単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

リア充風刺の金字塔 「猿の学生」ハヌマーン


 一人で夜の街を歩いていると、騒々しい若者の集団が前からやってきて、よりにもよって狭い道なのに我がもの顔で群がっているから、こっちが端に避けなければいけない。苦い気分を飲みこんで気持ちを切りかえて飯屋に入ると、そこでもまた若者の集団がいて、まるで騒々しさを競うかのように会話に没頭している。

    
 みたいなことが最近はよくあって。
 こうした場面に出会うたびにもやもやとした気分になります。それは不快というだけではなくて、自分とは相いれない存在が楽しそうにしていることへの思いもあって、一概にコレといえません。

 羨望なのか、軽蔑なのか、どちらもあるのかは分かりませんが、明るいものではないことは確かで。そして、あまり他人と共有できるような感情でもない、と。


 という前置きから、ハヌマーンの「猿の学生」の単曲レビュー。
 おもに歌詞についての解釈を書いてきます。
 



 タイトルにリア充風刺と書いておきながら、リア充の定義はよく分かっていませんので、正確にいうならば、猿のごとくウキャウキャしている学生風刺ってとこでしょうか。



 タイトルが「猿の惑星」をもじっていたり、そもそも「猿」と称するあたりですでに皮肉が込められていて。これは自分とは違うということが強調されていると解釈。なので、皮肉のオチとしてよくある、「じつは俺もそうだけど」ってことはなくて、あくまで外からの冷やかな視線って感じで。この距離感がまず個人的には共感できるものです。

俺の知らない遊びを知ってそうで
嗚呼なんか急に虚しくなる
猿の学生が悪い事をしている
 
 要は、はなっから相容れないってことで。
 それって虚しいということでもあるんですよね。

 自分の外側で騒々しくされて、おまけに楽しそうにしていて。軽蔑を掲げることでごまかそうとしても、こっそり羨望している自分がいるのが分かって、それが虚しい。むしろ、羨望しているからこそこだわってしまう節だってあるので、やっぱり虚しさが残ってしまう。

 
呆けた顔して若者が行く 夜の学生街は賑わう
猿公、得てして得て勝手して よしゃあいいのに喧嘩が始まる
仲裁人含む計三人
男気を誇示してる感じが見え見えで見てるこっちが痛い
猿の学生さん

 このあたりの描写も、じつに的を射てるかなと。
 

 なにより実際にこういった光景を見かけますからね。男気を誇示したいのか、ありがた迷惑なことをしていたり、存在感をアピールしたいのか、店員に変に絡んだり、ふざけて目立つことをしたり、なんて場面を。


 得てして、そういう行為を引き起こす人達を、猿と形容したくなるのもよく分かります。でも、痛いというならば、無視することができずに、こうして後から外から皮肉るこっち側だって同じこと。猿の学生からしたら「何見てんだよ」って話で、そこには決して対峙せずに、後出しジャンケンで優越感を得るってのは情けないに決まってますから。もちろんそれを踏まえての詞なのです。


 なので、複雑な心境としかいうべき感情が込められている曲ですね。

彼奴の吐瀉物 軍手の片方 
鼓膜を裂くかまいたちの夜
冬の淀川を流れる死体 
猿の歓迎会 サークルかなんかの
吉備団子ひとつでぐるぐる回る
雰囲気の大蛇に呑まれて笑う
恋する学生が赤い月を見ている
vividな彼女を捕まえてさ
 
 そして、これらの表現がじつに見事。
 
 「猿の学生」はこれらの表現があってこそです。
 ありのままにああいった気持ちを書くと、それはそれで共感できるかもしれませんが、痛々しいというかつまらないというか、とにかく作品として安っぽいものになってしまうとおもいます。それに、この詞のような内容は、あまり明るいテーマではないですし、分かりやすいとこだけを受け取れば、ただの愚痴とも捉えられかねません。

 なので、街の雰囲気が伝わってくる「彼奴の吐瀉物 軍手の片方 鼓膜を裂くかまいたちの夜 冬の淀川を流れる死体」という状況描写とか、猿の学生たちの滑稽な様子を「吉備団子ひとつでぐるぐる回る」や「雰囲気の大蛇に呑まれて笑う」と例えたりとか。ちょっとした表現の妙が、詞をただのグチではなく風刺と呼びたくなるものにしているのかなと感じました。

 兎に角、猿の学生はありがたい曲なんですよ。街中でよく流れているのは、猿の学生のテンションが上がりそうな曲が多いですから、そんな状況に嫌気がさしたときは「猿の学生」の出番なのです。猿へのワクチンみたいなもんです。