単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

今日も生きてたはずなのに 麓健一「バリケード」


 麓健一バリケード




 静謐なアコースティックギターと、掠れた優しい歌声のみの構成。何度もリフレインされる「今日も生きてたはずなのにそれを感じることがない」という詩が印象的で、途方もないほどの空虚感がありありと写しだされているようで。シンプルであるけれどそこに込められている情感は重々しく、それでいて美しいです。

 
 有無を言わさない、心の奥底から絞り出したような切ない声の響きだけで胸を掴まれました。そもそもに歌われている「空しさ」は、ふと心に立ち上がってすぐ消えるような繊細なもので、でも実存を揺るがすほどに絶大なものでもあって、ひとことでいえば曖昧な感情かと。

 それを丁寧に掬い上げているので、ほんとに生々しい。多重録音による揺らぎがそれを強めているようです。淡々と紡いでく様がまた心にくるものがあって、「今日も生きてたはずなのにそれを感じることがない」という詩が痛いくらいに沁みますね。心ここにあらず、という情感がきりきりと伝わってくる。



 初めて聞いたときはそれはもう衝撃でした。で、二度目の衝撃がありまして、それはタイトルになっている「バリケード」について有名な詞を知ったときです。以下がその詩。
 

生きてる 生きてる 生きている
バリケードという腹の中で 生きている
つい昨日まで 悪魔に支配され 栄養を奪われていたが
今日飲んだ『解放』というアンプルで
今はもう 完全に生き変った
そして今 バリケードの腹の中で 生きている
生きてる 生きてる 生きている
今や青春の中に生きている 
(『叛逆のバリケード・日大闘争の記録』三一書房、1969年)

 
 明らかに「バリケード」は詞のカウンターとなっていますね。
 生の実感に漲っていて、生の喜びに打ち振るえる。生きていることを疑うことなく感じている。「バリケード」の対極にあるような詞。
 
 
 高らかに「生きている」と宣言できる様は羨ましくもあるものの、そんな日々を自分から選択することは重々承知なので特にこだわることもなく。むしろ、わたしはバリケードの向こう側から傍観者として皮肉を交わす立場を選ぶので、それと引きかえに生の実感を失ったとしても仕方ない話。


 「今日も生きてたはずなのにそれを感じることがない」 それが悲しいとか切ないとかじゃなくて、ただひたすらにそう感じてしまう自分がいる。だからこそ救いがなくどうしようもない。ただ嘆くだけ。そういった内省的な曲だと感じました。



 この「バリケード」が上記の詩から導かれた曲として考えると強烈ですよね。バリケードの中での「生きてる 生きてる 生きている」という実感、バリケードの外での「今日も生きてたはずなのにそれを感じることがない」という実感。どちらもその時代を象徴するような気がして、内省的にとどまらない切実さもまたあるようです。個人の問題に還元するにはあまりにも切迫感がありますからね。けっこう多くのかたに突き刺さんじゃないかなーと思いました。

 未だにバリケードを聞いているとぞわぞわしてきます。