単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『HELL-SEE』全曲感想

月曜日に『HELL-SEE』20周年記念盤のLPが届いた。これでおれが所持している『HELL-SEE』が四枚(ライブ音源付きの初回限定版を除く)となる。四枚目。 

ブログで『HELL-SEE』の全曲レビューを十三年前(!?)に書いたようだが、二度目の今回は全曲感想、もしくは思い出語り、自己陶酔ポエムか、いわゆるレビューみたいなのを書く。

十三年前、おれは高校生でこのアルバムを邦楽ロックという枠組みで最高のアルバムと評価していたのでMr.ChildrenBUMP OF CHICKEN、あとRADWIMPSあたりを好きな友だちにオススメしては後半以降のしっとりした曲しか気に入ってもらえなかった。

出典がない引用は前に書いた全曲レビューから。当時の記事を読み返したら雑で短くて歯切れが悪いが、でもそうなっているのは単に表現する語彙がなかったのが主な理由ってだけで今も昔も愛していることには変わりはない。それぞれの愛があるので今回のそれを書きたい。

イエロウ

「死体のような未来を呼吸しない歌を蘇生するために何をしようか」で「イエロウ」つまりは家籠もしくは黄色信号、と初っ端から病んだユーモアが飛びだす。

行動分析学で「死人テスト」という言葉がある。その意味は死人にもできることは行動ではないというもの。蘇生するために家に籠るのは死人テスト的には微妙なラインではあるが、そうしなければ死に接近してしまうならばイエロウも立派な行動といえそう。当時実家暮らしだったときは「掃除、炊事、洗濯が好きな俺が趣味な俺は」のリアリティがよく分からなかった。一人暮らしをするようになってから十年ほど経った今ではそれはとてもすばらしいことだと肌で分かる。いつでも生活はできなさそう、だ。

「さっそくやる気が矢のように失せていくねえ」の言葉遊びが好きすぎてふとしたときに日常で口から出てくる。

「誰かと同じことはしない」にはみんなのように振舞えない、Syrup16gが当時のロックバンドのシーンに馴染めない(詳しくはLP版書き下ろしライナーノーツ)ことを逆さまに表現しているっぽい。

勢いといった迫力があるのに一方、このいかにも諦めているような感じもあって、不思議な感覚がある曲です。

そう、そこがいい。変拍子、変なフレーズ、思考のベクトルは過去現在未来を彷徨い、「イエロウ」という回答を見いだす。不思議な感覚がある曲でまちがいない。

 

おそらく中学三年生の頃が初めて聞いたときで、姉のお下がりの型落ちのCDコンポでオリジナル版を聞いていたのも相まって音質からすでにもう異様な体験だった。音量が小さいし、音質の抜けが悪いし、しかしだからこそ次第に『イエロウ』の音だけで別世界にトリップするように引き込まれるようになった。アウトロに注目すると、ギュイーンとせり上がるギターリフとそれに追随するベースでオープニングナンバー、幕開け、死体のような未来を蘇生するために呼吸しない歌に息を吹き返えさせるためにここから始まっていく!ってノリで『不眠症』につづく。

それが心底好き。らしさがある。これこそ『HELL-SEE』が愛されたりときに受け入れられなかったりする特徴だともおもう。最高のオープニングナンバー。


不眠症

不眠症』はおれにもみんなにも熱狂的な人気がある。現に音楽配信サービスの人気曲でトップテンの座に居座りつづけているはず。先ほどSpotifyで調べてみたら六位だった。三年前は五位。そもそもが人気曲だが、『不眠症』というタイトルのキャッチャーさがサブスクリプションサービス経由で人気に拍車をかけているっぽい。さらに麻枝准が『HELL-SEE』で真っ先に名前を挙げるほど好きらしい。三年前にサブスク解禁されたとき中国でもっとも再生回数とコメントが多かったといつぞやのツイートで知った。あと伝説版にあったころのSyrup16gスレでもっともよく見かけた歌詞引用が「寝れねぇもう遅せよねぇ」だった。

 

syrup16gの話集/spotifyで人気の曲、reisue盤の構成についてなど - 単行のカナリア

 

寝つけずに思考が過去に向かってあの時の焦燥感や恥辱感がフラッシュバックして心のスピードに振り回されて余計に眠りが遠ざかっていく。そのような情景が全要素(歌詞、曲、アルバムジャケットのデザインまで)ひっくるめて生々しくパッケージされている。五十嵐隆お得意のグッドメロディー的循環コードにうるせえもう遅い寝れないさよならと眠れない夜にあふれ出る言葉を乗っける。睡眠からの連想でタイトルジャケットにもなった羊の鳴き声を取りいれるユーモアがいっそうシリアスさを際立たせている。笑えないし、眠れないのだ。

