単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

私小説と実体験の間 西村賢太『一私小説書きの独語』を読む

 

随筆集 一私小説書きの独語 (角川文庫)

随筆集 一私小説書きの独語 (角川文庫)

 

 

思えば、西村賢太の小説をけっこうな量を読んでいる。数年前は近所の図書館にあった著作を片っ端から借りて読みふけっていたこともある。

西村賢太の著作はいずれも私小説の形式からなりたっている。恥も性欲も暴力も余すことなく掘り下げていくスタイルに惹かれ、変わり映えのない日々のなかの瑣末な出来事を粘度の高い筆致で描いていく。妙な中毒性があった。あまりに赤裸々に語りつくすものだから、ときには滑稽で醜悪にすら感じられるのだが、そのあっけらかんとした語り口こそが魅力。これに関しては、かつて「クズ」の内容物について/弱さは語りやすいが醜さは語りにくいで書いた。と思ったが、書いてなかった。

 

で、『一私小説書きの独語』は西村賢太のエッセイ集。雑誌に投稿したエッセイの寄せ集めで、特に私小説と実体験の差異について書かれているのが興味深かった。

 私小説と云えど、確と"小説"なる語が付くとおり、これはあくまで小説(フィクション)である。当然、小説中の事実が、すべて現実の経験とイコールするものでもない。

(中略)

 小説である以上、すべてのパーツにある種のフィルターをかけるのは当たり前のことである。

 ならば、そのフィルターとは一種の脚色を施すことかと云えば、それもまた、そうではない。単に事の主観性を、客観性に変じさせる濾過装置と云う程度のものにすぎない。そしてこの装置は、私の場合、その孔はひどく細い。いっぺんに大量の事物を投入すると、すぐに作動が利かなくなる。したがって一つの作に盛り込む主観的事実には、実際のところ事実であっても割愛している部分が多い。

 私小説が、必ずしも作者の経験とイコールとはならぬ部分がここにある。

 一つの経験を盛り込むにしても、作者が取捨したパーツのみで語ってしまえば、その経験は実際の経験とはまた異なるものにもなろう。

 書かなかった部分にこそ、本来、作者が語りたかった痛みの部分もかなりある。

氏がいうには、私小説と実体験の決定的な違いは、私小説では物語の構成のための取捨選択があり、すでに作為があるから、それ以上に経験を脚色することはないというわけ。これを宿疾的制約と呼んでおり、反して、人物や話の展開を都合よく脚色するともはや私小説にはならないと書いている。

エッセイのなかで創作の手順も明かされている。それは、自らの行動記憶の断片を集め、関係した人物をメモ帳に羅列し、起承転結のかたちを取りながら展開を組み立て、設計図を作り、あとは、全面的に設計図に則して書いていくらしい。

 

西村賢太私小説を読むと、たしかに「どう書くか」については誇張されているように感じられない。いささか古風な文体ではあるが、それを除けば、きわめて明け透けに事実が描写されている。ような気がする。

そもそも文章を書くという行為は、何を書くかと題材の選択の時点で、すでに書き手の意志が強く反映されている。このブログでは基本的に感想を書いているが、「どう思ったか」を書くより前の、「何について書くか」の時点で、すでに書くことは始まっているのだろう。だから俺は作品の感想のなかで、暴力や生と死、機能不全家族にばっかり目を向けて書いてしまうから、俺が書く文章はだいたい似たようなものになってしまう。

 

もうひとつの見所を挙げるとすれば、自身の作品が映画化された『苦役列車』への強烈な批判か。エッセイのなかで何度も取り上げている。

それは例えば、鑑賞前から「余程脚本に工夫をこらさない限り、まず鑑賞に堪えぬものになろう」とあり、さらに鑑賞後も「自身の創作絡みの周辺においての一汚点」、「中途半端に陳腐な青春ムービー」、「金を払って二度観る趣味は到底ない」とさんざんにこき下ろしている。批判する理由も色々とある。

その一連の批判のなかで納得させられたのが(俺は映画は映画で楽しく観ていたが)

 また貫田の日雇いの、その悪循環の厭ったらしさが全く現れていないのは、拙作を原作とした以上は致命的な欠陥だった。(中略)貫多が三畳間と日雇い現場を行き来し、貰い立ての日当からサイダーを買い、立ち食いのおそばをすする、その一連の反復運動がなければ、彼の現状にとどまっている必然性が何んら感じられぬことになろう。

である。これ、映画の予告編動画で「俺には「何も無い」がある」とキャッチフレーズが付けられているのを知っていると、「いやいやそれ全然なってねえじゃん」と大枠からもう批判しているから手厳しい。『苦役列車』を「中途半端に陳腐な青春ムービー」と繰り返し書いていた理由のひとつとして納得できるものだった。俺は原作も映画もだいぶ前に視聴済みで、森山未來の演技がすばらしかったと記憶していたのもあって、氏がここまで批判するのかと興味深かった。

西村賢太の小説は、だいたい似たりよったりの日常が延々と書いてあるけれど、しかしそれこそが、人足の門をくぐった先にある「悪循環の厭ったらしさ」の的確な描写になっているから、その反復運動が演出上の都合で省略されて代わりに起伏に富んだドラマに仕立てられるのは好ましくないのだろう。

 

その他、作品で書かれなかった実体験の話や、編集者への恨み節、私小説への矜持などエッセイは多岐に渡っている。エッセイではあるが、私小説とさほど変わりがなく、本当に一貫した立場で書いているのだなあと思った次第。

苦役列車といえば、ドレスコーズの主題歌の「Trash」がいい。かブログで触れたことはないが、カラオケに行くと(大体一人)毛皮のマリーズドレスコーズはよく歌っていたりする。


ドレスコーズ - Trash(medium version)