単行のカナリア

感じて想する

『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える』感想とメモ

 

 この本はphaさんやまくるめさんがTwitterで紹介していて読んでみた。文章こそ柔和だがその内容は辛辣。少し思い当たるくらいならいいが、かなり思い当たってしまってらしんどくなる。以前、おれはしんどくなってページをめくるのを諦めかけた。

 前書きから「他人を不愉快にしてしまう病気」と言いのける。

たいへん残念なことですが、多くのいわゆる健常者にとって、アスペルガー障害に悩む人々の言動が、しばしば不愉快であることを否定できません。もっと言ってしまえば、アスペルガー障害とは「悪気がないのに他人を不愉快にしてしまう病気」でさえあるかもしれません。

 そして、アスペルガー者がどんな人かを紹介するための症例が紹介される。ここが辛辣。「人を不愉快にさせている」ケースが丁寧に描写されるから、身に覚えがあると動揺して落ち込みかねない箇所なのだ。そのケースでは、著者が千回以上の臨床によって共通パターンを見いだし、現実らしく構成した、架空の人物が三人ほど登場する。あまりにマイペースな島田さん、不器用すぎて作業に支障をきたす黒金さん、まったく融通が効かない堀川さんが出てくる。

 これほどまでに身も蓋もない症例はめずらしい。それぞれ少しだけ抜粋。

 マイペースな島田さん。 

職場の先輩「島田は、本当は悪いやつじゃないんですよ。たぶん。まあ、鈍いっていうか、イライラさせられるのは事実ですけどね。こっちの話は通じないし、どうでもいいところにこだわって変な質問してくるし……。しかも、同じことを何回も連続で聞いてくるんですよ。全然、教えた仕事を覚えてないみたいです。ふつう、むかつきますよね。それも、当然だ、みたいな態度で聞いてくるんですよ」

 次に、不器用すぎて作業に支障をきたす黒金さん。思い当たる節があって心がざわつく。「あれじゃあ何をやってもだめ」と人に言われたことはあるような、ないような。

医師「でも、仕事は複雑なんでしょう?」

黒金さんの同僚「うーん、複雑っていってもね、おれらでもできる仕事っすからねー。黒ちゃんの後輩でバカの小林っていう奴がいるんですけど、そのバカコバでも三日でできることを覚えないんだから、もうふつうじゃないですよ(略)でもまあ、なんか可哀想ですよ。変な意味じゃなくて、転職したほうがいいと思うなあ。あれじゃあ何をやってもダメでしょうけど」

 最後のまったく融通が効かない堀川さんは、おそらく典型的な「アスペルガー」者像だろう。

医師「中学はどうだったの?」

堀川「…………。」

医師「なんか嫌なことでもあった?」

堀川「中学では、イジメる人がいて、嫌でした。何もしないのに寄ってきて、嫌なことを言うんです。僕は下ネタとか嫌いなのに、わざと言って、僕が怒ると喜ぶんです。」

医師「それは大変だね。どうしたの?」

堀川「馬鹿どもは無視することにしました。どうせ社会の底辺に行く人間ですから、まあ、僕も結局は同じになってしまったんだけど……。」

 と、まあ身も蓋もなくさんざんな書かれようである。症状を寄せ集めした架空の人物とはいえども、ここで心が折れる人がそれなりに出てくるようだ。おれがそこにいたので、おれもきつかった。

 しかしこの箇所は、アスペルガーの人の生きづらさを語る際に重要でもある。あえて他者の視点(職場の同僚や先輩への聞きとり)を載せているのは、アスペルガー者の生きづらさが「悪気がないのに他人を不愉快にしてしまう病気」という側面を前面に押しだすためなのだろう。さらに、筆者はアスペルガー者の立場からすれば「ふつうの人がアスペルガー者にとって迷惑な存在である」という逆からみた視点も外さない。お互いに相容れにくいということである。コミュニケーションが双方向性の行為であることを明示している。そのように基本的には優しい本ではあるのだ。もし内容が厳しいと思ってしまったならば、むしろ厳しいのは本ではなく現実がそうだからだろう。

 一般的なライフハック本にあるような、アスペルガー者が「ふつう」に歩み寄って自助努力で治療して定型発達者になろう、というような提案はない。むしろ著者はそのような言説には異を唱える。「重要なのは、アスペルガー者を健常者に見せかけることではなく、アスペルガー文化をエンパワーメントすることなのです」という文にこの本の姿勢がよく表れている。とはいえ、双方向性であるのだから、けっして自助努力が必要でないわけではない。