この曲はおれがシューゲイザーに嵌るきっかけで、耽美で感傷的なギターサウンドは音質もあいまってか、浮かんでくるイメージはまるで丑三つ時にやってくる思考ノイズのよう。けっしてマイスリーで甘い夢を見るような歌ではなくてルネスタ(アモバンでも可)で苦い記憶を噛みしめるような歌だ。

反芻する上質なメロディーと漏れでた言葉のなかで唐突にでてくる「のたうち回って」が迫力に最近になって気づいた。のたうち回るは行為も歌詞でもそうなく、だからそうさせてしまうほど「でかい過ち」のでかさがひしひしと伝わってくる。「この際だこのままずべてぶちまけると」と際に立たされており、睡眠という防衛ラインが突破されてしまえば手の打ちようがなくなる。

そんな夜の子守歌です。

と前に書いたが、『HELL-SEE』を子守唄に寝たことは一度もなさそう。いちいち言葉やメロディーに反応しちゃうから。

確かに「うるせぇてめぇ」ってみなが寝静まった深夜の静寂では記憶がうるさくなるよな。

Hell-see

表題曲。『イエロウ』『不眠症』と連続で私的主観的な歌詞が綴られていたがここにきて雰囲気が急転する。景色が遠ざかる。他人事感を出してくる。おまけに不気味なアルペジオの調べ、多重録音のコーラスワークなどの輪郭をぼやけさせた音像で捉えどころもない。

「健康になりたいな」という歌詞については、現代は、セルフケア/セルフマネジメント全盛期となり、健康をケアするのは個人の責任の範疇に押し込められるようになり、もはや健康にならなければならないといったほうが近くなったことを考えていた。「戦争は良くないな」と加え、一定の期間ごとに曲と時代が同調し、『HELL-SEE』二十周年となった今はその時なんだろうな。

終盤の「同意した」のあとのSyrup16g史上もっともか細い「イェーイ」の箇所が好き。あと「こう言った」に同意するようなベース音も好き。二分あたりで始まるハミング/シューゲイザーとこが一番好き。

それにしても『HELL-SEE』とヘルシーの言葉遊びはうまい。そうおれが身をもって知らされたのはパニック障害になって、地獄を見て、それ以降健康に気を遣うようになってからだった。この心性は精神疾患にありがちな「不安→注意するようになる→ささいなことで不安になる→より不安になる」という悪循環そのものだが、客観的に(バイオメーカーで判断できる健康指標とかで)みればヘルシーなのだ。地獄の中でヘルシーになっていく。言葉遊びがうまい。


末期症状

まだ『末期症状』については書くことができない。

事実としてあるのが、

・人生で一番聞いた回数が多い曲。

・人生でカラオケで一番歌った回数が多い曲。

・「抱きまくら抱えて眠れ」に影響されてMOGUの抱きまくらを買った。

・学生時代に机やノートに「ちゃんとやんなきゃって素敵な未来なんてはじめからねえだろ」とよく書いていた。口に出していた。一緒に歌っていた。

・鳥が生まれてから一番最初に見た者を親だと刷り込むように、一番最初に心に届いた「ちゃんとやんなきゃって素敵な未来なんてはじめからねえだろ」系歌詞だったので、その後ろを付いていってる。

・おれはとても明るい学生時代を送り、とても明るい人間という自己認識があり、がしかし、とても親と仲が良さそうな友だちには話すことができない家庭環境(境遇としては奈良自宅放火母子3人殺人事件や滋賀医科大学生母親殺害事件を千倍薄めた感じ)があって、いまの平穏な現状といつかの暗澹な未来で板挟みになってもがき苦しんでいて、その空隙に『末期症状』がピタッとはまったらしい。音と言葉が。それはもう完璧な形ではまったので人生で一番聞いた回数が多くなる。

・「すぐに慣れちゃってもうピンとこない」ことはなくて慣れないしピンときているし、あと数か月後にライブで聞けることを考えると気が高ぶりすぎて危ない。

この曲は、私がアルバムで一番好きな曲です。

十三前からそう!

