単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

飽きたくない

 この数か月で、恒川光太郎の『秋の牢獄』『夜市』『無貌の神』『スタープレイヤー』『ヘブンメイカー』『竜が最後に帰る場所』『雷の季節の終わりに』を読んだ。が、特に感想のようなものは思い浮かばずに、よってブログに書かなかった。面白くなかったわけではない。むしろ、面白かったからこそ次から次へと読んだのだから。

 しかしどうしたって、百冊読んだあとの一冊と、千冊読んだあとの一冊では感想に差があるだろう。とりわけ目新しさという点では。たとえば、三大奇書と呼ばれている『匣の中の失楽』は、先に舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』を読んでなければ、矢継ぎ早に展開される推理合戦とメタ構造に驚き、「こんなの読んだことがない」という興奮をもってして語ることができたのだろう。だが、その後で読んでしまったから、「アイデアこそは今ではそう珍しくないが」と感想に足されてしまう。新鮮さ、目新しさを味わうことが年々難しくなってきている。いま読んでいる本は、かつて読んだことがある本の関係網のなかで位置付けされてしまう。

 このような、既知として処理してしまうジャンルといえば、ループ物だろう。オタクは初めて目にしたループ物を親だと勘違いする、というネタがある。俺にとってそれは『ダレンシャン』だった。最初の巻と最後の巻が繋がった瞬間はそれはもう衝撃だった。人に話したくてうずうずして眠れずに、しかしどのような話か消化しきれずに、誰にも語れずに破裂しそうだった。甥っ子は『拾った謎生物の観察日記』をtwitterで目にしたらしく、「こんなの読んだことがない」と興奮して語っていたが、その様子が久しく自分が味わっていないような気がして眩しいものに感じられた。 

 「年を取ると感受性が衰えてしまう」と言うときの、衰えてしまっているものは、いわば新しさに対する感受性なのかもしれない。もちろん評価軸は新しさだけでない。当然すぎることだけど。本と本の関係網の中で新しい評価軸も生まれていく。教養主義が猛威を振るっていたならば、そのような楽しみ方、語り口こそが王道だったのかもしれない。だからって「それが新しく思えるのならば、それはあなたが詳しくないから」とはしたり顔で言われたくないことに変わりないが。   

 別に悲観すべきようなことではない。小難しい人文学の本は、むしろ新しさに打ちのめされているときは読め切れないことが多い。ただ、やはり、新しさという評価軸が失われつつあることが寂しい。初めてシューゲイザーを聞いたときの「うっさ!」という興奮、初めてエロゲをやったときの「エロいことしてる!」の衝撃感、初めて殺し屋一を読んだときの「気持ち悪っ!」の拒絶感、そういう楽しみ方が難しくなってきた。

 頭が悪いから雑に捉えてそう思ってしまう可能性もある。その可能性は高いが、頭が悪いからとなるとそれこそどうしようもない。この頭でやりくりしていくしかない。 

 飽きたくないな。見るもの聞くもの全てが新しいって顔をしながら語りたい。だって初めてループ物を体験した人の感想聞くのって絶対に楽しいでしょ。楽しかったもん。それ見て、俺もそういう時期があったな、なんて分かった顔をするような立場になりたくない。飽きたくない。