これは先週の休日の話で、先ほどからサーモンランやバンカラマッチの合間に記事を推敲し、投稿している。
スプラトゥーン3のサーモンランがおもしろい。
今日は、美容室と食材の買い出しに出かけた以外、ほとんどの時間ずっとサーモンランをやっていた。
サーモンランをやりながら、マッチングの待機時間に『親愛なる孤独と苦悩へ』というフリーADVを少しずつ読み進めていた。以前に購入したはいいが使い道が特になかったオーディオ分配器のおかげでゲームをしながらゲームができる。
そういえば、以前に甥の家に遊びにいったとき、姪がFortniteのマッチング待機中にスマホで音ゲーをやっていてずいぶんと器用なことをやっているなあ、と感心したものだが俺も似たようなことをやっているのだった。
一方で、生活環境は穏やかに悪化している。
法令に基づくガス設備調査のご案内が届き、インターネット手続きで予定日を最大限まで繰り越した。その他、緊急ではない生活のやるべきことは当然のように後回しにしている。それまでも生活環境はたいして良くなかったが、家の鍵をなくし、鍵をかけずに一か月ほど暮らしてからは悪い方へ加速していっている。
べつに失うものなんてないよなという気づきのせいで歯止めが効かなくなった。鍵がない暮らしによって最低限のハードルが下がりに下がってしまった。
それでも最低限はできている、と思う。最近も火災報知器の取り換えなどで業者が部屋に立ち入るときに片付けて(という名のベランダに緊急避難)動線は確保できていたし、それはもう最低限やれているってことに違いないでしょう。そういうことにしている。
一人暮らし(職場の寮暮らしも数年含めれば)をしてからもう十年は経過しているが、生活環境が悪化していっても破綻せずにやっていけているのは、もう十分に生活能力があるといっていいのではと思うようになった。
なんというか、少なくとも俺にとっては「職なんて選ばなければいくらでもある」というのはひとつの事実だった。とはいえ、そういういくらでもある職は、将来性も展望もなくただ様々なものが擦り減っていく一方だから、おそらく数年後には同じことを言えなくなっているに違いないだろう。というか、状況次第では一か月後ですらどうにもならなくなっている可能性すらある。
それもまだ生きているのが原因なので、もし生きていなければ別に問題にならないときている。死から安心感を捻出している。死はすごくて、いくらでも安心や不安を引き出せる。まあそれはアルコールや抗うつ剤などの助力があってこそなのでタダではないのだが。
つまりは生活できてる。
一人暮らしを始めた頃は、料理にこだわっていた。「Cooking for Geeks」というぶ厚い料理本を買い、魚を捌いてみたり、ぶりのあらを買ってぶり大根を作ってみたり、鶏肉の低温調理をしてみたり、ときには鳥のキンカンに挑戦してみたこともあった。
それももうだいぶ前の話で、最近はもうずっと同じものばかり食べている。
思うに、一人暮らしの才能があるとすれば、それは同じものをずっと食べつづけられることではないだろうか。あと付けくわえるならば、部屋の環境の悪さ(狭さや不具合)に耐えることができることではないだろうか。
なにより家賃と食費の二大出費が問題なのだ。
その水準は、いくらでも下げることができた。俺はそうだった。おそらく、まだまだ下げられるのだろう。そうであるのは俺がそのような気質というだけなので、これに関してはただ運がよかったのだろう。俺にとっての快適さには、食やインテリアはたいして関係がなかったようだ。
とはいえ騒音はストレスになる。いま住んでいるマンションは空き室が多く、隣人がおらず、そのおかげで騒音がほとんどなくて快適である。
スプラトゥーン3のサーモンランは楽しくて、でんせつカンストこそ時間も腕前も足りずにできていないが、上手くなっていくのはただただ楽しい。そういう休日だった。