ローラーメット

ロラメットという睡眠導入剤The Police「De Do Do Do, De Da Da Da」を引用している曲で、口ずさむ楽しくなってくる度合いではアルバム曲でずば抜けてナンバーワン。

Syrup16gの歌詞に批判/悪口が出てくるときは決まってその対象は自他を区別せずに無差別攻撃をしがちという印象だが、この曲は自己批判的な要素があるのかないのかよくわからない。Syrup16gがテレビに出ていたのかよくしらないがでていなさそうだし。それにしても有名なバンドのリフを引用して「ロックスターがテレビの前でくるった振りをしてる」と歌ってるのがおもしろい。

おれはSyrup16gニューウェーブサウンドより、それを過剰にさせてオルタナティブ/シューゲイザーに発展したサウンドが好きなのもあって、アルバムのなかではあんまりピンとこなかった。が、ここ数か月で『ローラーメット』の評価が急上昇しており、理由は口ずさむとメロディーが楽しくて気持ちがはずんでくるからというもの。あと「Baby I want you girl」というふざけた歌のふざけた部分が、曲ではコーラスも相まってハイライトになっているという面白さがある。

素敵な歌。

I'm 劣性

前に書いた全曲(はやめた)レビューのReissue。30代いくまで生きてたなおれ。

劣性というか、劣勢というか。妙に偉そうというか、態度がでかいというか。しいていうなら不敵という言葉がよく似合う歌詞。基本的にはCaution!!といわんばかりのイントロの警戒音と、伸び伸びとしたリズム隊の軽快音、歯切れのいいギターアプローチなど、3ピースバンドならではの身軽さを起用に活かして耳触りはいい。

が、タイトルが「I'm 劣性」で、それをI'm Listenの掛詞にするあたりからしてブラックなユーモアを漂せている。タイトルを始めとする言葉遊びや不敵な態度には毒が含まれていて、それを軽快なバンドアンサンブルで小気味よく聞かせてくれる。

が、ダンサンブルなグルーブ感を前面に押しだしつつ、よくよく確かめてみるとなんか変だしやたらと暗いし、フランジャーを効かしたギターリフに隠れて不気味なポワワワとかロボットボイス的コーラスがあって、「精一杯明るくしているつもり」なのかは置いといて擬装しきれていない暗さがにじみ出て、やっぱ不健全っぽい。不敵な態度が徹底されているわけでもなく「交替の時間はとっくに過ぎてんぞ」と虚勢が剝がれ落ちていく。可愛げすらある。

Syrup16gの曲にはテレビを壊す曲が少なくとも二つある。一つは『真空』で「Crash T.V. with th bat of steel」、もう一つが『I'm劣性』で「テレビなんてBang!」「テレビなんてBurst!」。

サビはリアルをテレビと対比させることで、生々しい生活描写が急にチープに感じられるのだが、そのチープさこそが狙いのような、洒落なのか本気なのかネタなのかマジなのかは不明瞭のままで手渡される。

30代いくまで生きてたし、自販機を利用するときは交通系ICカードを使うことが多くなったし、部屋にテレビないし、優性/劣性という用語は顕性/潜性への改訂が平成二十一年に日本人類遺伝学会から平成二十九年九月に日本遺伝学会からが提案されていると『遺伝子 親密なる人類史』にあったけど、『I'm 劣性』は色褪せない。

二分三十秒あたりでオイ、オイ、オイ!ってシャウトするのほんとによくて、最後のオイなんてうるさい現場で交代を呼びかけているように聞こえてくるのがほんとにいい。

Syrup16gの曲レビューその27「I'm 劣性」 - 単行のカナリア


(This is not just)Song for me

家に帰る

家に帰る

家に帰る

シンプルにいい曲で人にオススメしたらだいたい好評の曲でおれは特に書くことが思い付かない。ストレートにいい曲。魔法みたいなCDが今は手品みたいに思えることもあるが『HELL-SEE』の魔法はいまだ解けず。呪いではない。手品でもない。魔法のCD。それも『(This is not just)Song for me』みたいな素直にいい曲だよねって分かり合えるような曲があるからこそだろう。

いい曲だよね。

月になって

シンプルにいいラブソングで人にオススメしたら好評の曲。

月にはなんにもないのに人はなにかを見出したり、投影してしまう。なんにもないのはあなたもそうで、でもあなたは月ではない。そのせいで見失いそうになる。というような「ある」の儚さが月というモチーフに重ねて歌われているような。おそらく。そう受け取っている。

また「掴めそうで手を伸ばして届かないね永遠にね」で終わるのが切ない。そばにいるだけと言い聞かせてながらも手を伸ばしても届かない隔たりがあり、それはまるで月のよう。ラブソングだからってハッピーでもなくバッドでもない、わたしとあなたという関係性のスケールで描かれる喜びや悲しみを感じる。

