単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

「意地からの乗り」でNot for meが愛聴盤になる瞬間

サブスクリプションのおかげで、作品から作品への乗り換えが容易になり、高速化し、「せっかく金払ったからもう一回聴いてみよう」の再評価する機会が少なくなってしまったなあ。 

といったことを、BOOK☆WALKERの「読み放題サービス」にあった、町田康の「人生パンク道場」のあるエピソードを読んでいて考えていた。

それは、町田康が、いまと比べると極端に情報量が少なく判断材料が少ない状況でLPレコードを買い、それが運悪く自分には合わないと感じたものの、せっかく金を出したしもう一回聴いてみようの繰りかえしのなかで、いつの間にか愛聴盤になっていたというエピソード。 

 

 私は未練がましく、その盤を何度もターンテーブルに載せ、「もしかしたら気のせいかもしれない」「こっちの体調が悪かっただけかも知れない」なとと考えながら聴きました。

 けれども駄目なものは何度聴いても駄目です。それでもお金が惜しい私は、これを諦めきれず、その後も何度も試しました。したところ。

 あるときから、「お? 意外にいい部分もあるのではないか」と思うようになりました。そう思って聴いているうちに、それまで気がつかずにいたよい部分がどんどん見つかって、悪いところが気にならなくなっていきました。そして、半年後にはそのLPレコードは私にとってかけがえのない愛聴盤となっていました。

 このことを友人に話すと、「それは、意地からの乗り、ではないか」と言われました。友人は、ロックコンサートなどで折角来たのだから乗らなければ損、と考えてたいして乗ってもいないのに無理やりにリズムに乗って踊るなどしている観客になぞらえて、意地からの乗り、と言ったのです。

 けれどもそんなことはなく、私はその時点で嘘偽りなく、心の底からよいと思って聴いていたのです。けれども、たしかに当初は払ったお金が惜しくて聴いていたので、そんな部分がまったくないともいえず、そこで私はこの現象を、「意地からの乗り」と、名付けたのです。

 町田康「パンク道場」

このエピソードを読んだとき、ああ、俺も似たような経験があるなあとおもった。 

特に音楽に限定すればよくある出来事だ。本や映画に関しては自分に合わないとおもったらもう一度手に取ることはめったにないが、音楽ならばそう時間も取られないからってもう一回くらい聞いてみるかを繰りかえしていたら、いつの間にか好きになっていた経験がある。もしくは、あの人が良いって言ってるんだからいまの俺には分からないけど、きっと良さがどこかにあるはずだからで聴いているうちに、「……いやいや、これすばらしいのでは」とおもった経験。 

ちなみに町田康のエピソードは、「趣味が欲しい」という悩み相談の返事として、「どんな趣味でもずっとやってればそれなり好きになれるから、とりあえず気になったことをつづけてみて考えるといい」といった文脈で語られている。 

 

俺の場合だと、具体的にはSystem Of a Downの『Toxicity』がそれに当たる。中学一年生のときに洋楽を聴いてみようで評価が高った『Toxicity』を購入したのはいいものの、それまでJ-POPしか聞いていなかったからまったく良さが分からなかった。リズムが強くメロディーが弱くて全然よくないって思ったけど、何度か聴いていて一年後くらいには、最高のアルバムじゃないかと手のひらを返してしていた。すっげえゆっくりな変化だったけど、かつてはNor for meの棚にあったのに気づけば愛聴盤の棚に堂々と収められている。


System of a Down - Toxicity (Official Music Video HD)

 

というように、俺にも似たような経験があるので、どのような理由だとしても何度も聴きなおしたら好きになっていたことを「どちらかといえば」肯定的に捉えている。

が、しかし、これはその聴きなおすことに費やした時間で、別の自分に合った作品に出合えたかもしれない可能性のうえに成りたっているから、「どちらかといえば」という弱い肯定になってしまう。それに何度も聴きなおしたうえで「結局、気に入らない」とサンクコストになってしまうことだって多かったし。だからこそなんだけど、そうではなかったときの体験が価値あるものにおもえる。 

 

なんというか、このエピソードを通して「博愛は、人間が有限の存在である以上、不成立になる」という話を思いだした。もし時間が無限にあるならば、駄作と思ってもずっと聴きなおしていれば再評価できる機会が増えるから、そのうちどこかで愛聴盤になることだってめずらしくなくなるだろう。

だが、それは成り立たない。時間は無限にない。俺はそんなに辛抱強くない。町田康がいう「こっちの体調が悪かったから」あんまり良くないと評価してしまうことだってあるだろう。もしくは「気にくわないサイトがプッシュしていたことを知ってしまったから」もう聴きなおすことがないことも。そして、そのまま聴きなおすことがなくて一生を終える……ってケースのほうが多そうだが。

 

畢竟、人間は有限の存在で、サブスクリプションの存在のおかげで目の前には無限の出会いが広がっているように錯覚してしまうが、その実、手に取れる作品はその一部でありそのうえで評価しなおす機会はさらにごく一部ときているから、こんな状況で「意地からの乗り」で好きになった作品ってのはほんと貴重なんだなとおもった。

これを敷衍させて、人生も「意地からの乗り」で再評価しなおす機会があるかもしれない、という話に持っていきたかったが、そうやって、すぐに死に結びつけるのはよくないのでやめとく。これは音楽の話。

いまでは、なにが「意地からの乗り」で好きになり返した作品かは覚えてないけど、きっと忘れているだけでそういう作品はたくさんあるはずで、その経験はありがたい。その時間で、べつのすばらしい出会いがあったかもしれなくても、そんなの有限性の前ではどうにもならない話だし、なんといっても「not for me」が「for me」に変わる経験ってのはなんど味ってもいいものだから、最近はずっと新しい曲ばっか聴いていたけどたまには合わないと棚に締まったアルバムでも聴きなおしてみるか、という気持ちになった。

まだ感受性を外に開きつづけていたい。ただでさえNot for meだらけの生活をやっているのだから、「Not for meではなくなった」と思える瞬間があるのは本当にありがたいことだから。