単行のカナリア

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『明日からできる大人のADHD診療』の感想とメモ

 書店に置いてある発達障害に関する本を大別すれば、あるある系エッセイマンガ、ライフハック本、症例と理論的枠組みに軽く紹介する新書、学問的研究書などに分けられる。おれの発達障害的素質について考えさせられる出来事があって、いま一度見つめなおしたくなったのもあり、発達障害に関する本を読みかえしている。せっかくなので感想やメモを書き残したい。

 おれは精神科医の書くものが好きだ。ADHDの当事者エッセイは数多くあれど、それを診断する精神科医の立場の本はわりとめずらしい。ADHDをメインの話題にしているの本もめずらしい。『明日からできる大人のADHD診療』は、一言でいえば同業者に向けた診療のノウハウ集だろう。そもそも患者や当事者に読まれることをあまり想定していないおかげか、臨床のややこしさ、症例や治療法、金の話=経営ノウハウなどが明け透けに書かれている。基礎知識こそ今ではインターネットで収集できるような程度のもので目新しさはないが、いざ知識が活用される診療現場の実例や勘所はおもしろい。作者もまたADHD気質があって当事者ということもある。運転中に金本の応援歌をみんな歌っていたら楽しくなりすぎて事故を起こしたというエピソードがでてくる。想像したらほほえましく、まったくシャレにならない。

 多くの精神科医ADHDの人に困っているらしい。この本が書かれた経緯もそのような現状に危機感を抱いたからとある。

 前書きで、発達障害は「診断するのがややこしや」「治療するのがややこしさ」「薬に頼れないのがややこしさ」と、「ややこしやの三つ組み」があるという。患者も困っているし、精神科医も困っている。おれも困っている。

 それで、現状、精神科に「自分はADHDではないか」と診断を受けにくる人たちが増えているらしい。

 その理由として、

  1. 疾患喧伝
  2. 過小診断から適正診断へ
  3. 社会の許容度の低下により、症状の顕在化
  4. エピゲノム、エピジェネティクスな遺伝子変化

 の四つの要因が挙げられている。その中でも、やはり1の要因が大きいのではないかとおれはおもう。いわゆるブーム。うつ病のように。この、ADHDが社会で広く知られるようになるまでの歴史的変還を分かりやすく図にしたものがあった。

 この経緯を補足するならば、さらに近年では当事者運動の活発化や、エッセイマンガやSNSの流行がブームに合流し、さらによく知られるようになったのだろう。

 よく言われるように、発達障害は連続的スペクトラムの概念である。誰しもが忘れ物をしたことはあるだろう。しかし、それが毎日だったら。それが住民のデータが入っているUSBだったら。というような話で、これはつまり「程度と頻度の問題」であり、「あるなしの問題」ではない。、ADHDは特にこの量的な要素が問題視される。その考えを敷衍すれば、個人の特性が変化せずとも、社会的な許容度が下がってしまうと、ADHD的ミスの程度と頻度が問題になるラインが引き下げられて、問題が前景化するということでもある。

 『明日からできる大人のADHD診療』は「大人の」ADHDを対象にしている。大人になると、ADHDの症状の表現が変わってくるという。どういうことかといえば、例えば、不注意は生活スキルで代償できるようになる。多動は空間的なものは落ち着いてくるが、内面的な多動症状は依然として見られる。衝動症状は、成人はより深刻な結果を招きやすい。など。いずれにせよ、大人になると見かけ上の症状は減弱するにはするらしい。が、大人だからこそ可能になる行動が増え、ときに一つのミスが致命的になりかねない。分かりやすいのが車の運転とか。

 診断の基本的な流れは、問診表・アンケートによる愁訴症状を聞き取る→生育歴の聞き取りと、心理検査や知能検査の結果を参考にする→診断する。このとき、依存症患者の離脱症状や、双極性障害躁状態ではないかと疑うのが重要らしい。だいたいが複合的な症状になっているので、そこは慎重に鑑別し、中核要因を炙りだし、発達障害かどうかの診断を行う。安易なチェックリスト的判断に陥らないように、包括的な視点を持ち、各種の検査所見をつき合わせて判断をする。それが診断の難所で、医者の経験や知識がものをいうようだ。

 素人判断が問題になるのは、症状こそチェックリストに当てはまるが、その中核要因がADHDではないときだろう。勘違いし、本来ならば手当すべき症状を放置し、悪化させてしまう。その危険性がある。そこらへんは知識と経験がものいうだろうから、インターネットや本で知識を拾ったくらいでは難しそうと思った。

