あえて今まで避けたきたテーマで書いてみようかな、と。
ちなみにタイトルはそこまで内容を反映していません。
最初に強調しておくことがあります。それはこの記事の一つの解釈にすぎないということ。私自身これから書くことが正しいと考えているわけではなく、ちょっとばかり解釈を試みているだけです。それがこの記事の前提。
なんでこんなまわりくどいことを書くかというと、syrup16gはえてして慎重さを大切にとしてきたバンドだと思うからです。言い切りや決め付けを回避して、逡巡して葛藤することを選択している。「分かりやすさ」「決め付け」に対してアンチテーゼを掲げている、と感じるほどに。都合のいいレッテルを張ったり、便利な用語を持ち出したりしてカタログ化することができない、割り切ることができない「ままならなさ」に通底するリアリティこそがsyrup16gの素晴らしさだと思っているので。
本人のインタビューでもそういった趣旨の発言があります。
-@IgarashiTakashi「深い絶望に彩られて」とかね、ライターの人が書き易い様な形に忠実にやってけば、生きていけるかもしれないと思う事もあるけど、そんな甘くない。…なんか違うんですよねぇ。だからグルグルしてるんですよ。でもそれがスリルになってる。 『音楽と人 2004年1月号より』 五十嵐隆
2012/08/14 10:34:17
導入
では、そろそろ本文へ。この前の出来事。私が「パニック障害がいかにしんどいか」について以前に書きちらした文章を見返していたら、その記事のなかで「健康」と「地獄を見る」という二つの言葉があったことに気づきました。これがことのキッカケ。
まあすぐピンときた方が多いと思いますが、これらはsyrup16gの名作アルバム「Hell-see」の、Hell-see-地獄を見る、Healthy-健康なといった言葉遊びに使われていた言葉です。
で、なぜ二つの言葉が登場したかについて簡単に経緯を説明すると、私がパニック発作を起こしたときに死にそうなほど苦しくて「地獄を見た」という話と、私がそのパニック障害を改善するために神経質なほどに体調に注意するようになって「健康的」になったという話で登場しました。
一見、関わりがない「地獄を見る」と「健康」という言葉ですが、パニック障害をキーワードにこれらを並べて「地獄を見たあとで健康的になる」と見たとき意味が通じるように思えます。それに事実、パニック発作を起こして「地獄を見る」ほど苦しいがゆえに「健康的」に生活するようになることはよくあることです。
これは「パニック障害になってから風邪をひかなくなった」といった発言が顕著に表しているかと。この発言が意味するのは、パニック発作はとにかくヤバくてそれを軽減するためにも病的なほどに健康に気を付けるようになるので風邪をひかなくなった、という話です。本当にそのままヘルシーでヘルシーになってしまうのです。
そして、パニック障害に関していうと、明らかにこれがテーマになった「sonic disorder」という曲があります。タイトルおよび歌詞からしてパニック症候群(Panic Disorder)に関連しているのは間違いないありません。
ちなみに、歌詞の最初の部分。
思考は無化し
言葉は頼りなく
薄ぼんやり誰かの
声を聴いている
生きているのが
怪しく思える程
僕は何故か
震えている
この箇所は、感銘を受けるほどにパニック発作の症状そのものです。発作を起こしてしまうと思考、言葉での対抗がほぼ無意味になり、外部に対する意識が曖昧になる。「生きているのが怪しく思える程」といった「死にそうになる」、これらすべて典型的な症状ですから。
さらには「空を失くす」、「デイパス」という曲名があります。それぞれが「空を失くす→ソラナックス」、「デイパス→デパス」といったように、抗不安薬と掛けたタイトルになっています。「ソラナックス」はとくにパニック障害の治療における代表的な治療薬です。他にも「ローラメット→ロラメット」と睡眠薬と掛けたタイトルもあって、これに関しては「不眠症」という直接的なタイトルがありますね。
本題
と、ここまでメンタルヘルスの観点で見てきました。多くがすでに語られている内容です。しかし、私が知るかぎりは当の本人は「パニック障害である」等の発言はありません。いろいろと調べてみてもそういった事実は見つかりません。なので結局のところ、どれだけ一致していようが本当にそうなのかは分からずじまいで、あくまでそう解釈できるかもって程度の話なんですよね。
というか、むしろ。
こういった言葉遊びは「そうであるか、そうでないかがハッキリとしない」ことこそが魅力ではないかと思っています。メンタルヘルス的に読み取ればそれなりの符合がありつつ、あくまでそれらを言葉遊びのなかでのみ提示していることが重要なのかもしれません。(まったく提示しておらずにただ深みしていた可能性もありますが)
「空を失くす」は「ソラナックス」かもしれないし、「空を失くす」は「空を失くす」でしかないかもしれない。
HELL-SEEはただの思い付きかもしれないし、実体験のなかで生まれたアイデアなのかもしれない。
五十嵐隆がメンタルヘルスに関連させたこれらの言葉遊びは、「もしかしてそうなのでは」と誘発するほどには一致していて、そういった観点がまったくなくても意味が通じるほどには関連していない。この配慮がわりと重要な意味を持つんじゃないかなと私は思うわけです。
どんな意味かといえば、最初に書いたとおりに「割りきれないままならなさ」。
もし五十嵐隆がどういう意味かを明言してしまえば、そういった人たちからより強い共感を得られてたり、症名・用語を用いることでより分かりやすくなったりしたのでしょう。言い切ればそこに強さが生まれる。でも、その分だけ取り残される人たちが増えてしまうし、説明することができない固有の苦悩が見落とされてしまう。それをきっと避けたかったのではないかと、思いました。
まあしかし、どうやっても「割り切れなかった」ものも案外みんな似ているんですよね。どれだけ頑張って自分と他者の差異を追求していったところで、目まぐるしいカテゴライズ化のスピードには勝つことができません。特に、インターネットによって「懊悩ですらもカタログ化されて、5分後にはぐぐられてる」ようになって、「自分を構成するすべての要素が「ありがち」の渦のなかに巻き込まれる時代」なのでなおさらのこと。(「」は引用。)
そして
それから。逆説的になりますが、こういった時代だからこそ「言い切りや決め付けを回避して、逡巡して葛藤することを選択している、「分かりやすさ」「決め付け」に対してアンチテーゼを掲げている」sryup16gの姿勢が重要になると感じていますね。
「涙流してりゃ悲しいか」「夢を叶えたら幸せなのか」と、慎重になることがきっと重要なのだと。
あえて言えば、syrup16gをメンヘラって言葉で安易に片付けてないでくれってことです。「メンタルヘルス的に解釈する」のはいいけど、それが正しいかのようにレッテルを張るのは早計であると。しつこいでしょうが、ことさらsyrup16gというバンドはそういったことを避けようとしたバンドなのですから。もしそういった言及をするならせめて少しは「そうではないかもしれない」と留保する言葉は必要でしょう。
こうした念押しの言葉は退屈になったり冗長になったりすることを承知のうえで、syrup16gというバンドを語る際には大切なことだと最近は強く思うようになりました。慎重過ぎるくらいが丁度いいのかもしれません。
最後に「汚れたいだけ」の歌詞を引用して終わります。
「復讐するのが生きる意味に成り果てても悲しむ事はない 復讐それだけが生きる意味に成り得るんだよ 疑う余地は無いね しょうがないね しょうがないね しょうがないぜ NO」
「NO」を付け加える慎重さ、そして「NO」を見逃さないための慎重さも、また同じように大事にしていきたいです。