単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

沈黙という雄弁な言葉『明日、私は誰かのカノジョ』Episode 01 Killing me softlyを読む


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 『明日、私は誰かのカノジョ』は、俺がめっちゃ好きなタイプのマンガなのに今の今まで知らなかった……。タイトルとあらすじをパッと見て、てっきり「彼女レンタルサービスを利用したことをキッカケに次第に仲良くなっていくタイプのラブコメ」だと思っていた。だいたい合ってはいるけれどラブコメではなかった。

 ある時、俺は「トー横界隈」についてのいい本がないか探していて、ある本のAmazonレビューで「この本を読むくらいなら『明日、私は誰かのカノジョ』ってマンガがいい」と書いてあったのを見て気になり、ちょうどサイコミで30話無料お試しをやっていたのもあって読んでみることにした。

 まず、一ページ目から想像していたのと全然違った。虐待されている児童が将来の夢について書かされるシーンがいきなり登場する。えっ、表紙と全然違う……。笑顔でピースしている女の子はどこにいった。

 

 そういう感じの話なの?と驚きつつも引きこまれて、一話を読んだあとはもう貪るように読み進めていくことになる。

 一話に登場する、レンタルサービスを利用した客の「い…いやー、初めてこんな店を利用したわ…」「友達から聞いて一回試してみようと思って彼女をレンタルしたとか話のネタになるし?」というセリフからもうすでに面白い。人間が生き生きとしている。その客は、聞かれていないのにごにょごにょと言い訳がましいことを語りはじめるわ、そのまま雪に手玉に取られてサービスにずぶずぶとのめりこむわと、はじめから容赦がなく人間の生々しさが切り取られる。

 とくに客に「また会いたい」と言われた雪が、沈黙という言葉で契約上の関係だと指摘するシーンの、絶妙なコミュニケーションのやり取りはグサっときた。あえて何も言わないことによってめちゃくちゃ語っているという。無言の笑顔で間違っていると指摘されるのは怖くないですか? 俺はとても怖い。

 

 自分が体験するとなると怖いが他人事なら楽しいという……。正解だったら「嬉しい!」とすぐに反応されるのが怖いしまた他人事なので楽しい。

 で、ここからのあらすじが、彼女代行として偽りの人間関係を演じることで日銭を稼ぐ女子大生の雪が、友人に見栄を張ってしまったがために偽恋人役を頼むべくレンタルサービスを利用することになった壮太(一人の青年)と出会うことで始まる。こっちが本編。意外と空気が読めるさっきのおじさんはあんま出てこない。

 そこで、イケメンで優しそうで将来性がありそうな好青年の壮太が出てくるのだが、初対面なのにさっそく雪と壮太の価値観の分かり合えなさが露呈してしまう。しかもよりによってパーソナリティーに深く関わる価値観で。

 

 あらすじから察すれば、このふたりは結末こそ不明だが、それなりの仲になるのだろうと予想される。しかし、ふたりはこの壁をどうやって乗り越えるのかだろうか。ここまで克明に、雪の家庭環境が機能不全家族であったことを一ページ目で描写したあとで、「母の日」を毎年ちゃんと祝ってそうな理想的な家庭で育った壮太との間にある、巨大な壁をどのように? これは、この物語は、どう転んだとしても中途半端なことには決してなるまい。と確信し、読めば読むほど『明日、私は誰かのカノジョ』の人間模様に引きこまれ、もうすっかりこのマンガのファンになってしまった。

 『アスペル・カノジョ』でいうところの「見えている世界が違う」という人間関係のわかりあえなさ、むずかしさが描かれているのだ。その最たるものが家庭環境だろう。その話題は、最も身近で最も多様なせいで、突きあわせたときに価値観の差異が浮き彫りになってしまう。常識が通用しない。

 さらに、ただでさえ共感するのが困難な価値観なのに、雪が虐待の跡を化粧で隠すシーンに象徴されるように、このマンガは「見えなさ」を強調しているから、さらに分かり合えなさが加速する。そもそも見えないから相手には分からない。だからといって、分かってもらうためには、醜いもの(と自分が思い込んでいる)を見せなければならない。そのせいで、同じ映画を見ているのに、正反対の感想が出てきたりもする。もう、なんというか、「ありのままの自分を受け入れてもらう」ような物語ではないのだろうこれは。「本当の私」というのが、見せたくないから化粧で隠し、そもそも見てきたものが違うから目につきにくい、と二重のフィルターでかかっていて見えにくい。分かってもらえない。やりきれない。そういう話になるのだ。 

 俺はまさにそういう人間関係がある物語が好みだから、『明日、私は誰かのカノジョ』にドハマりしたのだ。「本当の私」なんて言葉は青臭いと思ったところで、このマンガは青臭さ(=若さ)を意図的に演出しているから用意周到ときている。よくできている。おもしろい。

 

 ここからはネタバレあり感想。

 主人公の十八歳という設定が活きていた。レンタルサービスの利用者の男性に比べると、雪は圧倒的に若い。やっぱおじさんって肌汚いよなぁと嫌悪するくらいに年齢差がある。この作品では十八歳は若いということが意図的に描かれている。それもあって「本当の私」という言葉もするっと出てくる。そのつどの関係性に合わせて私(ペルソナとか言うやつ)が変化するのは当然で「本当の私」なんて存在しない、と割り切ってはいない。若いからそうなっているという話ではなくて、この話ではそうなることが「若さ」に含めている。全体的に作者のシビアな眼差しがあるような気がするのだ。

