単行のカナリア

感じて想する

Syrup16g全曲レビューおしまい

 『水色の風』のレビューを書き始めてから、もう5年ほど経つ。書いては消し、書き足し、そうしてパッチワーク化した文章は時間が経ってから読みかえすと酷い有り様になっていて、すべて消しまたはじめから書き始める。それで、かれこれ5年くらい経ってまだ書けてない。ついに諦めてしまった。

  『水色の風』はビッグネームの藤原基央がコーラスで参加していることで知名度が高い曲だ。それもあってか、何度も繰りかえし聴いているが、どのような曲なのかいまだに消化できていない、どのような言葉を持ち出しても曲に対応しない。違和感だけが残る。だから、この曲を聞いたときの「かんじ」を翻訳するしかない、何とかして。それもうまくいかない。だったら思い出やエピソードを添えてみれば、この際、お得意の自分語りでもいいのでは。といろいろ試してみたが、どれもしっくりこず、じゃあ他の人は一体どのような言葉にしているのだろうと思って調べたら、サブスク解禁時に公式サイトが募集していたレビュー企画が出てきて、その最新のレビューがよかった。

http://syrup16g.jp/review/item/49/comment-page-1/


 「誤送信、、、もういいや寝よ」の潔さよ。

 倣って俺もSyrup16g全曲レビューはおしまい。この記事の公開後にタイトルから全曲の看板を外していく。下書きにあった『サイケデリック症候群』のレビューがコンタックSTをODしたときの体験談、同じように『Everything is wonderful』がブロンをODしたときの体験談を語っており、これは駄目、、、もういいや辞めよと思った。全曲か、全曲ではないかの二択だったら全曲は無理だろう。と。

 「悟ってそう」なことを書くために、義務教育を終えてからは文章を書く機会がほとんどないような、学歴も教養もまるでない人間が、覚えたての用語を駆使して、苦し紛れの自分語りで水増しして、思いや感じを書くために四苦八苦していた。そのような記録ともいえる。約十年以上の期間書いていたから、そのときの影響によって文体や一人称の変化が読み取れる。自分で読みかえす分にはおもしろい。人が読んでどう思うのかについて考えるのは怖い。あまり考えないようにしている。本当に好きなバンドだから、適当なことを書くな!と怒鳴られたら落ち込む。数日たてば開き直って解釈バトルとか曲名から歌詞当てクイズとかで俺が適当な書いたかどうか決着つけよう!と開き直る。

 Syrup16gは人気のバンドで、二千二十二年になってもいろんな人の手によってすばらしいレビューが書かれている。十年前くらいから盛んだったそのすばらしい営為に自分も加わりたいとの思いを抱いて「全曲レビュー」というタイトルで始めたのだった。

 こんな記事もあった。

dnimmind.hatenablog.com

 この記事で紹介されているtwitterアカウントは存在していないし、同じくこの記事で公言したことは成し遂げられなかった。文章は「Syrup16gの全曲レビューはできそう?」で締められているが、それはまだ。というかもう。   

 以下、挫折したもののをどうにか書き上げて公開。そうしない理由もないので。『水色の風』と『Everything is wonderful』は最近書いたが、それ以外はいつ書いたのか、俺が書いたのかすらも定かではない。 

 

水色の風

 風は空気の流れであり、空気が無色透明である以上、光を反射することがなく目で見ることができない。ただ、その空気に塵や埃、また霧状の雨が含まれているときに限り、空気に輪郭が与えられて、空気が「ある」ように見える。間接的に、空気の流れがかろうじて見える。

 『水色の風』を形容詞一つのみで表現するならば、儚さ、だと思う。

 歌の末尾はほぼ「e」で統一されており、これによって、声が柔らかく散っていくような印象を与える。浮遊感あるリフが間断なく流れつづけているが、相対的にボリュームの差によって、リフが前面や背景に行ったり来たりする。ディレイ処理を施されたリズム、主旋律と同期したり遅れて追従したりする藤原基央のコーラス、アコースティックギターの静謐な調べ。これらの要素も、また、儚さのイメージ形成に貢献している。

 儚さはまた、名残惜しさ、尾を引くセンチメンタルといったイメージにも繋がる気がする。後の話なのだろう。決定的な出来事が起こった後の余韻を感じさせる。ゆっくりとどうでもよくなっていく、少しずつどうでもよくなってしまっている、その過程でまだかろうじて残っているなにかの響き。