『月になって』はギターの音がいい。イントロのアルペジオから理想的な音が鳴っている。サビではSyrup16g風ロッカバラードの轟音展開でいつもやられる。リズム隊はシンプルで、アルバム全編に渡って細部に凝っているベースですら基本的にルート音に徹している。でもギターの音像がめちゃくよくてもう泣く。

うろ覚えだが、月を撮ってるカップルがもっと近くで撮ろうよって月に向かって歩いた、みたいツイートを思いだした。


ex.人間

これも前に書いた曲レビューのReissue。

2分56秒あたりの「きてるねぇのってるねぇ」の逆再生的不協和音コーラスが怖くてはじめて気づいたとき再生機器がバグったのかと疑ったくらいだった。特に3分ちょうどの箇所にいたっては幻聴を聞いてしまったような感覚に陥ってバグってしまう。

アルバム中、一番健康から遠いのではないだろうか。不気味な音を散りばめており、聞き込むほどに当初のキャッチャーな印象(お蕎麦屋さんだし)は薄れていき、『HELL-SEE』に寄っていく。敬語体で卑下しつつ傲慢であり、でもどこか割り切れていない後味の悪さを残している。じめったさが存分に表現されていて、十年前の俺は「きてるねえ のってるねえと歌っておきながら、まったくもってノッてない。そこらで落ち込んでいる人のほうがまだテンション高いだろ」と書いていた。まったくそう。これが(不安が)きているねえ、(首吊り台のうえに)のっているねえ、(消化試合)をやってるねえ、(世迷言を)いってるねえ、だったらまあ意味は通るがそうではなさそうだし、そのままだろうし。

サウンドも然り。歯切れの悪いギターサウンドもそうだし、かすかに聞こえる泡が弾けるような効果音はどこか場違いで、何よりバックで流れているコーラスの陰気さがすごい。ため息のようなコーラスは息苦しそうに響く。そしてサビに達しても盛り上がるってわけでもなくて、むしろサウンドとともに重圧が増していくような感じがある。

で、それだけでないのがこの曲で、おれが過去に一度も使ったことない言葉で表現すればカタルシスがやってくるのだ。二度あり、ギターソロとCメロ。特にCメロの「美味しいお蕎麦屋さん見つけたから今度行こう」はTシャツグッズになるくらい愛されているし、おれも愛している。


正常

引用その一。

遠藤幸一「そんな思い出あります? 手首に優しくない曲。」

キタダマキ「いや、ほんとね。いろんなことを思いだせないんですよね。その、演奏してて手首に優しくないなーってのはあるんだけど。ライブやってて。」

五十嵐隆「あるよなー」

キタダマキ「あるんだけど、あんときああだったってのはすぐには思いだせないかな」

五十嵐隆「あれは? 『正常』は? 最後。タララララ、タララララってとこ。あれは? 大丈夫?」

キタガマキ「あれは俺が勝手にやっただけだから大丈夫」

 

UKPラジオvol.125より

youtu.be

引用その二。

(正常という)カテゴリーの定義不能性を隠蔽するために、スケープゴートとして他者化された「外部」(=異常)──ジュディス・バドラーはそれを構成的な外部と呼んだ。構成的外部とは、「正常」への欲望と「正常」の不在というダブルバインドを隠蔽して、そのことで制度全体を保全しようとする装置の産物である。

 

(中略)

 

「正常」という規範への強迫的な同一化の問題、その規範が空虚な中心であるからこそ、そこへの同一化は失敗を繰りかえし、繰りかえすことで反復される強迫概念にならざるえないという問題がここにある。

 

『現代批評理論』より

引用その三。

変異というのは基準からの逸脱によってのみ定義されている(「変異型」の対義語は「正常型」ではなく「野生型」、つまり野生の集団で最も多く見られる型である)。このように、変異とは絶対的な概念というよりもむしろ、統計学的な概念なのだ。

 

(中略)

 

「大きな苦しみ」を定義するのは 私たちであり、「正常」と「異常」の境界線を引くのも 私たちだ。介入という医学的選択をするのも私たちであり、「正当化できる介入」とはどのようなものかを決めるのも 私たちだ。ある特定のゲノムを与えられた人間が、他のゲノムを与えられた人間を定義し、操作し、ときに殺すための基準を決める責任を持つ。

 

