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眠れなくて、ハイプロン飲んで寝るプロンよ、って言葉を思いだして、ツイッター検索したら、にゃるらさんのツイートばかりがでてきて、そういやたまに見てる配信者が『NEEDY GIRL OVERDOSE』のゲーム実況しているときにODの選択肢にハイプロンが出てきて、ハイプロン飲んで寝るプロンよってコメントしたくなったのを我慢したことを思いだした。俺は万が一にでもハイになって甥っ子に変なLINEを送るのが怖いから、ハイプロンは翌日が休みのときにスマホの電源を切って飲むくらいで、普段から飲んでるエスゾピクロンは飲んでも眠気こないのにベットに転がると眠れるから不思議だ。メンタルヘルス病んでる人たちが薬の名前をもじるのが好きなの、たとえばポケットモンスター ゾピクロン/エスゾピクロンみたいなノリをついやってしまうの、薬の効能に助けられて愛着湧いちゃってるからだろうし、それに加えてなにかしらのカルチャー化している面もあって、それには俺は乗れない。でも嫌いではないし、俺が乗れないってだけで、どっちかっていえば詳しいほうだから好きなのだろう。最近読んだ本でリストカット対策で腕に輪ゴムつけてアンカーにすると知ったが、俺もパニック障害が酷かったときは腕に輪ゴムつけてパッチンして気を逸らしていた。あの頃は左手首の青あざが凄かった。切るか、ゴムを弾くかの違いで、他者の視線が鋭くなったり柔らかくなったりするし、カルチャー化すると文化的認識の枠組みを通されやすくなるから一長一短なのかもしれない。だいたいその枠は偏見から成りたっている。こういうのヒューリスティクスって呼ぶんだっけ?まあ誰だって、他人の事情を理解したくないし、手っ取りばやく既知のカテゴリーに振り分けて、次に進みたい。人間はどこにでもいるし。カルチャーっていうと、なんかギャングスターがマリファナ吸うみたいなもんなのかな。スヌープドッグみたいに。boothのみで販売されていた音楽や映画の鬱系特集本で、信頼が厚い音楽ライターの柴那典さんが最近はザナックスとか向精神薬に関する曲が増えている?ある?と書いていて、アメリカはオピオイド中毒禍にあるって本を読んで厳しい局面のようで、さて日本ってどうなのといえば、自殺者が3万人と2万人で与えるインパクトは違うのは分かるが減ったと喧伝されても、べつに少なくねえよな。でも自殺予防に取り組んでいる方々の努力がそこに含まれていると知れば、少なくなりましたねくらいは俺も言える。自分の「死にたい」ですら持て余してるのに、他人の「死にたい」に向きあうのは偉業としか言えない。死んで解決される生もあるだろ、人によっては前向きな問題解決にもなりうるだろ、って書けないあたりが俺の限界で、それを素直に書かないならもう俺がなにかを書く必要ないか? 「身内に死なれたことがないからそんなこと言える」って、俺は小さいころは死をほのめかして俺を操る母に死んでほしかったから羨ましい気持ちがあり、その気持ちをポロっとカウンセラーに漏らしたら、ひどい目にあった。この母に死んでほしかったって気持ちを社会に適応させて、死んでほしかった気持ちもあるがやっぱり生きていてよかったに変換させて、それでいいのか、と思う。カートヴォネガットのなんかの作品で「母は馬鹿だっただけ。悪人ではない」といった感じの台詞があり、このオッカムの剃刀的解釈を俺の母にも適用したところで、どうしても憎しみは拭えないもうずっと。特に恥をかかされたいくつかの事柄は。岸田秀は母が死んでも恨んでいて、対談で「許してあげなよ」と相手に詰められても首を振らなかったけど、俺はそこまではいかなそうである。中学のときだったか国語の授業で宮沢賢治の「永訣の朝」をちょっとだけ仲良い女子が朗読させられて、それ聞いて「今度生まれてくるときは自分のことばかりでなく他人のことも考えたい」みたいな内容で、俺がうっすら感じていた罪悪感と向きあわされたせいで、授業中なのに不覚にも泣きそうになっていた。でも最近は俺は自分のことだけでなく甥っ子のことも考えていて、とても生きづらそうにしているが、どうか幸せになってほしい。俺みたいに、酒や薬の血中濃度が高いときのみにかろうじて感じることができる、錯覚のような、誤解のような、幸福のまがい物よりかは、安定性と持続性がありそうな幸せを手にしつづけてほしい。