 
 儚い音像の影響もあり、歌詞は意味の像が結びにくいときている。始まりから「頭は霧の雨」と心象風景を持ちだされる。すると、たびたび登場する「あの娘」は、今現在生きている個人を指すというより、記憶の中で生きている誰かという風に捉えてしまう。ふんわりとしてて、幻想的。しかし「体を切り刻め」とそのまま受けとると物騒な言葉も出てくる。「君がいて宇宙の中へ」となり、スケールすら定まらない。

 つまりよくわからない。ふんわりしている。おぼろげなイメージが浮かび、消える。なるほど、「水色の風」はタイトルをサウンドと歌詞でそのまま表現したような曲だな、とそう理解しようとしたら、今度はそうさせてはくれないフレーズが割りこんでくる。

それがここに今 届いたらしたら 何を言えばいい? 

 曲全体は反復する要素が構成されているなかで、突如、重厚なコーラスとともに異物のような言葉が表れてくる。頭の中で記憶がゆらゆらと浮かんでは消える様を味わっていたら、「今、ここ」という言葉で現在に引き戻される。このフレーズはどのような意味なのだろうか。しいて分かるのは、今届いたということは、それ以前に送られたということ。そして、今手にしたところで、どうすればいいと持て余していそうということ。それくらい。それくらいなのだが、曲全体の流れに置かれると、なぜか「手遅れ」や「後悔」という言葉が思い浮かぶ。

 「何を言えばいい?」の何の候補のなかには、「ありがとう」はなさそうだ。「申し訳ない」はありそうであるが、違うような気もする。

 そもそも「届く」という言葉が厄介極まりない。「届く」は様々な意味がある。例えば、目にした情報が脳の特定に部位に届く、という使い方もある。そう解釈しだすと、それは諸器官の情報処理速度のズレというような話で、現代思想の本でたまに見かけていまだに意味がわかっていない「郵便的」の概念にまで広がってしまう。収拾がつかない。お手上げ。


 分からない。定まらない。どこまでも儚げだ。それは風が夾雑物によってかろうじて見えるように、特定の状況時のみに生じる現象のように。そういうイメージ。「それがここに今 届いたらしたら 何を言えばいい?」の言葉の動きで、かろうじて後悔とか手遅れとかいう気持ちが見えるような気もするが、それもよくわからない。

 『水色の風』とは、霧のように散らばった過去が突然に現在に届いたことにより心が動き、その様子を、霧を含んだ空気が『水色の風』と見えることにイメージを重ね合わせたものである、と書いてもしっくりこない。

 よくわからないから、ただそのように感じた、としか書けない。それを書くことでさえだいぶ時間がかかった。よくわからん。ほんとうによくわからない。Syrup16gの曲はよく分からないのに感情を揺さぶってくる。ただ儚く、儚いものは大抵がそういわれるように、美しい。『水色の風』はそのような曲かもしれない。それ以上、何を言えばいいかわからない。

 

Everything is wonderful

 『Everything is wonderful』とは、一体どうしたのだろう。ない。一度もそのような経験をしたことがない。このような言い分なら分かる。「Everything is wonderful」と括弧付きで判断を留保している、「イマジン」のように既存の作品に対するオマージュが意図されてる。そういう条件付きの言葉ならば分かるのだが。

 そうでないならば、錯覚ではないのだろうか。たとえば、平成二十六年に薬事法改正によってお一人様お一つまでの販売ルールが設けられた甘ったるい咳止め市販薬を大量摂取したときの多幸感時のような錯覚。その手の脳内神経物質を強引に笑顔にさせた時のみに期間限定で感じることができる錯覚ではないのか。それなら分かる

 それにしても、Everythingがwonderfulだ。全てが素晴らしいと驚嘆している。そのタイトルの言葉の強さに驚く。あらためてEverything is wonderfulと向きあって、いまそれは一体どういうことなのかと混乱しながら書いている。

 

 曲調は、ディレイがかけられた幻想的なギターサウンドと柔らかく歪んでいるピアノ音、それとポコポコとうごめくドリーミーな電子音から成りたつ曲だ。耽美であり、また奇怪でもある。二番目のメロでピアノ音が不協和音化していくし、サビでの歌声以外の音が消滅する唐突な展開、また終盤のギターソロ前の雄たけびのような不気味なサウンドなど、イージーリスニングのように聞き流せはしない。  

 そもそもが「Everything is wonderful」だ。正気ではなさそうだ。トリップしている。もしく気は狂っている。それならば、違和感のあるアレンジが施されている箇所は、むしろ正気に戻っていることの演出なのではないか、とすら思ってしまう。すると、「月より遠いトコを/旅しているんだよ/暫くしたらまた帰る」は狂気のトリップから日常への回帰を意味しているのか。どうなのか。よく分からない。