 雪は若さゆえの頑なさと、そしてしなやかさもある。そのおかげで、雪が壮太に対する思いに揺らぎがあるからドラマが生まれる。結果として、決別してしまったけれど、雪は壮太との触れ合いを通じて心がまったく動かないわけではなかった。結果から振り返ってみれば、契約上の関係の一線も、初体面時に雪が壮太に対して引いたあっち側とこっち側の線も超えることはなかった。途中までは、壮太が線をまたぎそうではあったけど。そうはならない。

 俺も小学生のときは、将来の夢を書くときに親が言ったことをいかに正確に書き写すかというテストでしかなかったのもあり、どっち側といえば雪の側になる。「母親を大事にしないやつ許せない。軽蔑する」とか言いのけるやつの、その想像力の貧困さと無知を誇る態度を目にしたら軽蔑してしまう方だ。というか、あの序盤の雪に決定的な違いを痛感させたシーンは壮太がうかつすぎだろう。控えめにいえば、親子関係が良好なのは一般的かもしれないが。それが常識とまではいかないだろうし。(でも壮太はここで終わる男ではなかった!)

 雪は内心でこそ雄弁に自分と環境について語っていて、がちがちの殻にこもっているように思えたが、壮太に素顔を見られた途端に内面を語りだしてしまう不安定さがある。そこらへんにリアリティというか、人間味というか、若さというか、割り切れなさ というか、そういう諸々を感じた。というか、雪は孤独を認識しているけれど、どうにか術がないから放置してしまっているだけで、そもそも友達思いだし。

 それで、雪に面と向かって軽蔑するとまで言われた壮太が、心が折れずにサービスを利用して申し訳なさそうに顔を合わすシーンがほんといい。雪に「なんで?」と思われて、俺もなんで?と思った。ドラマだったらその一つの前のコマの「一週間の一日だけ、私は誰かの彼女になる」でEDになるだろう。でCパートでそのシーンが出てくるのだ。そこまで第一話なのだ。そんで壮太のことが少し好きになる。

 ここからは壮太の快進撃が始まっていく。なんやかんだでいい感じになっていく。「心から」とか「本当の」とか、ちょっとすべてを求めすぎではと思わなくもないが、それも壮太なりの愛だからどうしようもない。壮太に多少はヒロイックな感情もあったのだろう。ラブホ街に行ったところで、いや壮太はそういうやつじゃないのが分かってるから何も起きないで、じっさいに何も起きない。ただのやらかし。しかし、壮太は雪を旅行に連れていった大胆さのわりには、行き先のどこも営業外というミスをやらかしたのは意外だった。壮太ってめちゃくちゃ下調べしてそうなタイプなのに……。壮太は想像力のなさを軽蔑されるが、どうやら計画性もないらしい。でも甲斐性には満ち溢れている「いいやつ」には違いないのだ。

 やっぱ、壮太は良くも悪くも普通なんだなと思った。健全な家庭環境で育った善良な人間なのだ。旅行先の旅館の広縁で会話したとき、壮太が雪の嘘の告白を聞いたあとに「どれも本当の雪ちゃんじゃないの…!?」と言い放ったセリフは絶妙だった。雪にとっての重要なワードが飛びだしてくる。しかし、その言葉を、雪がどう受け取ったかのかは直接的には描かれない。雪からは沈黙という返答がなされる。一瞬は揺らいだのかもしれない。壮太と接した自分もまた「本当の私」だったのではないかと悩んだのかもしれない。が、結局は二人は結ばれることはなかった。そういえば、雪が「今までの家族エピソードは嘘だった」と告白したときも、特には虐待を受けていたことには触れていなかった。あっち側とこっち側という線は引かれたままで変わらなかった。

 それで最後には、一話と同じように、雪は壮太もあくまで顧客でしかなく、一時期的なレンタルサービス上の関係性であることを強調し、告白を断って、壮太をNGリストに入れて決別することになってしまった。で、『明日、私は誰かのカノジョ』になるというタイトルコールになって、雪の日々は変わらずにつづいていく。

 ……いや、マジでいいドラマが繰り広げられていた。雪の映画評の「人生ってそうそう上手くいかないと思うし……世の中の不条理さが体現されてる作品だったなって……」ってままのマンガだった。今もゆっくりと読み進めているが、いまだにこの一章が一番好きかもしれない。一章は、結局は雪は「誰かのカノジョ」でしかないっていう、タイトルのままなのがやり切れない。 

 ちなみに俺がもっとも共感したシーンが、雪がでっちあげた家族のエピソードを話して自分で言っててダメージを受けるところ。あれ、ほんとよく分かる。親子が仲がいいのが当たり前と思っている人に説明するのが面倒ででっち上げることが俺もいまだによくあるから。

 まあそういう俺個人の共感とはあまり関係なく、『明日、私は誰かのカノジョ』は人間ドラマとしてすばらしい作品なのだ。