Syrup16g全曲レビュー「遊体離脱」

 

coup d'Etat

coup d'Etat

 

 Syrup16g全曲レビュー「遊体離脱」。幽体離脱、ではなく。

 「人が本気で傷つくときって、恋愛のときじゃありません?」と五十嵐隆が過去に語ったように、関係性の海のなかで出会ってしまった躓きや戸惑い、そういった悲しくシーンをこの曲では鮮やかに切りとっています。その美しさもいっしょに。

 繰り返しきけばイントロのハイハットの打音からすでに心が奪われることに気づく。ミニマルに音を重ねていき、ギターとベース共に高音域のなかでメロディーを紡ぎ、それらが楽曲のメロウさを強調することによって陶酔感をもたらしていく。

 日常のスケール内で瞬間を描写し、はては宇宙のスケールで破局を歌う。

 散ってしまった愛というのはこうも儚いのか……と私はそこに美しさを見いだしてしまいます。どうしようもない悲しみが歌われていても、あたかも幽体離脱して遠く眺めてしまえば、全体像として目にした悲しさは美しさと形が似ていると気づくように。

 

 で、耽美なメロディーの額縁のなかに飾られている、「遊体離脱」で切り取られたシーンの箇条書き。

 ①つい考えすぎてしまう癖をあなたに笑われた 
 ②あなたの嘘に翻弄される。あなたからの言葉が欲しくて悲しいフリをする。
 ③あなたに対して抱いたイメージはすぐに塗り替えられる、
 ④あなたが笑ったかと思えば遠くを見ている、その感情の変化に戸惑う。
 ⑤最終回のドラマで号泣して感性が単純だったと思う。
 ⑥そして、

「愛情が怖いんですか」
裏切れた人間にしか分からないさ
そんな気持ちは

 と、ラストでは、愛情の最終局面に訪れてしまう「裏切り」が、いかに怖いものであるかを語り、それは経験的理解によってしか分からないと安易な理解を拒絶します。
 
 だから私には、その怖さは分りません。経験がなく、拒絶されてしまった側の人間だから。しかしその怖さが致命的なほどの重さを持つことは伝わってきます。

 とにかく「遊体離脱」は私的なエピソードがスケッチされています。が、経験の有無にかかわらず、歌われるエピソードは誰もが人間関係のなかで出会う「ままならなさ」が下敷きになっているおかげで、私のような人間にすら共感を誘われてしまいます。もちろん、まるっきり的外れの共感の可能性はあるけれど。 

 歌詞のドラマのシーンのように、過去のシーンを遠くから見下ろしている様子はまるで幽体離脱のようで、しかしタイトルは「遊体離脱」。私はなぜ幽体ではなくて遊体かといえば、幽体のように完全に距離を置いて俯瞰しきっているわけではなく、過去の話といえど自分の存在を切り離すことができない状況をひねって「遊体」と表現した受けとっています。

My girl
愛が宇宙の果てに
そっと導かれて 散る


 で、愛は最終的には宇宙の導きによって散っていきます。
 さっきまでのエピソードが途方もなく広いスケールに着地。具体的なエピソードを積み重ねたからこその宇宙という修辞的な表現が際立ちます。

 さらに、「これはどうしようもなかった」と自分に納得させるために「宇宙の果てに導かれて」と比喩を持ちだしているような気がするし、また、「宇宙」と「その果てで散る」と無限遠のスケールに愛を置いてくることで「そこには二度と手が届くことがない」と断念の思いが伝わってくる気がするし、つまりはどうしようもなく悲しい。そして美しい、と思うわけです。

 それにしても、「遊体離脱」はベースラインに耳を奪われます。抑制している歌声、ミニマルに徹しているギターと、シンプルなドラムなどに対比するように、コード感のあるベースが響いている。いわゆる「引き算の美学」で、ベースの調べに比重を置いたアレンジメントが光っています。序盤、ベースラインが入ってくるところなんてほんとゾクッとしますからね。

 一番好きな歌詞のフレーズが、

最終回のドラマでボロボロに泣いた

思ってるより俺は単純なようだ

 こう、個人的な体験と思っていること、ことさら失恋や裏切りといった負の感情を残す体験は深刻に違いなく、確固として個別なものであり、そのつど人間関係のむずかしさを痛感してしまうわけですが、一方で、ドラマで描かれる他人の人間関係に感動してボロボロ泣いて、つまり「共感」してしまうと分かったことで、ひるがえって個別な経験を思いかえして「視点を変えれば、同じようなことかもしれない」と一般性の文脈に置かれてしまって、最後には「俺は単純なようだ」と思ってしまうことは、はたして救いなのか救いではないのか。それがいまだに分からない。