 

 確かに「世界は廻っている」が、自身もまたその回転運動と連動している以上、日常生活でそのような感覚は生じにくい。それが実感として表れるときは、回転性めまいと呼ばれる症状に近い。あと「お日様は笑って」いない。ただの模様に顔を見出してしまうような精神状態人はトリップと呼ばれるものだ。このように特殊な精神状態時の心象風景という枠組みで捉えてしまうと、もうそうしか思えなくなってくる。「Everything is wonderful」の違和感のあまり、そういう聞き方をしてしまう。

 そうなってしまう。

 現実ではお目にかからない幻想の美しさに胸を衝かれたり、ときおり顔を出す不気味さにドキッとさせられたり。よく分からないけど電子音が空間をぐるぐると徘徊していてそれとグッドメロディーが調和していてピアノはちょっと不気味だけど道を外れながらも優しく音を先導してくれている。なんかいい感じ。Everything is wonderful。まったくこの世界は驚きと素晴らしさに溢れている。そうか? いや、そうだ。一体「左上げて 横断歩道を 渡っているのだあれ」なんだろう。というか、奇妙な黄色い糸ってなんだ。運命の赤い糸の別種か。熟練のシンナー中毒者が目にすることができる光のあれか。もしくは縦の糸はあなたで横の糸はわたしで織りなす布から、ほつれてしまった糸的なものなのか。信号の青と赤に比べると無視されやすい黄色。弱々しい存在感、基本的には停止の表現。すべての歩行者見てみぬふりして早足になるくらいのリアル。また、黄色の帽子を被った一年生が左手を上げて横断歩道を渡っているように、あの頃の記憶という糸なのか。もしくは首でうまい具合に結ぶとあちら側に連れてってくれるという日焼けして黄色みがかったロープのことか。じっさいに部屋に黄色い糸(金髪を見間違えたでも可)があり、それを手繰り寄せたら涙が出たという実体験か。素晴らしいと歌われているのに、聞いているとなぜか無性に悲しくなってくる、この曲そのものか。もしくは、いい感じの曲が作れたら、それに合いそうなタイトルを付けて、それとまた別の論理で歌詞を書いただけかもしれない。
 

 「奇妙な黄色い糸たどりよせてるとたまならく涙出る」と初っ端から不思議なイメージを残して、シュールさが加味されたメランコリックなサウンドで、「Everything is wonderful」と滔々と歌い上げる。よく分からないままに引き込まれる。

 作者はそんなこと考えてないよ、じゃなくて、俺がそのように受け取っているという話で、「Everything is wonderful」は飲みこむには大きすぎるから、なんかそれっぽいタイトル付けとけってノリでそうなったと考えるのが、いちばんしっくりくる。不気味さがあるのが悪戯心かサービス精神かわからないが、名曲。

 

センチメンタル(ほぼ自分語り)

 五十嵐隆の卓越したソングライティング能力が十全に発揮された名曲。「センチメンタル」はライブテイクで弾き語られることが多く、それも骨格からすでに至極のメロディーラインになっています。そこに浮遊感のあるサウンドを加えて、アレンジメントでさらにセンチメンタルさを後押し。タイトルから直球、なおかつその狙い通りに仕上がっているのがさすがというべきか

 本題、センチメンタルにのっとってポエムを書きます。

 思えば、学生時代はセンチメンタルの塊みたいな存在だった。マンガを読んでは音楽を聞いては、胸を詰まらせて浸っていた。外に出ては現実のリアルさの前に打ちひしがれて、部屋にもどっては感傷的になって自分憐憫に浸っていた。

 それこそ「高校生になったら部屋で毎日ギター弾いてた」時期だってあった。アコースティックギターでよくコピーしていたのはSyrup16g。そこで初めてカポタストの存在を知った。下手ながらもそれなりに繰りかえして弾いて気づいたことが「ああ、メロディーだけでもこんなに美しいのか」と。自分のおさがりの古いアコースティックギターからでもSyrup16gのメロディーを奏でられる、あの美して儚いメロディーを聞くことができる。それがとてもうれしかった。

 正直、恋の領域でセンチメンタルになったことがない。恋愛映画、恋愛アニメを見ることはあっても、人間関係の一種として受けとっている。共感しているわけではなく、推測をもって登場人物の気持ちを理解しようと試みている。Syrup16gは君が出てくる曲が多く、中でははっきりと「恋」が出てくる曲もある。

