単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

完璧主義という誤解を解くために


 完璧主義って言葉について。内容は精神分析のフリをした弱音で「自分ってこんなに可哀そうなんだよー同情してくれ薬をもっとくれ」っていうやつです。あと雑な誤解を解きたいって意図もあります。
 
 一応はできるかぎり参考になる内容を心掛けたのでよかったどうぞ。
 とおもったのですが、ごちゃごちゃしすぎていてなにがなんだか。

 かなり長かったので続きからにしました。

 ここでの完璧主義は、強迫神経症を背景とした完璧主義についてだけを呼びます。好きで完璧を目指しているひとにも同じ「完璧主義」という言葉で語られますが、これはまったく別の話。

  わたしはいわゆる強迫神経症を患っています。簡単に説明すると、「不安を抱くことに対して尋常でないコストをかけてしまう」という傾向があることです。その尋常でないコストが生活に支障をきたすようならば、それは強迫神経症と判断され治療の対象になります。(典型的なのは皮膚がかぶれるまで手を洗ってしまう、一時間くらい安全の点検をしてしまう等)
   

 このことに関して、最近読んだ「立ち直るための心理療法」に目から鱗の意見がありました。ちなみにいままで読んできた心理療法関連の本のなかでも読み応えがありました。オススメ。
 強迫傾向の本質をひと言で説明しますと、「不安に対して「万全を期す」事によって対処しようとする戦略です。
 それらの傾向は元来は生きてゆくための合理的なものです。問題なのは、特定の戦略だけが発達して肥大化してしまうことです。 
 ですから、神経症とは、精神病のような「脳の病気」というよりも、「特定の戦略だけに頼りすぎて柔軟さが欠けている」とこらからくる、と考えることもできます。

 こうしてみると、かなり分かりやすいかと。
 分かりやすさに比べて問題は深刻ですが。

 強迫神経症と呼ばれる人々は、その決定的な特徴として、「その戦略が不適切という自覚があっても選択してしまう」というものがあります。というかその戦略が柔軟に変えられないほど自分に根付いてしまったことが神経症の問題になるのです。

 要は、「分かっているのに」ってやつですね。
 まあ「不安に対して「万全を期す」事によって対処しようとする」ことが、ひとつの戦略としてどの場面でも通用するならいいんですが、肝心なときにこそ通用しないですからね。この戦略は「絶対に何があっても失敗はしてはいけない」というごく少数のケースでしか通用しません。日常生活ではまず不要だし、むしろ弊害が出ることがほとんどでしょう。それに、こうした生き方はあまりにも疲れてしまいます。

 この問題点はあまり理解されにくいように見受けられます。
 その代表的なのが、完璧主義を治す方法として「完璧主義はこれだけ損しているからやめましょう」という意見が挙げられることです。しかし、これはまったく的外れでしかありません。完璧主義で苦悩している人間にいまさら戦略が適切でないことを指摘しても、当の本人が死にたいくらいにそれで失敗していて、すでに身をもって理解しているのです。こういった意見は「変えられる」ことを前提としているので、「変えられないこと」が問題であることとかけ離れているんですよね。
 
 
 誤解されやすいのですが、完璧主義者は理想を求めているわけではありません。ある特定の不安に対して万全を期すために、完璧でないと不安であるがゆえに、完璧を求めて多大なコストを費やしているだけなのです。 なので、「完璧でありたい」という積極的な傾向というよりかは、「失敗があってはならない」や「不安の種を取り除きたい」といった消極的な傾向といえま す。その傾向が変質して、「完璧を極めたい」という傾向を身に付けることもあるでしょうが、そこが問題点ではありません。


 例えば、完璧主義者だからこそ鍵を執拗に締めたかチェックをしてしまう、というものです。
 趣味に携わるときでさえも「失敗がないように」というチェックの意味で完璧を目指します。(人による)
 理想を求めている、でもまちがいではないのですが、この表現では本質が勘違いされやすいです。


