単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

私的・林檎もぎれビーム!再考

にじさんじのメンバーが先日開催したライブで「林檎もぎれビーム!」をカバーしたようで。そういえば、このすばらしい曲についてまだ書いたことがなかったので、いまの俺がこの曲をどのように受け取り、どのように聞きつづけているかについて書いていきたい。

「林檎もぎれビーム!」のクレジットは大槻ケンヂと絶望少女達で、作曲がCOALTAR OF THE DEEPERSNARASAKI、ピアノが筋肉少女帯三柴理といった「特撮(バンド)」のメンバーがサウンドを主に担当している。

林檎もぎれビーム!

林檎もぎれビーム!

  • 特撮
  • アニメ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

「林檎もぎれビーム!」は、いわば創作(フィクション)をどのような態度で向きあうか、といったことをテーマにしている。

それが端的に表れている歌詞が、

君の孤独 わかってるよな

すごい話に出会っても すぐに神と思っちゃダメさ

「マニュアルではめてるだけかもよ 

でもそれでも好きね? 合言葉を言って」

 

作詞を担当した大槻ケンヂは、『オーケンののほほん日記』のエッセイで「傍からみたら馬鹿そのものだが、死の恐怖に怯えてなかばヒステリー気味に、映画や本やオカルトの世界に現実逃避していた」と語っているように、フィクションに傾倒していた人間だった。

あまりに傾倒しすぎたせいか、彼が不安神経症に陥って医者にかかったときに「UFOはやめませんか?」と日常生活に支障が出るからとドクターストップをかけたられた、と同書にある。

オーケンのエッセイを読むと、彼がB級映画やオカルト本などの膨大な量のフィクション(ときにはノンフィクション)を見聞きしてきたことが分かる。

その自身の経験もあってか、『サブカルで食う』ではこう語っている。

「周りの人たちとは違う私」というのを実感したかったり、自分のコンプレックスを負の世界とアクセスすることによって変えようとしたり……いわゆる超越願望ですね。そんなの全部勘違いです。負の要素で人が変わるとしても、それはよくない方にのみです。

ここでは負の側面が強い作品に限定されているが、フィクションのなかに光明を見出してしまっても、そこに安易に身を委ねることを危険性を警告している。大槻ケンヂは似たようなことを20年前のエッセイでも書いているので、これは彼が胸のなかに連綿と抱きつづけている思いなのだろう。

 

俺がフィクションのなかで「まったくもって自分事でしかない」と鵜呑みにしてしまうのはだいたい負の作品なので主語を少し限定してしまうが、そういったフィクションに出会ってしまったときにどのような態度で向きあえばいいか?という疑問がある。

これが「林檎もぎれビーム!」では、

だけど想いとめられぬなら 信じ 叫べ 合言葉

共に 歌え 全て変わると

変われ 飛べよ 飛ぶのさ

 と歌われている。

全肯定も全否定も、盲目的でも冷笑的でもない。「マニュアルに当てはめただけかもしれない」「お仕事でやってるだけかもしれない」と疑いの眼差しを向け、距離を置いて見つめ直したうえで、それでも想いがくすぶりつづけるならばあらためて一歩踏みだせという。

つまりは、フィクションの物語やメッセージを、それがどれだけ自分に寄り添ってくれていたとしても、鵜呑みにせずに咀嚼してから飲み下すかどうかを決めろというわけだ。さらにいえば、硬直した態度を捨てて、たえず疑問と確信の最中で向きあいつづけろ、と俺は理解している。信じる、と似ている。

かりに結果が同じになったしても、それは決定的な違いをもたらす。  

 

ただ現実では、いったんの疑問を解消するための巧妙な仕掛けもまたフィクションに内在されていることがあり、疑問のあとに得られた確信そのものがマニュアル的/お仕事的な射程に収められていることがある。

だから、疑問と確信の間で揺れうごく立場は安定することがないだろう。

それでも、だ。それでも、想いがくすぶりつづけているならば、その先へ踏みだしていこうじゃないかと歌っている。

それは正誤によって判断する話ではない。好きだからそう信じる、といった意思の話になる。だからその態度は妄信にはなりえない。れっきとした意志をもった選択になる。

 

信じることに関して「サクラノ詩」では

「ただ言える事は、人が何かを信じるという事は、最終的に"演繹"でも"帰納"でも"確証"でも"反証でもないのだろう」

と語られる。

なぜそれを信じるのか?については、「林檎もぎれビーム!」でも「だけど想いとめられぬなら」と、想いを根拠にしている。そこには論理は介在していない。正しそうだからとか、あの人が言ったからとかではなく、「自分はこれが好きなんだ」という想いをよすがにしている。

 

さらにいえば、目印にすべき想いもまた途絶えてしまうことがあるのだが、それについては「メビウス荒野~絶望伝説エピソード1」でテーマにしていて、ここでは触れないが、想いを信じて先に進むのは一方通行ではなく、ねじれてこんがらっていく道のりなのだろう。

 

話を戻して、そういった営為の果てにあるのが「絶望のかすかな「こっちがわへ」」。いまだに「こっちがわ」が示す場所はよく分からないのだが、しいていえば虚構を想いを頼りにくぐり抜けた先の世界は、想いが導いてくれるささやかな自己変革を経た世界だとだと理解している。「変わったアナタを誰に見せたい?」と。変化そのものに良し悪しはないが、なにかに憧れたり気に入ったときの想いが導く変化は良いものである、と。

 

大槻ケンヂはオカルトに耽溺してきた20代後半を『オーケンののほほん日記』でこう後述している。「それが20代後半な訳で、なんだかなー。損したような気もするし、病であったればこそ沢山のアイテムに出会えたとも言えるし、良いように考えることにする」と。想いを信じる根拠にするならば、想いが薄れてしまったら信じることもできなくなるが、まあそれだってムダではない。そう思いたい。

 

俺はかつての大槻ケンヂのように、現実逃避(俺は現実希釈と呼んでいるがだいたい同じこと)のためにフィクションを摂取しつづけていたので、「林檎もぎれビーム!」の歌詞はまったく他人事ではない。

「君が想うそのままのこと歌う誰か」もたくさんいるし、それが「お仕事でやってるだけかもよ」とも思うこともよくある。特に俺が好きなような、ダメ人間がダメ人間っぷりを表現する作品においては、「でもそう表現できるだけですでにダメではないのでは?」とも思うことだってある。(ダメさも一様ではないから、べつに矛盾はしていないが感情として)

ただそれでも好きなものは好きなので信じたい。それはすでに書いたように、正しいとか間違っているとかではなく、そうしたいという想いを優先しただけのこと。

 

あと「林檎もぎれビーム!」は特撮の『5年後の世界』に収録されている特撮verがラウドなアレンジで当社比1.2倍ほどかっこよくなっているのでオススメ。