単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

特に何もなかったけど「質」について俺がキレてるの気に入っているので残しておく

 追記。画像を消して下書きから公開に戻しました。明日カノ最高!!一番好きなカノジョです!!

 

 お知らせ。『明日、私は誰かのカノジョ』の感想を全て非公開にした。

 作者のTwitterを覗いてみたらプロフィール欄に「作品のスクリーンショット及び、画像の無断転載、使用は許可しておりません」と書いてあった。

 画像の引用(使用ではなく)については、俺は著作権法32条に書かれている特定のルールに従っていると自己判断している。俺のブログではやたらと文章量が多いので、引用ルールの重要な部分の量的な主従関係はまず問題ない。質的な主従関係はよく分からない。関係者に「質がない」と注意されたらしばらく立ち直れなくなると思う。というか、質って何だ? コンビニにたまに置いていある「〇〇完全解説本」って質があるという例なのか? ブログだとアクセス数で決まるの? 実際に裁判で「質的な主従関係がない」って判断された前例があるのか気になった。

 まあ話を戻して、だから質は分からない以上どうしようもないから、あくまで量での主従関係はルールに則ることは意識していた。

 ただ作者がプロフィール欄に「やめろ」と明記しているのを目にして、俺は引用のつもりだけどやっぱやめておくかーとなった。引用のルールに則っているつもりだが、俺から見ても質はまあなさそうだしなあ……。質ってなんだろうなあ……。分からない。何も分からない。

 なので『明日、私は誰かのカノジョ』の感想記事は下書きに戻した。二章と三章と四章の感想もこつこつと書いていたが封印する。これは俺の独自判断であり、作者の警告はあくまで無断転載を問題にしているし、Twitterというプラットフォーム上の話かもしれないし、そもそも引用の範疇なら何の問題もないとは分かっている。でもって思った。ちなみに「無断引用」はない。

 いや、なんか「質的な主従関係」って言葉を目にして俺はダメになった。お前のブログに「質」はあるかと聞かれたら、俺は何も答えられないもん。前向きに善処していますとしか言いようがない。

 質とか考えたら急にしょうもねえと思った。ねえよ、そんなもん。どうやったら質が出るか教えてくれよ。質がある感想なんてものは俺をどんだけ振ったところで出てこないって。どうやって質を判断するんだよマジで。質は存在価値のことって書いてあるの読んで、だったらそんなのあるわけがない。無理。どうしたって無理でしょ。質ってさあ、あらためて向き合うと本当に恐ろしい言葉だよね。質がないブログ。質がない生活。質がない人生。

 引用ルールに関しては、作者が明記せずとも守るべきではあるのだが、そもそも「質」という概念が導入されているせいで、人間がこのルールを事前に守ることは原理的にできない。原理的に、人間には閉ざされている。「質」は曖昧な概念のせいで、個人の裁量よるとしかいいようがない。なぜなら裁判になったときに初めて「質」があるかないかを人間が審査して、そこでの結果によって遡及されることで、事後的に「質があったか、質がなかったか」が判断される。だから事前には、著作権法32条に書かれているような「質」は存在してはいない。事後的に遡及されて決定される価値判断に過ぎない。そして、その決定の判断過程において恣意的な要素が多すぎるから、もうどうしようもねえだろそんなん。大体の感じでしかない。大体の感じでやってる。まあ大体なので問題になることはめったにないんだけど。

 だからって引用ルールが文量だけでいいなら、「ああああ×9999」って書いておけばOKになるので、質という概念を導入する必要性はよく理解している。もうそこらへんは運用や現場でどうにかつじつま合わせするしかないのだろう。そしてそれなりに機能しているのだろう。おそらく。知らないが。

 人間、だいたい恣意的で、便宜的で、実務的にやっていることを「ちゃんとやっている」みたいな顔してやっているのほんとくだらねえなと思う。そこから先は人間には閉ざされているのに。でもちゃんとやっている風にしないともっと酷いことになる。そっちのほうがしんどくなるからちゃんとやっている風を装う俺もみなも。

 という感じで、引用は少なくともブログでは大勢が大体の感じでやっているんだけど、明日カノの作者が明記しているからには引用のルールに厳密に従って、「質がない」俺はやめておこうと思った次第。他の作品は大体の感じでやるのは変わりないけど、明日カノは質を問われたらたまったものではないのでそういう感じで。

 『明日、私は誰かのカノジョ』は面白いので皆さん読みましょう!

 

 追記。画像は引用しないが文章は引用して感想を書いている。だったらこの記事は何なのかというと何なのだろう。小阪井敏晶の本の影響をだいぶ受けて書かれた記事であるとはいえる。ただ、質の主従関係なんてのはどんだけ判例を積み重ねたところで統一的見解はありえないだろうと思う。時と場合によっては殺人か殺人未遂になるかは医者の腕が影響するように、質の査定には人の嗜好や価値感、時代的背景によっても大きく異なるだろう。俺は質バトルは一生したくない。