 さて、「なぜ生きづらいのか」を説明する理論についての話も出てくる。

 アスペルガー障害の説明モデルには様々なものがある。統一的な理解がないのが現状で、いずれ紹介する『〈自閉症学〉のすすめ』という本では、なんと十八の学問分野で説明が試みられている。この本では、認知心理学からの着想を得て、筆者が症例を通してまとめあげた「情報処理過剰選択仮説」という仮説が出てくる。筆者はこの仮説はあくまでも臨床的な介入のための補助的な糸口(理解や工夫のための道具)のために採用していると強調する。

 その、「情報処理過剰選択仮説」はこのようなもの。 

シングルフォーカス性……注意、興味、関心を向けられる対象が、一度に一つと限られていること

シングルレイヤー思考特性……同時的、重層的な思考が苦手、あるいはできないこと

ハイコントラスト知覚特性……「白か黒」のような極端な感じ方や考え方をすること

 さらにその周辺的な特性として、「記憶と学習に関する特性群」「注意欠陥・多動特性群」「自己モニター障害特性群」「運動抑制関連特性群」「情動制御関連特性群」があるらしい。

 図もある。図はありがたい。

 中核的特性と、そこから発展する周辺的特性。生きづらさは、それぞれで大きく異なるこれらの特性が、環境との相互作用のなかで現れることによるという説明。

 この仮説によってアスペルガーの生きづらさを一つずつ詳細に説明されている。そのなかで、興味深い点をかるく書き残したい。

・いわゆる器用さは、「微細協調運動」と「粗大協調運動」で発揮されるものに分けられる。アスペルガー者はそのどちらかか、または両方が苦手であることが多い。少しわかる。

・物事の判断を「白か黒」の極端になってしまいやすいのは、脳というハードウェアそのものが、中間部分のない極端なハイコントラストを生みだす特性をもっているから。

・優先順位の決定は、複数の属性の層にわたって解決しなければならない。シングルレイヤー思考では難しい。

・空腹の感じかたがハイコントラストで「空腹」「満腹」の二つしかない場合は、適切な自己コントロールができない。

・感覚過敏性の一部をハイコントラスト知覚によって説明すると、そのような聴覚を持っていれば、ほとんどの音は大きすぎるか小さすぎるかになってしまう。少しわかる。

 

 ところで、アスペルガー者へのアドバイスが面白い。猿山原理というのが出てくる。

・「何をしたら相手が怒るのか」がわからないというのは、基本的には他者の挙動に関する内的モデルが形成できていない

・そして、だいたいが体面の問題になる。

・猿山原理という理解を助けるアイデア

私がアスペルガー者に体面を説明するときには、わかりやすいように、"猿山原理"と呼んでいます。サルには、マウンティングという行動があります。優位の個体が劣位の個体に対して"馬乗り"のポジションを取ることです。集団のなかでの優位劣位の序列を確認する行為とも考えられます。(略)一般の人は、自分の社会的な状況が相対的に引き下げられることを極端に嫌うものです。どんな状況であれ、人は優位に立つことを不快に思うので、もしも相手を怒らせないようしたいと願っているのなら、猿山の劣位の猿のように常に下に立っていることを表示しなければ、攻撃されてしまいます

 体面はマジで大事。本当に大事なのに、おれは現場監督という職で痛い目にあってそこではじめて理解することができた。誰にでも体面がある。わたしは体面とか気にしません、という顔をしている人にも体面はある。おれにもある。『喧嘩両成敗の誕生』という本によれば、中世の日本はその体面をめぐって殺し合いが頻発し、さらに復讐の連鎖で殺し合いが過激化していた。その状況に歯止めをかけるために、「喧嘩両成敗法」を成立させて、関係者一同処分することでトラブルを解決していたとある。それくらいに体面は厄介なのだ。少なくとも数百年前まではそうだった。よっぽどの覚悟と必要がないとき以外は相手にマウントを取らない、というのはアスペルガー者にとって、いや誰にとっても心に留めておいたほういいだろう。マウントを取っているつもりがなくともマウントを取られたと受け取られる以上、体面問題は気をつけすぎるということはなさそうだ。まあだからって卑屈になるってわけでもないが。でもそれくらい大げさにやったほうがちょうどよい、ということもある。

 で、体面のクリティカルな部分が何なのかは人によって大きく異なるせい。そのせいで、いくら気をつけようとしてもそれがまた難しいのだが……。

  

