいますがそろそろ連載再開を期待したいです。やっぱりHUNTER×HUNTER冨樫義博が描いてこそでしょう。