 そして、不安の内実は人によって大きく異なります。
 定番なのが、他者評価への不安、身体的危機に対する不安なのですが、本当に様々あるようです。何に対して強い不安を抱くか、これを遡ると完璧主義になってしまったおもな原因が分かるようなので、わたしのように悩んでいる人は徹底的に考えこんだほうがいいとおもいます。ドラマのような決定的なトラウマはなくとも、何かしらの「普通ではない」ことがあるはずなので。しかし、分かりやすく感じとれる不安は、自分を脅かす本当の不安を意識しないための表質的な不安であることも多いので、判断は難しいのですが。


 滑稽な話で、完璧主義だと、完璧に完璧主義を脱しようと試みようとしてしまうんでよ。ですが、それは当然ながら達成不可能なのでいつまでたっても「自分はやっぱり完璧主義だ」と縛られてしまいます。
  
 本当に完璧主義ってめんどくさい傾向ですよね。マジでめんどくさいんですよ。
 とりあえず書きたいことは書けました。
 
 
  まあ辛いですよ。なにせ完璧主義ならではの損失が増えていく一方で、その代わりに得られたものは「かりそめの気休め」だけですから。まったく割に合いません。その「かりそめの気休め」を得るためだけに、失敗を犯したり、友人を失ったり、重要な機会を逃してしまうことがあって、ときには「強迫神経症」という治療すべき症状になるほどに深刻化することもあります。それほどに「かりそめの安心」を求めている自分が嫌になりますね。

 こんな感じに、自分の不幸の原因のほとんどを完璧主義であることに帰属させてしまうのも、これまた大きな問題です。自覚的にならばいいんですが、さらに進行してしまうと、人生の命題が 「完璧主義であることをどうにかする」に入れ替わって優先順位が狂ってしまって、日常生活でさらなる支障がでてきます。それに問題なのは、完璧主義のような神経症は「他のことに意識がいって気にしなくなる」ことが改善の兆候なのですが、その道が塞がれることになります。ここらへんから周りから「おかしい」と言われるようになりますね。


 それに、どれだけお前は気にしてんだよと思われるかもしれませんが、そうなったのはこれまでに強烈な不安に晒されてつづけた状況があったからこそなのに、その原因については考慮してもらえることはあまりなってのもまためんどうな話です。これはまあ当然の話で、そこまで理解してもらうことを求めるのはわがままですよね。さらに恵まれている(とされている)環境で育てられた人なんて、自分を苦しめてきた環境を責めることさえ否定されるので、本当にもう逃げ道がないですからね。自己責任論を振りかざさると簡単に潰れます。

 
 そういうのがあって「気にしすぎ」という言葉は、相手の不理解が目に見えてしまうのと、自己否定にしか受け取れないので非常につらい言葉です。
 
  個人的には、うつ病患者にたいして「頑張るな」という言葉と同じように、完璧主義者にたいして「気にするな」という言葉を使わないようにするのが定説になってほしい。 もちろんケースバイケースなんですが、じっさいに経験していない人にとってはその想定が非常に難しいようなので、それなら最初から禁止にした方が効果的だ と思っています。


 辛いというならば、完璧主義者は、表面上だけなら「必要以上に不安に怯えていて頭が悪い戦略を常に選択してい る人」と写ってしまうこともですね。これによって劣等感も膨れあがります。「間違った戦略を取ってしまう」という自覚は、自信をもぎ取るのに充分なものです。このことで頭が悪いって言われても反論できませんし。というか、根源的に自信がないからこそ不安を過剰に受け取ってしまうという事実もありますね。まあ間違っていることを分かったうえでやってしまうのはキツイですよ。しかもその理由が怖いからってなれば。

  
 さいごに。

 悲しいのは、完璧主義になるほどの強烈な不安があることであって、完璧主義そのものは自分を助けてくれる戦略です。完璧主義による損失が大きくても、少しでも不安が軽減されるのはありがたいことなのです。

 
 あーだめだ。やっぱり弱音になってしまった。かなり末期症状ですね。どうしたもんだか。それにしても完璧主義についての誤解があまりに酷すぎて、ネットでさえも共感し合える場所がないっていうのが驚きでした。たぶんこういうのはこれで最後です。