 「センチメンタル」もそう。

 恋について歌われても共感はできない。共感の脳神経細胞はまともに機能していない。理解の助けになる体験もない。しかし伝わってくるものがある。「センチメンタル」で、恋が破綻して苦しみのなかでつい涙を流してしまう様がイメージできる。自分の世界に入りがちで、孤立気味の人生で、音楽が好きで、哲学書や心理学の本を読んで理論武装している少年。その少年が失恋で負ったダメージを耐えよう耐えようとするけど、つい堰を切ったかのように涙が零れつづける。そんなイメージが。

 私は、私が好きなようにしか曲を聞かない悪い癖がある。私が「センチメンタル」を聞くとき、先ほどのイメージが浮かぶがそれを捨て、世界からはみ出してしまった孤独の痛みを歌った曲として聞いている。「恋」と明言されているけれど、よく分からないからなかったことにしてしまう。

 すると「センチメンタル」は人間関係が千切れていくときの物悲しさ、そしてそんな状況に陥った自分に対する自己憐憫のテーマに変わる。なるほど、それなら私の人生でもよくあることだ。というかそんな人間関係ばっかりだ。

白けた顔して進め
今しかないとか言って
妄想 もうよそう

 センチメンタルはその後に興ざめになるまでがセットなのは外せない。どれだけ感傷に浸ったところでいつかは白けてしまう。そもそもセンチメンタルの持続時間は長くないし、冷めやすい。まあその分だけ感情の質量は大きいわけだけど、すぐ消える。「センチメンタル」がすばらしい曲なのは、その白けたシーンまでセットになっているところだろう。そこで出るフレーズが「妄想 もうよそう」と、言葉遊びにしてはちょっと核心をつきすぎている。Syrup16gは欺瞞を暴くことに定評があり、感傷的な気分でさえも暴いてしまう。甘ったるいバンド名なのに全然甘くない。メロディー以外は。

  感傷的になってしまうこと、感傷的になってしまう自分を客観視して冷めてしまうこと、大きく括ってしまえばその営為自体が、いってしまえばセンチメンタル。

 

サイケデリック後遺症

「Everything is wonderful」はサイケデリック実況中継中みたいな曲でしたが、「サイケデリック後遺症」はその後の日常に回帰しつつサイケデリック体験後の感覚を残した曲。

 ……ってわけではなくて、美しい光景を目にした体験、その体験がまるで信じることが難しく幻覚のように思えたことを「サイケデリック後遺症」と表現していると解釈しています。

 「Everything is wonderful」とある意味で真逆に位置する曲で、すべてが美しいわけではないこの世界だからこそ、たまに訪れた特別な瞬間を祝福するのが「サイケデリック後遺症」じゃないかなと。

 特別な瞬間ってのは、土曜日の昼下がりにやってきた天使だったり、綺麗なメロディのように咲き誇る花だったり、子供心に虹を見つけて飾ったと声を大きくする瞬間だったり。そういった日常の風景をあえてサイケデリックな比喩で描写していると認識しています。

 そういった視点で聞いてみると、美しいものを素直に美しいものと認識することができず、まるで幻覚と扱ってサイケデリック後遺症を名付けてしまう、その自分の感性に対する不信感というのでしょうか、その感性は切ないものに違いありません。


 で、さらに解釈の話で、「サイケデリック後遺症」は視点誘導が巧みなんですよ。 
 「舞い降りた天使」、「転がった星」と空にあるものが地に降りてきて、「地上に咲く花」と視点を一度地面に戻します。そこから「あの日飾った特別な虹」をまた一気に空へ目を向けます。

 それもあってかラストの、

手を上げて 届こうとして
さあ出来たでしょう それだけで

 のシーンがより色濃く浮かび上がってくる、空に架かった虹に手を伸ばす様がありありと目に浮かびます。視点をズラした仕掛けがあります。

 とまあ歌詞に注目してレビューしましたが、サウンドの魅力もいうもがな。ベースのメロディーラインは美しいの一言。

 

土曜日についてではなく「タタール人の砂漠」のあらすじが載っている

 「土曜日」の歌詞、五十嵐隆が意図したのかは不明ですが、「タタール人の砂漠」という小説と驚くほど似ています。タタール人を「土曜日」と換言すれば、似ているレベルではなくてほぼ同じです。