 話を適切に要約できない問題について引っかかった点。要約という作業は、「要素に分割、要素に優先度をつける、部分の関係から全体構造を把握、その構造を最小限必要な情報で出力する。これらをアスペルガー者は特性によって苦手とする」とあったが、これはどうなのだろう。やや引っかかった。話を適切に要約するという作業は、簡単にいえば、話のサビがどこなのかを聞き取る作業ではないか。必要とされる情報処理は、発言内容そのものではない。発言者の非言語コミュニケーションによって発せられる重要度や優先度などのメタ情報にこそあるだろう。声色、声の音量、目線や表情筋などからそのメタ情報を受けとり(ここが察するという厄介な作業)、そのメタ情報を基にして内容を構成していく。このときメタ情報が入手できないと、箇条書きの情報をそのまま手渡されてしまうような状況になり、しち面倒な情報処理をヒントもなしにしなければならなくなる。このように、どちらかいえばコミュニケーションにまつわる問題が関わってくるのでは。とおれはおもった。

 挙げられる特性が自分にすべて当てはまればそれはそれで楽なのだが、そうはならずに、特性はそれぞれで濃淡があるのが生きづらさをより深める。

 

 もう話がいったりきたりしているが感想メモなのでつづける。読書メモではない。

・発達期の環境は過去のものであって、その影響は現在の信念や特性を介してのみ、成人期の適当に影響するわけです。その信念にアプローチしていく治療法が、認知療法やカウセリング。

・「他人の気持ちを考えるように」というのはナンセンス。善悪といった価値の問題にせず、損得の問題や慣習の問題として解決するのがよい。

・大事なことは最小限の社会の約束事さえ守れば、社会から最小限の便宜を提供してもらえる枠組みを保つこと

・社会規範に過剰適応してしまい、「かくあるべし」と教条的になってしまうと、それはまた別の不適応のパターンを生みだす

・感覚過敏は刺激に暴露していけば慣れるというものではない。「逆耐性減少」というさらに過敏になってしまうこともある。

 

 『アスペルガーの人はなぜ生きにくいのか?』の魅力は、生きやすさを確保するために、やや常識外れで(常識とは?)エッジが効いた提言にこそあるかもしれない。その提言というのは、環境調整のために「対人交流の最小化」を視野に入れること、そして「働くのをやめる」という選択肢も考えることなどある。それもまた難しい。なにせ発達障害の診断をもらって障害者手帳三級を習得したところで、「働かなくていい」という環境を構築することはだいたいできない。とはいえ絶対に不可能でもなく、生きにくくて死ぬくらいならそういう選択肢もありうるというのは救いになるだろう。

 

 最後は対人関係の問題への戦略がふたつ提案される。ひとつは「あえて心を探求する」。もうひとつが「心を理解しようとするのをやめる」。というか、結局「心」の有無に関わらず、問題は予測可能性を確保できないことだから、個人の複雑性とその背景にあるみんながいつの間に知っていた規範とか慣習とか共有されている価値観を、自分なりに少しずつでも把握していくしかない。なにより相手の体面に気をつけながら、ときには対人関係を最小化しながら。人間という、どのような入力があればどのように出力されるか刻刻に変化しつづけるブラックボックス、不安定な情報処理装置、その変数をできるだけ把握する。そのためには相手の目を見て、相手の声をよく聞いて、相手の手ぶり身ぶりのメッセージを見逃さず、ってそれが出来れるならばこの本は必要とされないだろうけど。人間観察は趣味ではない。生存のための労働なのだ。まったくなんていうこの生きにくさ。

 

 あと堀川くんの話。

堀川「自分としては哲学や社会学などは、戯言だと思います。自然科学は明晰なので不快感はありませんが、別に好きなわけではないので。」

 おれもかつては「人間について知りたいなら、脳神経科学だけでいいじゃん、哲学いらんやろ」とか思ってしまっていたから、堀川くんの発言はけっして他人事ではない。堀川くんにおすすめ本が二つある。暇なら読んでみてほしい。哲学なら『科学を語るとはどういうことか -科学者、哲学者にモノ申す』と、社会学なら『マンゴーと手榴弾: 生活史の理論』を読んでみてほしい。なぜ堀川くん明晰でないと言ってしまうような戯言が『学問』という看板を掲げていられるのか。その端緒でもいいから知っておくと、人を不愉快にさせることが今よりかは少なくなる。ただ知識を増やすだけでも、回避できる不愉快さが少しはある。その少しを常時意識して増やしていくしかない。それが、そういうちゃんとやんなきゃいけないのが、この生きづらさなんだろうなと思った次第。