単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

ちゃんとした文章が書けるようになりたかった

 だいぶ前に書いたやつ。

 「当事者エッセイの文章がうますぎて気に入らない」というような、読者感想文で褒められたこともなく、なぜか勉強はしてないけど国語の成績だけはよかったわけでもない俺の、ただの妬み僻みでしかない記事。

 ちゃんとした文章が書きたかった頃に書いたのだろう。その頃の俺はもういなくなってしまったので公開できるようになった。

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 最近のおれは「発達障害」という枠組みを通じて自分を捉えなおす試みをやっている。その理解を進めていくためにもっぱら本に頼っていて当事者エッセイを読んでいる。

 そしておれは当事者エッセイの文章の美しさを前に引っかかってしまう。

 だいたいが文体は研ぎ澄まされてていて、パラグラフごとに情報が整理されていて読みやすい。「言語化しにくい体験」がうまく言語化されている。分かりやすい。

 思わず線を引きたくなるいい感じの表現、比喩が出てくる。おれの知らない語彙を使っておれの知らない概念を援用している。でも、分かりやすさは抑えていて、けっしておれが書くようなポエム(蔑称としての)と馬鹿にされるような文章ではない。

 きっとおれが計り知れないほどの苦労や研鑽がその文章を支えているのだろう。

 深く詳しい自己理解と社会的に正しい自分語りがある。たいへんよくできている。愛想がいい文体、心地よいリズム、淀みなく展開される物語、起承転結がしっかりしている文章構成。これまたたいへんよくできている。

 なんてまあ文章がお上手なことでしょう。読書感想文で賞を取ったことがあるというエピソードは納得するしかない。

 


 当事者コミュニティには排除的圧力の息苦しさがあるらしい。

 たとえば収入の多少、学歴の高低、職業的スタイタスの上下、結婚経験や子ども有無など。ちなみにおれはそれらすべてが無い側。おまけに伝える能力も、コミュニケーション能力も無い側。無い。

 『つながりの作法』によれば「ありとあらゆる多様性を口実に、次々に分断線を引き続けることも生じやすいのである」。

 おれもまた分断線を引いてしまっている。文章の巧さ。それにまつわる表現力の豊かさ。そこに対して。

 おれがもっていないそれに決定的な差異を発見してしまい「おれとは違う」と線を引く。

 

 「連帯しましょう」と差し伸ばされる左手の薬指に結婚指輪があったところでなんともおもわない。そこには線を引くことはない。しかし「連帯しましょう」と書かれた本の文章のうまさを目にすると、おれとは違うと線を引いてしまうのだ。

 「ちゃんとはできない」と語るときの言葉があまりにも「ちゃんとしている」。

 それに比べて自分の言葉はどうして不器用でかっこ悪く曖昧で破綻しているのか。おれとは決定的に違う、違うものだと分断線を引いてしまうのだ。

 どいつもこいつも他所いきのちゃんとした文章を書いていてみじめな気持ちになる。残酷なまでの差を目にしてしまう。

 

 もちろんそこには編集者の存在もあるだろう。苦しみを言葉にするために書きつづけてきたのだろう。そうじゃないという思いを何度も何度も繰りかえしてついにそのように書けるようになったのだろう。

 その努力は適切に評価されるといい。「才能」なんて安易な言葉で片付けてしまうのは失礼だと思う。

 文章に技術は介入する。その技術は経験によって向上できる。のだろう。俺はそうではなかったが、そのようらしい。

 だからおれは線を引いてしまうといえどもその線は濃くはない。薄くはある。

 

 それでも、それでもなのだ。俺は線を引いてしまうし、あっちとこっちに分けてしまう。こっちには俺しかいない。

 そういうのがよくないと書かれた本を読みながら、そうしてしまう。

 おれは生きづらさについて書かれた本を好んで読むけれどその生きづらさの中に「書きにくさ」はあまり含まれていないようだ。

 おれはそのことにひどく苦しんでいる。ところで、あなたはそうではなさそうだ。

 俺にはなかったなーと、感じ、そして辛くなった。勝手に。

 

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 この記事はすごく、なにがすごいかといえば、この文章から溢れでる「でも、そんなに悪くないんじゃないのこれはこれで」と言ってもらいたい感がすごい。

 かつての、というか数か月前くらいまでの、俺の文章力へのこだわりっていったいどこから発生したのだろうか。なんでそんなに文章がうまくなりたかったのだろうか。創作には一切の興味ないのに。文章なんてたまにブログで書くぐらいなのに。なぜ。

 かつては文章力へのこだわり、もしくは憧れがあったのだ。それも、それなりに切実なものが。

 それを失くしてしまった今ではただの謎でしかない。