『遺伝子‐親密なる人類史‐ 下』より

「身体は石のように硬く荒野に転がり冷たくなった」

鉛様麻痺 手足や全身が、鉛のように重く感じられる状態。強い疲労感があり、容易に立ち上がることもできなくなる。

 

鉛様麻痺 | 用語解説 | HelC(ヘルシー)

転がる/石というロックンロールの文字列から連想される言葉を『正常』では「身体は石のように硬く荒野に転がり冷たくなった」と組み込んでいるのか。と、最近なって気付いた。

『正常』の最後の、タララララ、タララララってとこ、なんであんなにいいんだろう。おれにはなんもわかりません。上で引用した文章の意味もわかっていません。

もったいない

Reisse。

はじめて聞いたときは怖かったな。怖い曲があるんだっておもった。悲しそうに「悲しくない悲しくはない全然」と歌っているから。深い大穴を覗いているような気持ちになったことを覚えている。いまではそれを虚無と表現してしまうようになった。

悲しくもない、何もない、反省もしない、後悔はない、感傷もくだらないと、まさしく虚無そのもので、これは空虚と言い換えてもいいけど、どちらにしても価値とか意味とか感情とかその他諸々がごっそりと抜け落ちてしまった空っぽの感覚そのもの。やたらと長い間奏のギターの音色すら憂鬱そうな顔をしている。『HELL-SEE』では何度か登場する空っぽというフレーズが曲全体で表現されていて極めつけは最後の言葉が「何を信じりゃいい」だ。

「からっぽの部屋 からっぽのMy Self」は比喩で、おそらくゴミ部屋で後悔や屈辱で一杯の自己なのだろうが、価値の観点からすれば「からっぽ」に他ならない。

Syrup16gの曲の中でも随一の陰鬱さを誇り、「もったいない」ではもはやネガティブな感情すら突きぬけてしまって、ひとつの極点に達してしまった感覚がある。突きぬけてしまっているじゃないな。抜け落ちてしまったのほうがよさそう。

『もったいない』が楽曲としてもダウナーな轟音サウンドの心地よさがあるのがいい。虚無の切実さと音楽の快楽で心を振り回してくる。グッドメロディー揃いのアルバム曲のなかではメロディーの訴求力が落ちる印象があるが、この曲に限ってはその味気なさが魅力になっている。あと、逆再生的不協和音コーラスがこわい。 

陰鬱な印象を色濃くしているのがタイトルの『もったいない』の対象が自分であり、他者から投げられた言葉への反応の点にある。挙句の果てに「もったいないかい? そこに居ないならわかんねえねえさ」と端から拒絶していて取りつく島もない。なにかしらの極に到達している。

「Mama. Don`t ask so lonely?」を十年間ぐらい寂しいと聞かないで、と勘違いしていた。そんなに寂しそうに聞かないで、が正しい。で、それに気づいたときにウワーってなってその頃からもう実家に帰ってない。

「もったいない」を書くために延々とリピートしていたら心が持たないってなってきた。


Everseen

YoutubeSyrup16g公式チャンネルで配信されている『HELL-SEE』の曲ではもっとも再生回数が低かった。

『Everseen』は連呼される「さっきやったばっかなのそんなの」が次第にアクセント強めの歯擦音混じりの発声にやさぐれていくのがめちゃくちゃいいんだよな。既視感への苛立ちを主題にしたうえで冒頭の歌い出しが『Smells Like Teen Spirit』のオマージュみたいなことやってるのもいい。ギターリフが『天才』や『drawn the light』級のインパクトがあっていい。3ピースバンド、ロックンロールバンドとして掛け値なしにはめちゃめちゃにかっこいい。あと2分20秒あたりの中畑大樹の「オーーーーイ!」シャウトも笑顔になっちゃうくらいにいい。

余談で、この記事を書きながら歌詞を参考にするときはGoogle検索で表示されるものを参照しているが、『Everseen』で「Everseen a11 right」と表記されていた。あれ?とおもって飾っていた二十周年記念盤の手書き歌詞を見てみたら「Everseen all right」だった。

いつ聞いても間奏になるとシャウトしたくなる。叫びを喚起させられる。シャウト喚起力が非常に強い。

繰りかえし聞いていてそれこそ回数でいえば四ケタか少なくとも三ケタは繰りかえし聞いているアルバムで「さっきやったばっかだってそんなのくだらないから帰って」「そのにあるのはEverseen」と歌われているのが本当に最高でマジでいいのでお試しあれ。