 さて、あなたをADHDと診断を下しました。じゃあその後の目標設定はどうするのか。これに関しては、そもそもが治療のアプローチの選択肢が少ない。ライフハック薬物療法認知療法・応用行動分析・SSTなどの横文字のあれやこれくらい。そのほとんどが、自助努力を高めるものになる。ADHD精神障害者三級と診断されても、障害年金の対象にはならない。美術館や博物館の多くは無料になるし、障害者雇用枠に移行することができる。障害者雇用に関してはそれに関する制度が整備されてきていて、比較的明るいニュースが多いような気もする。現状はさておき、そのような方向に歩んでいる。本では、会社から診断を貰ってこいと言われるケースが挙げられていた。

 それから、ADHDと診断されたことにより、それだけで症状が軽減する人も少なからずいるらしい。これに関しては、「HSP」や「アダルトチルドレン」のように、ADHDの診断を受け入れ、そのような説明モデルを自分に当てはめることで、訳がわからない生と折り合いがつけやすくなるおかげで、精神的安定に傾くのだろう。

 ADHDという診断結果は受け入れやすいが、自閉症という診断結果は拒絶されることも多いらしい。自閉症はパブリックイメージが悪い!ようだ。まあ数年前までは「アスペ」が侮蔑語として使われるのをたびたび見かけたくらいだし。おれは「発達障害という才能」系のスピーチが嫌いだったが、そう喧伝することによってなにかしらのパブリックイメージの改善の助力になっているのならばなにもいうまい。

 そして、金についてのあれやこれについても教えてくれる。当然ながら診療は「商売」である。

患者の負担について詳しく書くと、再診料69点、通院精神療法330点、処方箋68点、一回の通院で467点である。医療機関でよく誤解されるのが、「薬を出せば出すほどお医者さんはもうかってんいるんじゃないか」ということである。全くそんなことはなく、処方箋料の68点がもらえるだけで、お金にしたら680円なので、そんなお金のために薬を出してやろうということは全く思わない。逆に薬の種類が多くなればなるほど、何剤以上投与ということで、処方箋料は減点になるのである。

 さらに、

 ストラテラコンサータなどの薬を処方し、ADHDという保険病名をつけ忘れると悲劇が起こる。査定にあうと、調剤薬局から引かれるのではなく、医療機関から薬代を全部差し引かれるので損失になるのだ。

 という。医者には薬を適当に出すインセンティブがあまりないようだ。これは知らなかった。製薬業界の話はしない。書いてなかったし。筆者の薬への考え方は、「その薬を服用して安定しているときに生活スキルを獲得できれば、断薬後もそれを活用できる」といったもの。やはりどうしてもADHDは自助努力が求められる。というか、ADHDの実生活上の問題は、ライフハックで改善できる領域に集中して存在している。それと、ライフハックに頼らずとも金があればわりと迂回できる問題は多いよなあ、とつくづく思った。し忘れをカバーしてくれるスマートホーム対応製品とか。金で人を雇うとか。

 そもそもADHDは、注意欠多動性障害ではなく、注意欠多動性障害と表現するのが的確らしい。たしかに注意欠如だろう。

 本書の最後には「手段を目的化してはいけない。治療が目的ではなく、幸せになるための一つの手段にすぎない」と念押ししている。これ大事ではないでしょうか。ADHDと確定診断を受け、その結果、幸せから遠ざかってしまうようならばそれを受け入れる必要はあるのか、という視点は忘れないようにしたい。なにせわざわざ絶望するために心療内科のドアを叩くことはないのだから。

 他にも参考になった話を書き残す。

 ASD優位よりADHD優位のほうが薬剤反応性が良好と感じる。八十歳で診断を求めてくるケースもあるらしくさすがにそれは診断できないとのこと。ADHD自閉症の混同型の人は声が大きい。ストラテラは効果が出るまでに一か月もかかるのになぜADHD患者が飲みつづけられるかは「適当がある薬を飲んでいるよすががある」から。などなど。

 と、なかなかおもしろい。Twitterで「メンクリの先生が~」「担当医が~」という語りが流行っているし、この本もそこに位置づけられるものだろう。ただ気になった点が一つある。著者は、ADHDを「神経生物学的な状態」と断言するように、いわゆる障害の医学モデルを採用している。自閉症に比べると、ADHDは医学モデルに近いだろう。が、しかし、社会環境との相互作用によって問題が表れるという視点でもっと語ってほしいような気持ちもあるが、しかし注意欠如という特性は、大抵の生物にとってどのような環境でも致命的になりかねないと思わないでもない。