 なので、この記事はいつもと趣向を変えて「土曜日」を「タタール人の砂漠」になぞらえます。もはやレビューではなく感想でもありません。
 

土曜日なんて来る訳がない
ただ迷っているばかり
風と砂漠の城

 ジョヴァンニ・ドローゴ中尉は、風と砂漠に囲まれた城砦に配属される。そこでタタール人の襲来を待ち構える任務に着任。が、そもそもがその城砦は無用の長物であり、一向にタタール人は来襲する気配はない。そのことに安堵しつつこの任務をいつまで継続するか懊悩しつづける。

またうつろに彷徨って
暮れる

 ジョヴァンニ・ドローゴ中尉が余暇に帰郷したたとき、地元の友人たちは結婚し子供を育て地位を築きあげているなかで、自分はただ城砦で無為に待ちつづけることを痛感する。

土曜日なんて来るわけない
ただ望んでいるばかり

 
 タタール人の襲来は一向に訪れない。ジョヴァンニ・ドローゴ中尉はいつからかタタール人がやってくることを期待するようになるが、心の中ではその期待が叶わないかもしれないと理解している。

風と火薬の色
また不器用に逆らって
負ける

 警護兵としてただ待ちつづける無為な日々、風が強く吹く砦から見えるのは火薬のような色をした砂漠。ときには城砦から去ろうと思いたつが、ほんのわずかな期待に心を引き留められてしまって、結局は留まることを選択する。

かわるがわる
途切れる汗
吹き飛ばされる昨日


 警護兵として交代で任務に就く。何度も繰りかえした警護任務はもはや形骸化し、ただ汗を流すだけの儀式めいたもの化する。その変わりようがない繰り返しの日々では、一日があっとういう間に過ぎ去っていく。時の残酷な流れのなかで一日が吹き飛ばされる。何日も、そして何年もが一瞬で。

他の誰にも代われない
君と僕の顔が


 警護兵の役割は代替可能であるが、本人の人生は代替不可能である。たとえ代り映えがない日々でも、代わることはできない人生である。ジョヴァンニ・ドローゴ中尉の着任当時はまだ若く張りがあった顔だったが、今では時が刻まれた皺が浮かぶ顔になっている。

土曜日なんて来る訳ない

 そしてタタール人を待ちつづけるうちに人生にタイムアップがやってくる。タタール人は来る訳がない、タタール人が来てほしいと願いつづけて、そして人生が閉じる。


 とまあ、私は「土曜日」を聞くと「タタール人の砂漠」を思いださずにはいられません。
 「タタール人の砂漠」のジョヴァンニ・ドローゴ中尉の人生をどう評価するかは人それぞれです。ただ迷って待ちつづけた日々を空しいと断じる人もいれば、その何もなさだって立派なひとつの人生だろうと受け入れる人もいるでしょう。

 「土曜日」も「タタール人」も、日常と非日常に二分するならば非日常に位置するものであり、ケとハレのハレに値するもの。そういった運命的な出来事が来る訳ないと心のどこかで分かっていながら、それでも望んでしまうことを止めることができずに、期待と諦観の狭間で宙づりになって不安に付きまとわれる。

 ただ「土曜日」は、「土曜日なんて来る訳ない」で幕を閉じます。それは諦観であり、諦観をもってしてアルバムは終わりを告げ、また期待と決別することで前に進むことができるのです。小説ではありえなかった人生、「タタール人は来ない」と自分に言い聞かせ他の道をそっと歩き出す人生が、「土曜日」では描かれています。もしくは自分はそうありたいという祈りかもしれません。

 土曜日なんて来る訳がない。だから土曜日のない人生をやっていこう。諦めることで、また始まることができる、と。

 

virgin suicide

SE。コーラスと絶え間なく打ち鳴らされるクラッシュシンバル、そして断続的なギターグリッチ音。空間的な奥行きがあるサウンドスケープは「coup d’Etat」全編に共通するもので、そこに言葉が乗ってないことによってより空虚さが伝わってきます。SEらしく、時の経過につれてハイハット、ベース、バスドラ、コーラス、クラッシュシンバルと音を一つずつ重ねていくことで、ボルテージが徐々に高まっていく感覚があります。アルバムの音響のすばらしさを堪能できる曲で、クリアかつノイジーな高音域の残響音は独特の魅力があります。曲の終盤では、幕開けを予感させるようにコーラスがかき消されるほどにハイハットの音が強調されてフィードアウトし……幕があがり……

Syrup16gの曲のなかでも一、二を争う鬼気迫るバンドサウンドの「天才」へ。

「virgin suicide」のタイトルは映画『The Virgin Suicides』からの着想でしょうか。きのこ帝国も同じ曲名があります。「virgin suicide」は箸休めではなくむしろ起爆剤としてのインストでしょう。

 


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