シーツ

四文字熟語コーラスといえばVELTPUCHの『KIiller Smile』の「睡眠最高」か、この『シーツ』の「毎日交換」。

『シーツ』はまんまと引っかかっている。好きにならないわけがない。ギターサウンドはブリッジミュートを効かし、ベースは和音を弾き、洗い立てのシーツのように柔らかさがある。そして「シーツ洗われていくよ毎日交換」「毎日交換」というコーラスなので好きにならないわけがないのだ。

将来が予後と重なりがちな暮らしのなかで「死にたいようで死ねない 生きたいなんて思えない」で涙ぐみ「頭悪いな俺は 自意識過剰で」で泣いたりする。

予断を許さない生活のなかで「毎日交換」という疾病利得があり、だからといってそれで生きたいなんて思えるわけもないが、過去の英雄のお下がりのシーツは真っ白で美しい。

なにもないやからっぽはシーツへの言葉となれば清潔で望ましいものになる。アルバムの中で価値の転換がある。白に回帰した『シーツ』のあとに『吐く血』という赤を持ってくるから色の対比で目まいがする。 


吐く血

Syrup16gの歌詞についての音楽文」で詳しく書いたが、五十嵐隆の歌詞には終盤に差し込められる一文一フレーズによってそれまでと様相が変化するという癖がある。雑にいえばどんでん返しのオチみたいなもので、終盤に差しこめられる歌詞によって意味や雰囲気が反転/複雑化する。

で、『吐く血』では、ポップネスなバンドアンサンブルに乗せて淡々と「彼女」が描写されていく。

それらをまとめると、

・知り合ってから半年が経ち、現在は連絡を取り合えてない

・特筆すべき容姿ではないがやたら暗く、内科で診てもらえない病気を患っている

・指に吐きダコがある

・普通の会話があまり成立せず、自分の世界に入ると戻ってこない

・一生懸命過ぎる。人に怯える。

・たぶん生きてる

というもの。患っている。

そして、それが「貴方と私と似ているね」というフレーズによって、唐突に当事者性が立ち上がってくる。言葉が手元に返ってくる。

この曲は『HELL-SEE』の中で異彩を放っていてキャッチャーなギターリフからはじまってサビに入ると音程が低くなる。メロよりサビの方がキーが低い。それでいて軽快なバンドアンサンブルによって暗い印象はそうない。

「彼女」は強迫性障害/摂食障害を患っているだろうし、過食嘔吐によって吐血するくらい症状は重く、通院しているのに今日も吐いている状況から処方された抗うつ剤(第一選択薬、もし症状が軽度ならば頓服で抗不安薬)も効いていなさそう。

明るいメロディーに暗い歌詞を載せる、言及している対象が他者ではなく自己にも及ぶ、それらを度外視して聞いていて耳が気持ちがいいとSyrup16g流のロックンロールが結実しているのがこの曲だとおもう。

「嘘ついてよ 見破るよ そんなに人に怯えるなよ」の「人」はおそらく自身も含まれているのだろう。あと『遊体離脱』の「裏切られた人間にしか分からないさそんな気持ちは」を思いだす。

『吐く血』は歌詞の距離感もサウンドアプローチも言葉遊びも絶妙としかいいようがない。絶妙にツボを突いてくる。やられる。

そして家に帰る。2番線の電車に乗って帰っていく。


パレード

一人で渡る赤信号はいつだって怖いけれど、そのたびに赤いジャケットのアルバムが元気づけてくれるのだ。

見たまえ。僕らのサーカスはここに終わりを告げた。猛獣もピエロも役割を終えて店じまいをしている。色鮮やかなテントは畳まれ、まっさらな跡地には風が吹いている。僕の知らない場所ではもう新しいショーが始まっているのかも知れないが、それを楽しむのは、まだそれを見たことがない、新しい人々だ。僕らの、知らない、若々しい人々だ。

唐辺葉介『電気サーカス』

「さよならみなさま ありがとうみなさま」はけっして決別のための言葉ではなくて『パレード』はおしまいを告げても生活はつづいていく。

『HELL-SEE』のラストナンバーだからこそ、だからこそなんだけど、『パレード』はどうしようもなくなるほどすばらしい。

すばらしいね。

 

おしまい

曲こそがいいだとか、サウンドメイクがいいだとか、メロディーがいいだとか、歌詞がいいだとかいろいろ語られていて、おれからすれば全部いいのが『HELL-SEE』なので仲良くなった人にオススメしちゃっていたのだ。

もう人と仲よくなることがめっきりなくなったけどそうなったときはお近づきの証にオススメしたいな。