単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

「恐怖で足をがくがく震わせたってダンスにならないぜ」と舞城王太郎が書いていた

恐怖が足ががくがく震えている様と、不器用な人間が音に乗ってガクガク踊っている様を、区別するのは一体何だろうか。強烈なプレッシャーと対峙して振動している人間が、武者震いをしているのか、恐怖で怯えているのか、もしくはどちらでもあるのか、どちらの情勢が優勢なのか。どうやったらそれが分かる?

言い換えれば、人間が恐怖と対峙したときに、交感系神経の活動が亢進化した際の戦うか逃げるか反応のなかで、闘争と逃走の線引きをどこでするかという話でもある。

ありきたりの答えになるが、その判断は難しい。のちに振りかえってみたとき、もしあのときの震えをどう認識するか考えたとき、踊らされているよりかは、踊っているほうがいいような気がする。というか、踊らせたというよりかは、踊っていたと言いたい。それはおそらく、生まれてしまったことに自分の意志が介在していないことへの抗議として。

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舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」の一節を引用する。

 「……やだなあと思ったとき…それはつまり「怖い」と思ったことなのだが、うっかり恐怖に囚われ浮き足立ってしまった。落ち着けディスコ。恐怖で足をがくがく震わせたってダンスにはならないぜ。踊るならステップを踏め。リズムをとれ。音楽を聴け。……つまり周りを見ろ。よく見ろ。正面の男の様子をよく見ろ。」

ライブハウスは祝祭の空間には違いないけれども、俺はパニック障害を抱えていて、人混みが多く空気が薄いライブハウスではたまにパニック発作を生じることがある。パニック発作は深刻なときは、歯ががちがち震えて言葉が形にならずに、漫画的表現の「恐怖」に陥ることすらなる。

そのときの、俺の恐怖で生みだしたリズムが、ステージ上で鳴っている音楽とリンクすれば、もしかすれば傍からみたら音に乗っているように見えるかもしれない。ちょっと不器用な踊りかただけど、それもひとつの踊りと呼びたい。

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THE BACK HORNに「暗闇でダンスを」という曲がある。映画「ダンサーインザダーク」がタイトルの元。この曲は一言でいえば、「いやいや俺はまだ終わっちゃいないし死んじゃいないし暗闇のなかでもダンスを踊れ」というメッセージがあり、彼らがかねてから伝えつづけている「それでも」「生きよう」の変奏。この曲では、「それでも」が「暗闇」であり、「生きよう」が「ダンスを」となっている。これらは容易くできることではないからこそ歌いつづけられている。
 
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JOY DIVISIONイアン・カーティスは、ステージ上で痙攣したかのようなダンスパフォーマンスが有名で、そのダンスは彼の持つてんかんの前駆症状と酷似していると言われています。

 


「地球の裏までトンネルを掘る」という小説の掌編で、あるナードがJOY DIVISIONについてこう言及している。

 ジョイディビジョンの曲は、歌詞自体は気が滅入るような内容だけど、勢いよく弾むようなベースラインにことばが掻き消されて、滅亡とダンスの奇妙な融合体と化している

 

 

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しかし、いかんせん、怯えつづけている自分を肯定的に捉えなおすために、異なる解釈を試みようとしたところで、比喩は比喩であり、ガクガク震えているときに踊っているわけではない。

物語を摂取しつづけている後遺症なのだろう。苦い過去の出来事をつい読み替えられるような錯覚を持ってしまう。去年の冬、俺は、不安と恐怖で組み立てられていたステージで、不器用な痙攣ダンスを踊っていた……わけではなく、ただただ恐怖で震えていただけであり、そこには物語はない。ひとつの症状があっただけ。
 
物語と思考は同じ言語が使われているせいで、とんだ思い違いをしてしまうことがある。しかし、それが錯覚と理解していても、その上でその錯覚に浸っているのは心地よいもの。だからこういうことを思ってしまうし、錯覚を事実にすり替えたいためにこういう記事を書いてしまう。無謀な試み、素面になって恥じるだけの一時。

ディスコ探偵水曜日」の評論に素晴らしい言葉がある。またしても引用。

物語の途方もない展開に翻弄されっぱなしの読者は、いわば作者に踊らされているような感じを味わうが、勢いが加速してページを繰っていくにつれて、次第に自分も踊りだす。すなわち、痛みに満ちたこの世界のどこかに、広い別の世界を見つけ出そうと、壁に頭をぶつけるようにして奮闘するディスコに、頑張れと一緒になって声援を送りたい気持ちになるのだ。その意味で、ディスコと読者の意志の力が束になり、小説の結末を作っていく。それがあらかじめ定められていた予定調和だとはけっして思わない。すべてをぶちまけたような、破れかぶれの踊り狂いから生まれた、ひとつの奇跡だとしか思えない。
イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

そこには奇跡があり、ここには奇跡がない。
物語を読むことを「人生が一回限りであることへの抗議」と表現した人がいる。この言葉を、踊りに読みかえるならば、物語を読むことは「踊らされたことを踊っていると誤読するために」「そこに意志が介在したと間違えるためのもの」と言えるかもしれない。

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ディスコ探偵水曜日」の未来の『『俺』』はこう言う。

 「よう、これが合図だ。動きだせ。踊りだせよディスコテック。急いでな。恐怖に立ちすくむ贅沢なんて、お前にはもう許されていないんだ」

それが可能な試みかどうかは、つねに俺は俺に問われている。どうしたって怖いんだから、もういっそ踊ってしまえばいいのさ。生まれてしまって、踊らされてしまっても、踊ったって嘘つけばいいのさ。自分だってどうだか分からないのだから、きっと誰にもどっちなんて分かりはしないさ。

  


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